第12話

 翌日の教室は、その日が本来の登校日とは思われないほど閑散としていた。登校している生徒より空席の数のほうが多く、誰もがその現実に見て見ぬふりを決め込んでいるような異様な雰囲気が漂っている。

 中島は緊張しながら、窓際の席に座って晴れた空を眺めているはずの、心からの謝罪を捧げるべき対象である、儚げな目をした恋人をさがした。

 いなかった。

 あと数分で始業のチャイムが鳴ろうとしているのに、桃瀬はそこにいなかった。四月から先週までの平日、中島が教室に入ってくる時にはいつも、桃瀬はそこにいたのだ。

 中島は全身から噴き出す冷や汗を感じながら、やっと心を許せるきっかけを掴めた友人二人がいることをそこに祈りながら、別の席へと目を転じる。

 いなかった。

 欧陽も山田も、いなかった。この二人も中島が登校するときには席に着いていたのだった。もちろんマイケルはいない。

 頼るべき友人たちはみな、いなくなっていた。

 中島が呆然として立ち尽くしていると、教室の扉が開いた。

 後ろに補助用ロボットを連れて、一ノ瀬は寝ぐせを手で押さえながら入ってきた。教壇に上がり、手を額にかざして遠くを見渡すような仕草をした後、補助用ロボットの台に乗せられた出欠簿をつまむ。

「欠席者は一五名。そして」

 と言いかけたところで、中島に目を留めて笑いかける。

「なに突っ立ってるんだよ。汗もびっしょりだし、とりあえず座れ」

 それでも中島が睨めつけていると、一ノ瀬は気怠そうにそばまで寄ってきて肩を押しつけるように手を置いた。

「みんなお前を待ってるんだよ。なあ、俺が間違ったことを言ってるか。文句があるなら言ってみろ」

「山内」

 中島は呪文を唱えるように囁いた。

 ほんの一瞬、一ノ瀬は表情をこわばらせたが、すぐに不気味な高笑いで応じた。

「お前はなかなかの食わせ者だな。放課後、男二人で話をしようじゃないか」

 ほかの生徒の戸惑いの視線を浴びながら、中島はまだ睨み続けている。

「返事ができないのか。黙っててもいいからとりあえず座れ」

 一ノ瀬は爪を中島の肩に食い込ませて座らせて、耳元でささやく。

「放課後までに『あれ』が意味することを考えておけよ。頼りの欧陽はいないんだから独力でやるんだぞ。もし誰かに頼ろうとすれば、桃瀬がどうなっても知らない。もちろんお前のこともな」

 立ち上がろうとする中島の肩を抉るように手を離すと、一ノ瀬は教壇にもどった。

中島はそれを忸怩たる思いで見ているしかない。中島の立場は一ノ瀬が放った二言三言で、教師を脅迫する生徒から、教師に脅迫される生徒へと転落してしまったのだ。 

 肩にのしかかる痛みが中島に無力感を湧き立たせる。

 自律型ヒューマノイドによる論理的類推の限界――現実と虚構を隔てる透明な壁。

 この論文の内容を理解できれば、ロボットに関する諸々や生徒たちの転校についての謎がすべて明らかになると、一ノ瀬は言いたいらしかった。逆に、その手段を通じてでしか、中島はこの状況を脱することは出来ないと示しているのだ。

