第11話
桃瀬をベッドに座らせた中島は、部屋を満たす本棚を手当たり次第に探すふりをしていた。棚の奥と手前で二段構えに並ぶ本を手で掻き分け、ときには本の中にディスクが挟まっていないか確認したりする。
あるはずのない映画を求める作業はきわめて退屈だったが、あまりに早く諦めてしまっては逆に怪しくなる。勘の鋭い桃瀬ならすべて嘘だったと見抜くのではないかとの懸念を中島は抱いていた。
「どこに置いたんだっけな」
思わず独り言を呟いてしまったように演じて、桃瀬の声がかかるのを待ったりもしたが効果はなかった。そして、桃瀬にこの空気を察しろと言うのは無理なのだと思い至り、中島は自分から切り出す羽目になった。
「見つからない。絶対にどこかにあるはずなんだけどな」
「私も手伝う?」
「いや、俺のほうがこの部屋のことは熟知してるはずだ。それで見つからないなら、多分もうないんだと思う。まさか、父さんが勝手に部屋に忍び込んで持っていたとかはないだろうし」
「中島の盲点を私なら補えるかもしれない。この部屋の住人じゃないからこそ意外に見つけられたりする」
「どうかな」
望ましくない方向に転がりだした状況をどうしようかと悩んでいると、携帯が振動した。またもや山田からだった。
ロボットの左胸には縫い痕がある、とだけあった。
中島はふと、服と肌の隙間から自分の胸をのぞきこむ。浮き出たあばら骨の上の胸にひとつ小さなニキビがあるだけで、傷跡のようなものはなかった。
そして閃いた。
「私も探そうか」
びくっとして目を上げた。
桃瀬は背を向けて勉強机を見ているだけだった。
「もう探さなくていい」
その頼りない背中に中島は胸を押し当てる。波打つような鼓動が体の外側へと発散されていくのを感じた。
「いきなり、なに」
「そういう気分になっただけ」
中島はそのまま桃瀬の体を裏返して、白い布団へ力任せに押し倒した。獰猛な肉欲に突き動かされたのではなく、どこまでも冷徹な理性に従ってそうした。この青い薄いワンピースをめくり、その下のブラジャーまで剥ぎとれば、これから一ノ瀬と桃瀬との関係に悩むことも、桃瀬がロボットなのかに悩むこともせずに済むのだ。頭の切れる欧陽に頼らずとも、自分がほんの少し勇気を出して行動を起こせば、悩みの芽を摘めるのだ。
桃瀬は全身をこわばらせて固まっていた。驚きと戸惑いが顔全体に滲んでいる。
「どうしたの、中島」
「どうもしない」
中島は乱暴な手つきで、腰のあたりからワンピースをたくし上げる。どんどん分厚くなる布に指を食いこませて胸までめくると、桃瀬の顔はその布にすっぽりと隠れて、その代わりに白い地味なブラジャーが露わになった。
性欲は湧かなかった。中島はそのまま手のひらで、桃瀬のふくらみを掴んで邪魔な布を取り去ろうとした。
が、突然、桃瀬が暴れだす。動物が鳴くように喚いて、足を振りまわして中島をベッドから蹴り落とした。それでもまだ痙攣している。
「ごめん」
机の陰で中島は咄嗟に謝った。桃瀬は急に静かになって服装を整え、部屋の主と目も合わせないままベッドから飛び降りた。扉に寄せかけていたカバンを手に取って部屋を出ていった。
階段を下る音が遠ざかった。
中島は罪もない部屋の床を数回殴りつけて唸った。
どうしてこんな暴挙に及んだのか自分でも分からなかった。
さっきまでずっと、桃瀬を疑うことを我慢してきたはずなのに、たった一本の連絡に感化されて桃瀬を傷つけてしまったのだ。面と向かって正々堂々と一ノ瀬との関係を尋ねれば良かったのにそうせず、不意打ちで力の弱い女性に襲いかかったのだ。
ベッドの縁で落ちかかる携帯に目がいった。
ここ最近続いている奇妙な偶然に、中島は気づいた。
山田の行動こそが、様々な出来事のきっかけになっていたことに。
企業見学の班決めのとき桃瀬を誘って中島たちと合流したのも、桃瀬と一ノ瀬の関係をほのめかしたのも、桃瀬との駅での別れ際にロボットの情報を送ってきたのも、一ノ瀬を尾行する日の放課後に桃瀬を連れだしたのも、そして今さっき左胸の縫い跡のことを教えてきたのも、すべて山田の仕業だった。