 一ノ瀬は陽気に声を張り、転校の知らせを届ける。

「欧陽、山田の二人は、家庭の事情で、転校することになった」

 生徒たちは小刻みに頷き、互いに目を合わせ、中島のほうを見つめた。

 次はお前の番だと示すようでもあり、お前がすべての元凶だと示すようでもあった。

 中島は身を縮こまらせて耐え忍ぶしかなかった。しかしそんな状況にも救いはある。

 まだ、桃瀬は転校していないのだ。何かしらの事情で欠席しているのはたしかだが、自分の頑張り次第でどうにかなるかもしれないのだ。

 重く沈んでいた心が、わずかばかり安堵に浮いたのを中島は感じた。

「さてここ最近、欠席者が増えている。まさかあいつら、学校を休んで旅行にでも行ってるんじゃないだろうな」

 一ノ瀬がおどけて言うと、生徒たちは乾いた声で笑った。

「連絡事項はこれくらいだな。じゃあまた六限後に」

 一ノ瀬がちらと中島に目をくれて、補助用ロボットを引き連れて廊下へと出ていくや否や、中島は桃瀬に連絡した。

 昨日のことは申し訳なかった、桃瀬はどういう事情で欠席しているのか、一ノ瀬は山内という元ロボット工学者だった、一ノ瀬に変なことはされた覚えはないか、欧陽と山田も転校してしまった、だから桃瀬のことも心配している、これを見たらすぐにでも返信がほしい、自分が頼れるのはもう桃瀬しかいない。

 お前はロボットじゃないのか、とは聞かなかったし、聞けなかった。

その質問は悪影響しかもたらさないと思ったのだ。

 桃瀬がロボットであったとしてもなかったとしても、本人が自分をロボットだと認識していない限り、ロボットかと聞かれるのは不快なはずだった。加えて、中島は桃瀬の返答を恐れていたのだ。うん、私はロボット、などと言われたなら、もはや誰を信じていいのか分からなくなってしまう。二人で過ごした時間が嘘になってしまう。

 中島は思案を巡らせたあと、期待と緊張に震える指を動かして、二人にも連絡した。

 欧陽には山田が転校したこと、山田には欧陽が転校したこと、二人に向けた共通の内容としては、急な事情で転校したならその理由を教えてほしいこと、桃瀬が欠席していること、放課後に一ノ瀬と戦う予定になったこと、もし連絡が通じるなら例の論文について知恵を貸してほしいこと。

 三人からの連絡には期待してはいけないと思いながらも、やはり希望を抱いてしまうのが中島はつらかった。放課後まで孤独なままこの問題に向き合うのは恐ろしかった。

 せめて三人のうち一人くらいは、本物の人間であり自分の友達なのだという確証がほしかった。人間とロボットは似すぎていて確証が得られないというなら、せめてそのための確からしい証拠がほしかった。

 携帯という電子機器を通じて連絡を返してくれるだけでいい。それだけで自分はひとりじゃないのだと安心できる気がしていた。

 音沙汰がないまま、一限目は始まった。

 白髪まじりの太った古文の教師が、えらそうに独自の解釈を加えていく姿を目に映しながら、中島は一ノ瀬に与えられた初めての宿題について考えている。

 自律型ヒューマノイドによる論理的類推の限界――現実と虚構を隔てる透明な壁。

 この題名を見てまず感じるのは、人間とロボットの間には、たとえ透明に見えるようであっても、やはり能力的な壁があるのだということだ。そしてさらに推測できるのは、ヒューマノイドによる論理的類推には限界があり、それは『現実』と『虚構』を認識する際に生じるものだということだ。

 そこまでは昨日の時点で中島も分かっていたが、ここから先の内容になかなか踏み込めないでいる。『論理的類推』という語についての解釈にはあまり幅がなさそうであるし、あってもこの短時間で理解するのは難しい。だから中島が取り組める範囲でのこの論文の核心はおそらく、『現実』と『虚構』という語だと思われた。

 その語だけ眺めていると、私たちが現実だと思っているこの世界はじつは虚構である、などといった論調が頭に浮かんでくる。そもそも虚構という言葉自体をほとんど日常生活において耳にする機会がなかったし、あるとしたら、かなり攻撃的なニュアンスでの使用だった。

 中島は教師と目が合ったので、真面目に授業を聞いているふりをしようと教科書をめくった。その時に手が携帯の画面に触れた。

 と、日本語訳が表示されていた画面が、翻訳前の英文に変わった。

『Reality』と『Fiction』。

 英語表記に切り替わったおかげで、中島に別の観点が生まれた。

 この論文で言及される『虚構』とは『フィクション』のことであり、『フィクション』とは『創作物』のことではないのか。『現実』と『創作物』の認識方法に、人間とロボットの違いが現れるのではないのか。

 ロボット工学者の山内はその違いを、『透明な壁』と表現したのではないのか。

 中島は気分の高揚するのを感じたが、まだ推理のスタートラインに立っただけだと気を引き締めた。父に教えられた、大きな問いに答えを見つけるために小さな問いを作る、の原則に従って、まず自分の主観を参考にすることにした。

 ほかの人間がどのようにリアリティとフィクションを認識しているのか分からないので、自分の感覚に頼るしかない。本当ならその認識方法について誰かと議論したかったが、今はその相手もいない。

 だれにも頼れないのなら、自分を頼るしかない。

 平安時代の貴族の一日を語り始めた教師に雑な目配せをしながら、中島は気を取り直してノートに仮説を書きだす。

 創作物を楽しむとは、作者が体裁を整えて生みだした嘘を本当のこととして感情移入する行為だ。鑑賞者は作中の登場人物の失敗を共に悔しがり、成功を共に喜ぶ。その主人公が失敗しようが成功しようがそれは虚構でしかなく、現実に与える影響はまったくないのに、なぜか人間は感情を揺さぶられる。

 これは、鑑賞者が作者の嘘に加担して初めて起きる現象にちがいないのだ。

 この点にヒントがあると中島は思った。

 ひょっとすると、ロボットはその作者と鑑賞者の約束事に従えないのではないか。

 つまり、ロボットは創作物と現実の区別をつけられず、突飛な行動に出てしまうのだ。

 桃瀬と観に行ったホラー映画に置き換えて考えると、仲間が一人また一人と消えていく状況に我慢できなくなり、映画館で暴れ出すとかだろうか。もしこの推論が正しいのなら、桃瀬はそんな素振りを見せなかったので人間ということになるが、どこか穴がある推測のような気がした。

 人間とされる存在は日常的にフィクションに触れている。だから創作物と現実の区別をつけられない場合、ロボットは人間社会に馴染んで生活を送るのは難しいはずだ。そんなに簡単に人間とロボットの見分けがつくのなら、現在のこの社会の混乱は起きていないだろうと思った。

 中島は真面目な生徒を演じる余裕もなくなり、唸りながら頭を掻きむしる。

 と、斜め後ろから声が聞こえてきた。

「今は授業時間です。個人的な作業は控えて黒板に集中してください」

 補助用ロボットが淡々と中島に告げると、教師のチョークを動かす手が止まった。

「私の話を聞く気がないのなら教室から出ていってください」

 振り返りもせずに怒りを抑えたような声で言った。

「すみませんでした。以後気を付けます」

「もう二度と言わせないでください」

 その教師はむっとして、また黒板へと白い字を書き始めた。ロボットはモーターを回して教室の後ろへと戻っていく。

 ため息をついた中島は、殴り書きのメモが記されたノートを机の中にしまう。

 タイムリミットは刻々と近づいている。いなくなった三人の真実を知るために、一ノ瀬の手に落ちた桃瀬を救うために、そして、人間とロボットを隔てる透明な壁を明らかにするために、審判の時が訪れるその瞬間まで、中島は必死に思考を働かせ続けた。

 終業のホームルームは通常通り簡素なものだった。起立、礼、着席もなく、明日はこれ以上欠席者が出ないことを祈る、とだけ一ノ瀬が言い、それを聞いた生徒たちは教室から散っていく。

 いつもと違うのは、一ノ瀬がまだ教室にいて、欠席した生徒の椅子に腰かけて出席簿をしげしげと眺めていることくらいだった。どれだけ生徒が休もうが興味がないくせにそうしているのは、時間を潰すおもちゃになるのが出席簿しかないからだと中島は思った。