これらをつなぐキーワードは桃瀬。そして班決めの件以外はどれも、中島に桃瀬への疑念を抱かせるためのものだった。実際、そのたびに心を乱されてきたのだ。
しかし、そんなことをして山田にどんな利益があるのか。自分を桃瀬から引き離すべきだと思う理由があるのかもしれない。悪ふざけにしては手が込みすぎている。
中島はさっそく山田にメッセージを残した。
今日のうちに直接会って話がしたい。
そして、桃瀬にもメッセージを残した。
ごめん。傷つけてしまってごめん。
枕元に携帯を置いて中島は布団に寝そべった。外にいたのは半日だけだったが、とてつもなく疲労を感じていた。
とりあえず少しだけ眠ることにした。
目が覚めたのは、下の階から父の気配がしたからだった。時計の針は六の字を通り過ぎたばかりで、遅くなると言っていた割には早い時間だった。
薄目で天井を眺めながら、手をばたつかせて携帯を探り当てる。
まだ山田からも、桃瀬からも返信はなかった。
まともな昼ご飯を食べていないせいか腹が減っていた。下の階へと降りていくと、扉の向こう側からトンカツの匂いがした。引き寄せられるように扉のノブを回した。
左側だけ、赤い脳が丸出しになった女性の顔。
驚いた中島は尻もちをついた。
だがよく見てみると、その女性の下半身は明らかに父のものだった。
「今日は予定よりは早く終わったんだ」
仮面をとった父は子供っぽく笑っている。
「笑い事じゃない。まったく勘弁してくれよ」
父のいたずら好きには中島も慣れたものだったが、余裕のないこのタイミングでやられると腹に据えかねた。
「そんなに怒るなよ。ちゃんとお前の好物トンカツも用意してるんだからさ」
「はいはい」
怒りの顔の下にわずかな嬉しさを潜めつつ中島が食卓につくと、父はまたキッチンへと戻り、フライパンの上にパン粉まみれのトンカツを投入した。
「父さん、ロボットに関する情報が次々に出てきてるのは知ってる?」
「もちろん。どれも信憑性は疑わしいものばかりだけどな」
「というと」
油が弾ける音のなかに父の声が響く。
「いかにもそれっぽい要素が多いんだよ。例えば、感情表現が乏しいなんて映画に出てくるロボットの特徴そのものだろう。転校生はロボットだ、なんていうのも他の理由で簡単に説明できるし」
中島は姿勢を整えて耳を傾ける。
「お前みたいに何度も転校をくりかえす子がいるとしよう。その子はどうせすぐに転校するからと新しい環境での友達作りをおっくうがる、あるいはそもそも友達を作りたくても人見知りかもしれない。そうすると、同じ学校の子たちは、あいつは無口で不気味な奴だ、と考えはじめる。そうこうしているうちに転校生はまた別の学校に移っていく。そして、残された子たちがネットに投稿するわけだ。あの転校生はロボットみたいだったと。それが伝言ゲームでいつのまにか、転校生はロボットだ、に変わっていく。その割合がじつは非常に少なかったとしても、とくに人々が不安定な精神状態にあるときは信じてしまいがちなんだ。まあ、どこの学校でもそれなりに馴染んでいたお前には、この例ではあまり伝わらないかもしれないけど」
能天気に言われるのが癪にさわって中島はつぶやく。
「俺もそれなりに苦労したんだよ。新しい環境に馴染むために、人目を気にして我慢したこともいっぱいあった」
中島は何も考えずに過ごしていたわけではなかった。苦労の末に学校での立ち位置を確保してきたのだ。父を責めるつもりはなかったが、転校を快く思っていなかったことは分かってほしかった。
「まあそうだよな。大変な思いをさせて悪かった。高校卒業までは転校しないで済むはずだから安心してくれ」
堅苦しく謝る父を見ていると、中島は気が詰まってきた。
「頼むよ、ほんとに」
「すまなかった」
揚げたてのトンカツが大皿に移し替えられていく音が虚しく響いている。目を伏せた父の手つきは、食卓へ行くのをわざと遅らせているように緩慢だった。取り返しがつかないくらい焦げた衣を眺め、過剰なほど丁寧に大皿へと盛りつけ、ブラックペッパーの入った瓶を振っている。
「早くしてよ」
中島が沈黙を破るしかなかった。
「ああ、ごめん、ごめん」
急いで机に乗せる父の卑屈な姿が中島には見苦しくなってきた。
「もうさっきの話は終わり。ロボットの話をしようよ」
「ロボット? ロボットの何を話す」
「ヒューマノイドロボットがいるとしたら、それはどうして必要とされたのか」
これは企業見学に行った時から持っていた疑問だった。単なる労働力としてなら移民を受け入れればいいのに、わざわざロボットを使う必要はどこにあるのか。
父は白米のこんもり盛られた茶碗を二つ机に置いて、椅子に座った。
「大きな問いを解くことは難しい。大きな問いは細かく分解して小さな問いにする。そして一つひとつの小さな問いに取り組む。そこで出てきた答えを組み合わせて様々な観点から物事をとらえる。このやり方で父さんはいつも学問に向き合っている」
中島は手を合わせた後にトンカツを箸でつつく。
「じゃあ今回の場合は、移民つまり人間じゃなくてロボットのほうが採用された背景、実際にどういう現場でその違いが現れるかを考えればいいのか」
「悪くない。まずは自分で考えてみろ」
厚い衣を歯で削ぎ落しながら中島は考える。
まず思いついたのは介護の現場だ。聞き手に徹しつつ適度に相槌を打てるロボットは、家族から離れて生活する老人にとってありがたい存在だろう。しかしその程度なら泉谷の性能でも代替できるし、限りなく人間に近いロボットを動員する必然性はない。となると、ロボットでありながら人間の役割をこなす、という場面を想像しなければならない。
「なんとなく当てはまりそうなのは、体の不自由な人をお風呂に入れる場面かな。介護現場では異性に裸を見られるのが嫌という人もいると聞いたことがある。でもそれも、相手が人間ではなくロボットだと思えば気にならないかもしれない。もちろんロボットが暴力行為に及ばないのは前提で」
「いい視点だ。でもその視点では、体を洗われる人が相手をロボットだと認識しているだろ。世間を賑わしている今回の件は、人がその相手をロボットだと認識していないんだぞ。だからみんな混乱している」
「そうか」
中島は冷蔵庫からお茶を取りだし、ついでに食器棚からコップを二つ持ってきた。
「ロボット自身も自分がロボットか人間か分からないとすると、問題はさらに複雑になる」
「いい顔してるぞ。もっと悩め悩め」
いつもの調子に戻った父はお茶を二つのコップに注いだ。
「はぁ、どう考えればいいんだろう」
中島が弱音を吐くと、父はニタニタして助け舟をだす。
「じゃあ俺から質問しよう。自分をロボットだと思っているロボットと、自分を人間だと思っているロボット。どちらが本物の人間みたいだと、人間は思うだろうか」
「もちろん後者だ。自分を人間だと思っているロボットのほうが自然な感じで人間に接してくれそうだから」
上機嫌の父は指を鳴らし、
「そこにポイントがある。介護で体を洗ってもらう時には、相手がロボットだという認識がある種の安心感につながった。逆に相手が大切な友達だったりした時には、相手が人間だという認識が親密さを感じる度合いに影響してくる」
とそこまで言って口を抑えた。
「ありがとう。全部答えを教えてくれて」
「せっかくかわいい息子の思考力を鍛えてやろうと思ってたのに」
「これだけでも、この一週間のなかで一番に頭を使った」
「転校生の例を使いそうなったけど、なんとか大切な友達の例で押し切ってやった」
「さすが大学教員らしい思考力」
大切な友達と聞いて、中島は少し前にあったことを思い出した。一ノ瀬が朝のホームルームで、このなかに自分をロボットだと思っている奴はいるかと質問して、マイケルがふざけて手を挙げた。その瞬間、自分の心は反射的に、マイケルから離れたのだった。
マイケルがロボットだと思った瞬間、たしかに彼は遠い存在になった。その経験があったからか、父の説明がすっと胸に入ってきたのだ。