 一限目から、中島の推論はあまり捗っていなかった。

 しかし中島はこの男に挑まなければならなかった。この元ロボット工学者に敵うわけがないと分かっていても、彼から逃げる選択肢はないのだった。

 生徒もまばらになった教室で、リュックを背負った中島は立ち上がって話しかける。

「一ノ瀬先生、準備は出来ました」

 ちらと視線を上げた担任教師はうなずいた。

「多目的教室を確保してるから、そこに行こうか」

「分かりました」

 放課後の解放感あふれる廊下を二人は歩いていく。世の中にロボットの件で騒ぐ者たちがいるとは思えないほど、平和でたるんだ日常的な景色が広がっている。この生徒たちは本当の意味でロボットの存在を信じておらず、その噂も一過性の話のタネにしか感じていないのかもしれなかった。

 やたらとこの話題にこだわる自分こそが異常な存在なのだとも、この時の中島には思えてきた。転校、友人、恋人、担任教師、ロボット、これらの要素すべてが自分事に感じられて仕方ないのだった。

 男子トイレの横にある多目的室の前まで来ると、一ノ瀬は鍵を開けて中島を先に入らせて命令する。

「カーテンをすべて閉めろ」

「はい」

 中島は指示に従いながら、鍵を閉めるのに苦戦している一ノ瀬の目を盗み、携帯の通知を確認した。

 連絡は誰からも来ていなかった。

 ぎりぎりまで未練がましく彼らを頼る自分に対して、中島は苦笑せざるをえなかった。

 ここまできたら腹を括って、山内と戦うしかないのだ。

「二人きりになれたことだし、早速話をしようか」

 山内は二つの椅子を向かい合わせにして、その片方に座った。

「はい」

 差し出された椅子に中島が座ると、山内は首を回した。

「どこまで分かっているんだ。こっちも説明するのが面倒だから手短に教えてくれ」

「一ノ瀬先生の本名が山内だということ、元ロボット工学者であり『自律型ヒューマノイドによる論理的類推の限界――現実と虚構を隔てる透明な壁』という題名の論文を書いていること、桃瀬にだけ特別な感情を抱いていることです」

「じゃあ全部じゃないか」

「いえ、その他にも先生が関わっている件があると僕は考えています」

 顎を掻いて山内は唸った。

「お前の言うとおりだな。そこらへんはすっかり忘れていたよ」

 この男のペースに乗せられまいと中島は心の中で唱える。

「とぼけないでください。きちんと話をするために僕をここへ呼んだんでしょう」

「そうだな、まず論旨を整理しよう。大きな問いは小さい問いに切り分ける必要がある」

 中島の父と同じ方法論を述べて、山内は咳払いした。

「事実から話そう。俺の本名は山内であり、元ロボット工学者であり、その論文の執筆者だ。全部種明かしするのは面白くないな。俺が過去を隠して教師として勤務している理由は、お前に予想してもらおう」

「先生はまったくこの仕事に思い入れがないようでした。つまり、この仕事に就いていたのは別の目的があったからでしょう。例えば、勤務先の学校に観察対象のロボットがいたとか」

 ロボットを社会に放り込んでそのままにはしておかないはずなのだ。学校での行動観察、事故が起きた際のトラブル処理など、管理者が担うべき責任はいくつか考えられる。

「ほう、じゃあそのロボットは俺が受け持つクラスの生徒ってわけか」

「それだと一番都合がいいでしょう」

「当たりだ。誰とは言わないが、お前のクラスにはロボットがいる」

 些細なことのように山内は言ったが、中島が受けた衝撃は計り知れなかった。

 自分でその事実を突き付けたにもかかわらず、実際に告げられると現実感が湧かなかった。クラスの誰もが、普通の人間として普通に学校生活を送ってきていたのだ。

 きっとそうだった。

 クラスメイトの顔や振る舞いを思い浮かべる中島に、山内は落ち着いた声で語りかける。

「いわゆる一般人の反応はそんなもんだろうな。じゃあ、次の小さな問いへと進むとしようか」

「それだけの説明で終わりですか」

「ああ、核心部分を明かしてやっただろ」

「まだ不十分です」

 中島が叫んで立ち上がると、それに負けじと山内も叫ぶ。

「甘えるな。人に頼ってばかりいるなよ、このポンコツが。今この状況で主導権を握っているのは俺だ。俺が敷いたレールの上を進んでいくことしか、お前は許されていない。そこから脱線したらどうなるか理解しているだろう」