「そういえば、うちのクラスで転校した奴がいるんだ」
「ほう」
「わりと仲が良いと思っていた友達だったけど、連絡ひとつくれなかった」
父は口を塞いでいた食べ物を飲み込んだ。
「きっと人に言いたくない事情があるんだろう。この時期に転校したというだけで疑われるんだから気の毒な話だよ」
「そうだよな。あいつに限って」
と言いながら、中島は学校を欠席しているクラスメイト数名の存在に思い至った。
「欠席者も出てきていて、そいつらも疑われたりしてる」
「変な噂が出ていて精神的に不安定になってるのかもな。でもこんな世間が厳しい目を向けている時期に欠席してしまうと、さらに状況が悪化するのが皮肉だ。これじゃ社会を混乱に陥れようとフェイクニュースを流している奴らの思うつぼだ」
白米を口に放り込みながら力強く語る父は、中島の目にはなぜか頼もしく映った。
「でも誰がなんの目的でフェイクニュースを流すんだろう。俺の友達は、これはロボットを受け入れる土壌を作るための政府の観測気球だとか言ってたけど、どう見ても国民感情を逆なでしてるようにしか思えない」
「目的自体が存在しないのかもしれない。自分が流した噂が多くの人に話題にあがることで承認欲求を満たしているだけとか。でもデータから推測するに、ロボットに関する情報を出すタイミングが効果的で、これは知能犯による一種のゲームだとも思える」
「ふーん」
効果的なタイミングと言えば山田だったが、彼女もただネットからの情報を伝達しているだけなのだった。中島は目を落として携帯を確認した。
まだ返信はきていなかった。
「ところで」
父は目を細めて口をほころばせ、品定めするように中島を見つめた。
「今日はずいぶんお洒落をしてるみたいだけど、デートでも行ってきたのか」
予想外の問いかけに中島はむせこんだ。
「いや、行ってない」
「じゃあこれから行くのか」
「いや」
山田とデート。その角度から考えてみると、これまでの山田の不可解な行動の意味も理解できる気がした。
山田は自分に好意を抱いているのではないのか。
だからいつも桃瀬の悪評を伝えてきていたのだとしたら。それを聞いた自分が桃瀬に愛想を尽かすのを狙っていたのだとしたら。
その時、携帯が振動した。
ごめん、返信が遅くなって。今から河川敷の階段のところで会える?
こうなっては食事をしている暇などなかった。すぐにでも話をして真実を確認しなければならなかった。そして、もしこの仮説が違うなら違うで、山田が起こしてきた行動の意味を知りたかった。自分から桃瀬を引き離そうとするのは、桃瀬の危険な秘密を握っているからかもしれない。
それをたどれば、マイケルや一ノ瀬についても何か分かるかもしれないのだ。
机の下で指を巧みに動かして返信すると、中島は居住まいを正した。
「食事中に悪いんだけど、ちょっと急用ができて行かないといけなくなった」
父は腕組んで険しい顔をした。
「食事中だぞ」
と大声で言ってから歯を見せて笑った。
「行ってもいいけどその代わり、今日の洗い物は任せたぞ」
「ありがとう」
そう言うなり、中島は慌てて家を飛び出して河川敷に向かった。
空は暮色に染まり始めていた。自転車のぽつりぽつりと行き交うコンクリートを歩きながら、堤防の下に生い茂る草々のあたりを探した。
見覚えのある女性が石段に座って川を見つめている。英字の刺繍のはいったラフなTシャツ姿だった。
その庶民的な格好に違和感を覚えながらも、中島はその寂しげな背中へとゆっくり近づいていく。こんな時どうやって声をかけていいのかと迷っていた。
が、山田は屈託のない笑みを浮かべて中島を見上げた。
「待ったよ」
「ごめん」
「首がつらいから隣に来て」
「うん」
山田が手で叩いた石段へと中島は腰を下ろした。
野球帰りの子供たちが、自転車のベルを鳴らしながら通り過ぎていく。
「どうしたのよ、いきなり連絡してきて。中島から呼び出されるなんてくるなんて。どんな恐ろしいことを言われるのか身構えて来ちゃった」
溌溂とした声に影が差していた。
「単刀直入で聞かせてもらう。最近の山田の行動に気になることがあって、その背景にある意図を知りたくて連絡した」
「そんな変なことしたかな、私」
「ひょっとしたら偶然なのかもしれない。そこも含めて聞きたい」
「ふーん、言える範囲なら答えるよ」
中島は尋問の開始を告げるように咳払いした。
「桃瀬が不利になるような内容を俺に話してくるのは、いつも山田だった。一ノ瀬との関係、桃瀬に当てはまりそうなロボットの特徴。それもタイミングを見計らったかのように伝えてきていた」
「続けて」
「その先のことは俺には分からない。だから山田に聞きに来た」
自分に好意を抱いているのだろう、とは口が裂けても言えなかった。
はたから見れば仲睦じげな桃瀬と山田の仲に亀裂を入れるほど、自分が大きな存在だと宣言することは自惚れだと客観的に思ったのだ。実際にそうであったとしても、その事実は山田の口から明かしてほしかった。
うつむいていた山田は諦めたように空を見上げる。
「もう全部分かってるんでしょ」
「分かってないから聞いてる」
「なかなか手厳しいね。意地でも私に告白させようと」
告白という語が苦さを帯びて、中島の耳に入ってきた。こうして二人で直接話をするまで山田がずっと本心を隠し続けてきたのは、一見あけっぴろげだが実は繊細だからなのかもしれなかった。
「でも俺が言うのもおかしな話だろ」
「そうね。私が好意を抱いている対象の彼氏に言うのは、おかしな話」
「好意を抱いている対象の、彼氏?」
思いもよらない返答に中島は気を呑まれてしまった。
「こうなるから言いたくなかったの」
大きなため息をついた山田はまた黙り込んだ。夕焼けに浸された横顔とは不釣り合いな、暗く沈んだ表情をしている。
「つまり、俺に桃瀬を嫌わせて二人が別れるのを待っていたのか」
「ごめんなさい。そうでもしないと、私にチャンスはなかった」
その声には後悔と涙が絡まっているように聞こえた。
「桃瀬は人の意見に左右されない強い女子だから、いつも周りの様子ばかり伺っている俺のほうを揺さぶろうとしたんだな」
「そうよ。中島は私と似ているから。いつもクラス内での自分の立ち位置に気を配ってばかりいて、何かあればすぐ周りの意見に傾いてしまう人。だから桃瀬と付き合うことにデメリットを感じさせさえすれば、きっと別れてくれると思った。でもその計画もなかなかうまく進まなかった」
「俺と山田は似ていないだろ」
心を乱された中島がやっとの思いで一言だけ返すと、山田は歯を食いしばって唇から血を出しながら早口で喋りだした。
「似てるよ。私たち二人は自分の意見を持てない人なの。私たちが違うのは、コミュニティに馴染むための方法だけ。私は自分が変なキャラになったとしてもそれを受け入れて、周りに求められた役割を一生懸命まっとうする。でも中島は絶対に汚れ役を引き受けたりしない。誰かがそうやって体を張っているのを見ないふりして、ひたすら静かに待つの。そしてどうしても何かしなければならなくなったとしても、そこに存在している意味がないような当たり障りのない行動に徹する。あなたは自分がかわいくてかわいくて仕方のない利己的な人間」
「違うんだ。俺は」
山田は目を剥いて二の句を継がせない。
「違わない。中島はきっと桃瀬にもそうやって接してる。害のないふりをして冷静な目であの子を観察して弱みにつけこんで、もし自分の利益に適うのなら傷つけることも厭わない。桃瀬から昨日聞いた、明日は中島と一緒にお化け屋敷に行くの、って。楽しそうに目を輝かせて笑っていたあの子を見ていると胸が苦しくなった。でも私が何を言ったとしても、桃瀬はきっと耳を持たないと分かってた。このどうしようもない無力感は、中島みたいな人には伝わらないでしょうね」
中島は息を細くしながら怖気に震えていた。自分に好意を抱いていると思っていた女に、狂いのない言葉の切っ先で胸を刺されるのは例えようもない責め苦だった。山田は裏表なさげな振る舞いの下に本心を隠しながら、この時までずっと不満を溜めこんでいたにちがいなかった。