 転校していった友達、初めて学校を欠席した恋人。中島にとって大切なものの処遇は、この男の気まぐれに左右されるのだ。

「すみませんでした」

 やむを得ず中島は席についた。

「よし、次にいこう。本来の順番なら俺と桃瀬との関係についてだが、これは最後のお楽しみにしようか。ということで、論文の内容についてだ」

「人間とロボットの論理的類推の能力には何らかの差があるんでしょう」

「そこまではボンクラでも分かる」

「おそらくその差は、現実と創作物を認識する能力に関わっています」

「それから?」

 中島は唇を指でもてあそびながら苦し紛れの結論を述べる。

「フィクションを楽しむ行為は創作者と鑑賞者の共犯関係によって成立します。しかしロボットは現実と創作物の区別が出来ないのではないかと」

「本当にそれが論文の正しい内容だと思うのか」

 山内が見下すような乾いた笑い声をあげると、中島は惨めになって目を伏せたが、あてずっぽうで一言いってみる。

「いえ、その逆かもしれません」

「ほう」

 明らかに食いついた山内を上目遣いでとらえて、中島は考えを整理しながらそれと並行して話をする。

「ロボットは現実と創作物をまったく別のものと捉えてしまう。つまり、創作物を楽しむ能力が備わっていないのでは」

 こちらの仮説の方が、さっき示した仮説よりもっともらしいと中島は思った。

 現実とフィクションの境界を見極められないのなら日常生活に支障をきたすかもしれないが、創作物をうまく楽しめないだけならそれを心に秘めつつ、その場の空気を読んで周りの反応に合わせればいい。これなら人生の娯楽が減ることはあっても、誰かにその欠陥がばれることもない。

 山内は足を組んで細かく頷いている。

「悪くない。ご褒美として新たなヒントを与えてやろう」

「お願いします」

「マジックミラーだ。これと同じ構造がロボットの認識の限界に関わってくる。ちなみに物理的な構造ではなく、もっと抽象的な構造のことだぞ。まあ比喩みたいなものだと考えてくれ」

 マジックミラー。

 明るい側からは鏡に見えるが、暗い側からは向こうが見えるという不思議な道具。

 ここまでの議論にマジックミラーのもつ構造を加味して考えると、現実の見え方と虚構の見え方が異なるという関係がうっすらと頭に浮かんできた。しかしそれではその二つを認識する主体であるロボットの立ち位置がぼやけてしまう。

「ロボットの立ち位置はどうなるんでしょう」

「それは現実のほうでしかないだろう。創作物のなかに入り込んで現実にケチをつける存在になれると思うのか」

「ありえません」

「情報の流れで考えろ。このトピックのヒントはこれで最後だ」

 情報の流れ。

 ひとつは、ロボットが現実から創作物へと感情移入する際の方向の流れ。もうひとつは、ロボットが創作物から現実へと情報を取り込む方向の流れ。

 この二つの流れが非対称になっている。どの点で非対称なのか。

 そしてそれを知るためにはまず、『明るい側』と『暗い側』が『現実』と『創作物』のどちらに対応しているのかを決定する必要がある。

 大きな問いが小さく分解されたものの、まだ不十分だった。

「これだけだと難易度が高いかもしれない。もうひとつヒントをやる。それは、お前の心にあるもの、とでも言っておこうか。これはやりすぎかもな」

「俺の心にあるものですか」

 中島は意味を咀嚼するより先にオウム返ししたが、すぐあとから、自分の心をどうして山内が知っているのかと反発心が沸いてきた。

「これで材料はそろったはずだ。高校入学後の自分を振り返ればいい」

 たかだが二か月にも満たない短期間でどう振り返るのかと思ったものの、中島はゆるくうなずいた。

「じゃあ次に移ろうか」

 山内は部屋をうろつき始める。

「マイケル、欧陽、山田の三人は嘘偽りなく転校している。俺が訂正しなければならないのは、三人は家庭の都合ではなく、研究の都合で転校したということだな」

 おそるおそる中島は問いかける。

「その研究にロボットは関係ありますか」

「もちろん」

「三人はロボットですか」

 固唾を飲んで中島は答えを待つ。

 粘っこい水の塊が喉を下る音が響く。

「それは言えない、まだこの時点では」

 背後を通り過ぎようとした山内を、中島は睨みつけた。

「まだこの時点では、とはどういう意味ですか」

「そのままの意味だ。あとで教えるべき人が教えてくれる」

 椅子から飛び上がった中島の頭頂を、山内は拳で弱く打った。

「お前はずいぶん怒りっぽいな。もっと冷静にやり取りしようじゃないか。人質までとっているのにフェアプレイ精神を貫く俺を見習ってくれよ」

「はい」

 怒気を孕んだ声で中島は応じると、山内は眉根を寄せた。

「あいつらは数少ない大切な友人だったし、つらいのも分かる。だがあいつらは転校先で元気にやっているだろうから心配するな」

「で、最近の欠席者もいずれ転校するんですか」

「分からないが、今のところその予定はない。あいつらは自分がロボットなのではないか、という不安で精神的に病んでいるみたいだ」

「そうですか」

 中島もその感覚は痛いくらいに知っていた。出生証明書を二回、へその緒を一回確認したし、その最中に父が帰ってきて不穏な顔合わせもした。しかしそのあとで、父と母との愛の結晶として息子が生まれたという話を聞いたことで、胸にわだかまっていた不安はすっかり解消されたのだった。

 彼らにも同じような機会があったならと思った。

「じゃあ最後のトピックに移ろうか。俺と桃瀬の関係についてだ」

 これが中島にとっての、一番の関心事だった。もし桃瀬が山内の協力者で、しかも三人の転校にも関与しているならば、さっき彼女に送った連絡は茶番みたいなものになる。この件の内幕を知り尽くした人間に、この件の尻尾を掴んだだけの人間が、協力を求めているのだから。

「俺はLUVLUB社の人間で、あいつはLUVLUB社の関係者だ」

 関係者。

 どうとでもとれる曖昧な語。相手を煙に巻きたい時によく使われる語。

 この匂わせ方は、生徒に考えを促すための方便なのだと中島は解釈した。思考を停止して最短で答えを求める者をこの男は嫌っているのだ。

「あえて関係者というからには社員とは別の立ち位置なのでしょう。となると、関連会社、株主、債権者、顧客あたり」

「おいおい、企業はどうやって利益を得ているのかまず考えろよ」

「顧客に商品を販売する」

 中島がそう口走った瞬間、多目的室の扉付近で足を止めて意味深に笑った。

「俺はあくまで数え漏れに気付かせてやっただけで、桃瀬がロボットだとは言っていないからな。その点だけは心に留めておいてくれよ」

 桃瀬がLUVLUB社の製品。

 信じたくはなかったが、きっぱりと否定することは出来ない。教室ではほとんど口を利かず、感情を露わにすることもなく、本当の居場所は遠い空の彼方であるかのように窓の外を見つめる孤高の生徒、それが桃瀬だった。