山田の追及には反論の余地がなかった。中島は今さっき利己的な動機で、罪のない純粋な桃瀬を傷つけたばかりだったからだ。
「ふう、全部吐き出せてすっきりした」
山田は頬を濡らした涙を拭いながら明るく言った。
「ごめんね、驚かせて。でも自分の好きな人が大切にされていないのは、誰だって嫌に思うでしょ。二人を別れさせようという私の意図が中島にばれてしまった以上、面と向かって中島に罵詈雑言をぶつけるしか憂さ晴らしのしようがないじゃない。だから今回のことは許してよ」
仰々しく下がった山田の頭に向かって中島は語りかける。
「謝らないでくれ。山田の指摘はぐうの音も出ないほど正確だった。たしかに俺は桃瀬をどこか都合のいいように扱っているところがあった。そもそも桃瀬を好きになったのは、あの澄ました横顔と、誰にも媚を売らずにわが道を行く雰囲気に惚れたからなんだ。自分が持っていない人への憧れなんだろうな」
山田は乱れた髪の毛を整えている。
「多分、私もそう。あの子はクラスの中で一人だけ異質な存在だから。でも桃瀬はもう中島とお揃いのアクセサリーまで持っているし、あなただけはその異質な存在に認められているのかもしれない」
「お前、知ってたのか」
「そりゃそうよ。地獄耳ならぬ地獄目のわたしが気付かないわけない」
「なんか山田が怖くなってきた」
「数少ない友達を怖がってどうするのよ」
「冗談だよ」
中島は屈託なく笑いながら、ポケットの中のアクセサリーを握った。この半分のハートを桃瀬はちゃんと肌身離さず持っているのか心配になったのだ。
川面を駆けるように数羽の鳥が飛ぶと、波紋がかすかに広がっていった。
中島のポケットの中で携帯が震えた。
ずっと待ちわびていた、欧陽からの連絡だった。
「ちょっとごめん。大事なこと内容なんだ」
爪をいじる山田に断りを入れて、中島は画面を上から下までびっしりと埋め尽くす黒字を拾い読みしていく。
一ノ瀬を名乗っている山内という男はもともとロボット工学者であり、アメリカの大学院で研究をしていた。彼が書いた唯一の論文は、自律型ヒューマノイドによる論理的類推の限界――現実と虚構を隔てる透明な壁、と題されたもので、人間と自律型ヒューマノイドの思考プロセスの違いに関する難題を論じた内容。論文には複雑な数式が隙間なく羅列され、あいだに挟まれる英文も専門用語ばかりで、二日間にわたり寝食も忘れて格闘したが、内容はまったく理解できなかった。
そして送られてきた文の最後には、睡眠不足で死にそうだから寝る、これから先のことについては明日学校で直接話そう、とあった。
欧陽による論文内容への言及がないことから、ここまで一人で調べ上げたのだからお前も少しは力を貸せ、とのメッセージが読み取れた。今ごろ、死んだように眠っているであろう欧陽を想像すると、中島は笑いをこらえることができなくて吹き出してしまった。
すると、山田は気味悪そうに顔を遠ざけた。
「なにか嬉しいことでもあったの」
「ああ、嘘つき野郎の本性を暴けるかもしれない」
多数の数式が意味する内容を理解できなくても、担任の一ノ瀬の本名が山内であり、ロボットについて研究をしていた過去があったということだけで、次に自分が取るべき行動を中島はなんとなく理解できた。
あらかじめ山内の逃げ道を奪ったうえで真実を話させることだ。人に知られてはまずい物騒な企みを秘めて、彼は不真面目な教師のふりをして学校に潜入しているはずなのだ。輝かしい経歴をもちながら、一介の高校教師としての生活を始めたのには深い理由があるはずなのだ。
「嘘つき野郎って誰のことよ」
山田は図々しく身を寄せて画面をのぞこうとする。面食らった中島だったが、仲間は一人でも多いほうがいいと考えた。
「担任の一ノ瀬は、一ノ瀬じゃなかった」
「山内という名前なの?」
「これがあいつの本名らしい」
「どうして分かったの」
中島は合間あいまで言葉を濁らせながら、山内の自宅まで尾行して郵便受けを漁ったと説明した。欧陽の名誉のために山内の車をパンクさせた話は伏せておき、その代わりにマイケルの身を案じていたとのエピソードを挟むのを忘れなかった。
「欧陽もやっぱりマイケルのことを心配してたんだ。転校の知らせを聞いたあと三人で話したときは妙に喧嘩腰だったくせに、あいつにもちゃんと人の心があったのね。欧陽は何を考えているのか分からないから困るわ」
「俺もあいつのことは分からなかったりする。でもマイケルのこともそうだ」
「マイケル?」
「欧陽も俺もマイケルを少しだけ怪しんでいる部分があるんだ。地下倉庫で逃げてるときに鬼ごっこと強調してたり、従業員のキムさんの前だとあまり喋らなかったり。実はあの企業と隠れてつながってたんじゃないかとか」
山田は首を傾けて上を向き、
「何でもかんでも疑いすぎじゃないの? だいたいマイケルがあの企業とつながってたらどうなるの? その目的は? 私たちをうまく驚かせたかったから?」
と勢いよく畳みかけた。突然いなくなった友達を悪者にする論調がよほど気に入らないらしかった。中島は面食らって声音を丸める。
「だよな。あいつはそんな器用な奴じゃないし、演技をしてならもっとぼろを出す」
「マイケルはそんな奴よ。この話、私と欧陽以外に言ってないでしょうね。マイケルが鬼ごっこどうだとか」
「もちろん言ってないよ。だいたいマイケルがどうとかじゃなくて、俺は他人の心は分からないものだと言いたかっただけだ。もちろん山田のことも」
「わたし?」
「うん。山田がどういう意図で桃瀬のことを俺に伝えていたのか、今日ここで会うまで分からなかったから。逆に俺のことは気持ち悪いくらいに見抜かれてたけど」
中島が苦笑いすると、山田は神妙な顔つきになった。
「他人の考えてることを理解できるほうが不思議なのかもね。人間は互いに対してはロボットみたいなもの。心に形なんかないから、人間はきっと相手も自分と同じように心を持っているんだろうと信頼するしかないもん。言いにくいんだけど、じつは私もマイケルがロボットかもしれないと疑ってしまったことがあった。近くで接していて変だと思う部分はなかったけど、精巧に造られたロボットなら人間と見分けられないのかもって」
「俺も疑ったことはある。いや、まだ疑いを捨てきれていないのかもしれない」
一ノ瀬が元ロボット工学者であったこと、しかもその過去を生徒たちに隠してきたことを深読みすると、マイケルの転校もその線でつながっている気がしてくる。邪推だとは理解していても、一度疑いをもってしまうとなかなか逃れられない。
「さっき私が言った通り、中島はあらゆるものを過剰に観察したり分析したりする傾向があるもんね。そんな人が欧陽や私みたいな友達にいろいろな材料を与えられたら、地球が回ってることすら信じられなくなると思う」
山田は小悪魔みたいに笑った。
その笑いが薄れてきたところで、中島は深刻そうに切り出す。
「ところで、一応聞いておきたい。桃瀬について引っかかるところはないか? あの一匹狼の一ノ瀬とただひとり親密そうに接していた桃瀬は、もう俺にとって疑いの対象になってる」
桃瀬と聞いた山田はふっと真顔に戻った。
「一ノ瀬が悪いことを企んでいて桃瀬に接近してるだけじゃないの」
「でも山田も知ってるはずだ。桃瀬は嫌なことは嫌としっかり拒絶できる人間だと」
自分の好きな人の悪い部分を見つめるのは簡単なことではない。時間をかけて熟成させてきた憧れの像が壊れるのは誰だって見たくないものだ。
「うん、私も疑ってしまってるよ。一ノ瀬が元ロボット工学者の山内だってこと、学校で何にも興味を示さない一ノ瀬が桃瀬にだけこだわること、普段の桃瀬の立ち居振る舞い。つまり中島は、桃瀬が『それ』なんじゃないかって言いたいんでしょ」
「俺もそうは思いたくない。でも可能性としては、ある」