 しかしそんな桃瀬も、恋人の自分には打ち解けてくれているはずだった。わざわざ放課後や休日の時間も割いてくれるし、誰にも言っていない秘密まで明かしてくれた。

 しかも、映画を観に行ったときには、スクリーン上の出来事にいちいち可愛らしい反応をしていたではないか。これは人間である立派な証明ではないか。

 中島は壁際まで行って、山内の鼻先までにじり寄った。

「桃瀬は人間です。創作物に感情移入出来ていましたから」

「どうして出来ていたと分かる」

「映画が終わった後にストーリーについて熱っぽく語っていました」

「それが理解しているふりである可能性はないか? あるいは深くは理解できていないが表面的には理解しているとか」

 桃瀬はたしかに、同伴者が一人ひとり消えていく恐怖に共感していたし、その同伴者との親密さに応じて恐怖の種類も異なっているとも言っていた。

これを深い理解でないと主張できるだろうか。

「していたはずです。それに、ホラー映画でよく用いられる、画面や音量などの急な切り替わりで驚かす手法にもちゃんと反応していました。これらはストーリーと結びつけられて効果を発揮するものでしょう」

 山内は片目だけで笑って、中島の肩の横をすり抜けていく。

「急な切り替わりそれ自体で恐怖を喚起する側面もあるが、まあそれはよしとしよう。お前が桃瀬をロボットだと思いたくないというのはよく伝わってきた」

 振り返った中島は声を落とすように努めて言う。

「恋人がロボットだなんて信じたいわけがないですよ。ロボットはどれだけ機能において人間を上回ろうとも、しょせん人間の模造品に過ぎません」

「いつもこそこそしているお前がそこまで強く言い切るとはな。俺の前では問題ないが、気を付けないと公の場では袋叩きにされるぞ」

「俺もそれくらいの分別はあります」

 山内は黒板の上にかけられた時計に目をやった。

「そろそろ時間だ。最後にひとつだけ質問を受け付けてやる。面白くない質問なら答えないぞ」

 血相を変えて中島は言いつのる。

「まだ何も解決していないのに、これで終わりですか」

「こっちにもいろいろ都合があるんだよ。で、質問する気があるのか、ないのか」

 扉に手をかけて今すぐにでも部屋を出そうな山内を満足させられそうで、かつロボットの製造の本質を照らすのは、この質問しかないと中島は思った。

「自律型ヒューマノイドはどういう目的でつくられたんでしょうか」

 山内は虚を衝かれたように目を見開いて黙り込んだ。

数秒後に言葉を絞り出した。

「その製品を求める顧客がいるからだ。人それぞれ事情は違うだろうが」

 そして扉を開けて廊下に出ると、

「あとで桃瀬から連絡がくるから家で待機しておけ。それから人の車のタイヤをパンクさせるのはやめておけよ」

 と言って多目的室の鍵を中島に投げつけて、階段へと歩きだした。桃瀬からの連絡とはどういうことかと聞き返したくて、パンクさせたのは自分ではなく欧陽であると弁明したくて、中島は廊下へと飛び出た。

 が、通りかかりの女子生徒とぶつかった。跳ね飛ばされたその生徒は尻もちをついたが、非は自分にあると認めたらしく、すみませんとだけ言って去っていった。

 と、携帯が震えた。

 父からだった。

 いきなりで悪いが、イギリスに出張になった。しばらく家を空ける。

 そんなに急に出張が入るものかと訝りつつ、中島はそのほかの連絡がないかを確認した。

 転校した三人はもちろん、桃瀬からの返事もなかった。

 あとで桃瀬から連絡がくるから家で待機しておけ。

 山内が最後に残したこの言葉を真剣に受け止めていいのか。桃瀬が山内の協力者であるならそれもおかしな話ではないが、待機場所まで指定されたのには特別な意図があるのだろうか。

 さすがに考えすぎだと中島は息を吐いた。

 ほかにも気になることはある。山内がパンクさせた犯人に遠からず迫っていて、それに対して怒りを見せなかったことだ。若気の至りを寛大な心で受け入れてくれたのかもしれないが、山内ははたしてそういう類の大人なのだろうか。

 廊下の窓の向こう側で、山内の運転する車が動きだした。中島は家に帰って桃瀬からの連絡を待つことに決めた。

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