桃瀬はロボットだ、と匂わせる証拠を渡してきていた山田は失意の底にあるように見えた。身勝手な理由から発した言葉が現実になったことに、迷信めいた罪悪感を覚えているのかもしれなかった。
「べつに私は桃瀬がロボットだったとしても好きよ。だってあのままの桃瀬に好意をもったんだから。でもやっぱり勝手にがっかりしてる自分がいる」
強がるように荒げた山田の声は、現在交際している恋人を問い詰めるような響きを帯びていた。
「正直、俺は受け入れられる自信がない。でもなんとか受け入れたいと思ってる」
たとえそれが恋人だったとしても、ずっと心のうちで忌み嫌ってきたロボットへの偏見は拭いきれない。しかも中島は、桃瀬が人間であってもきちんと愛せているのか分からなくなっていた。
山田に指摘されてから、今まで愛だと思っていたものがただの憧れだったのだと気付き、そんな自分が桃瀬を独占する立場にいることを不相応だと感じたのだ。
意外にも、山田はすっと肩を落としただけだった。
「そんなことだろうと思ったけど責めるつもりはないよ。私は部外者だから強気でいられるだけで、恋人の中島には中島なりの苦悩があるのかもしれないし。もう今の二人は、恋人ごっこをしているんじゃなくて、恋人として互いに向き合っているんでしょ?」
夕日はすっかり山の背に沈んで、夜の気配が高まってきた。緑の葉先を撫でるように風が吹いていく。
「ありがとう、山田。その一言でなんだか救われた気がするよ」
「お礼はいらない。私も中島には陰湿な精神攻撃を加えてきた負い目があるの」
冗談とも本気ともとれる口調で山田は言った。固まっていた背中に刺激を与えようと中島は伸びをして、鼻から息を吐きながらつぶやく。
「明日ちゃんと学校に来てくれよ。マイケルみたいにいきなり消えるなよ」
山田も真似をして伸びをした。
「それはこっちのセリフよ。欧陽や中島はいつの間にか転校してそう」
転校と言われて、中島の肌はぞわりと逆立った。
「そういえば欧陽にも、さっき山田に言われたのと同じことを言われたんだ」
「なんて言われたの」
「お前は俺に似ている、って言われた」
山田はにやけて下唇をすぼめる。
「どこが? どこか似ているかによっては、中島に似ている私も欧陽に似ていることになっちゃう」
ロボットが大嫌いなところが、と正直に言うのは中島には憚られた。もう終わった話題をまた蒸し返すもどうかと思うし、ロボットを肯定的に捉えようとする山田に喧嘩を吹っかける形になるのも気が引けた。
「忘れた。でも、あいつが言った俺の悪口は覚えてる。お前はいつも黙って周りを窺って空気を読もうとするばかり、だとよ」
「絶対忘れてないでしょ。それはまあいいとして、私と欧陽が中島のことを同じようにけなしてるのが気に食わない。あいつと目の付け所が似てるみたいで」
ふくれっ面の山田がおかしくて中島は吹きだした。
「二人が似てるのか、誰でも同じように感じてるのかは俺には分からない」
「たしかに。マイケルならどう言ったのかな」
向こう岸でひとり釣りを楽しむ若者を、二人はしばらくぼんやりと眺めた。
空腹感に揺り動かされて中島は切り出す。
「じゃあそろそろ帰るか」
「うん」
二人はよろけながら支えあって石段を登り、自転車が高速で走っている道路へと出た。
「私はこっちだから」
「そうか、じゃあまた明日」
大きく頷いた山田はたしかな足取りで歩いていく。背負っていたものを降ろして体が軽くなったのだろうと中島は思った。そして、後ろめたさから隠していた今日のことを告げるべきか迷った。迷っているうちに山田の姿は消えた。
結局、部屋で桃瀬を傷つけたことは最後まで言えなかった。
そのわだかまりを頭から追い払おうと中島は、自律型ヒューマノイドによる論理的類推の限界――現実と虚構を隔てる透明な壁、の意味について考えながら家に帰った。
その夜、桃瀬から返信が来ることはなかった。
しかし、追撃の連絡をする勇気も出なかった。
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