第9話

 五つの空席が目立つ教室へと一ノ瀬がやってきたのは、朝のチャイムが鳴って五分過ぎた頃だった。相変わらずTシャツをラフに着こなしていて、寝ぐせではねている後ろ髪もいつもの調子である。

 遅れて入室してきた補助ロボットの台から、赤いファイルを抜きだす。

「まずみんなに伝えないといけないのは、マイケルが転校したということだ」

 生徒たちがにわかに騒がしくなり、昨日までマイケルがいた席へと忌々しげに目を送るなか、桃瀬だけは背筋を張って、雨に濡れてくもった窓を見ている。

「あとは、今日の四限は数学から古文へと変更ということくらいか」

 一ノ瀬は教卓のうえのプリントを覗きこんでさらりと言った。教え子がひとり転校することと授業が変更することの重みは等しいと暗に示しているようだった。

 こんな異様な状況にあっても、声をあげる者はいない。昨日の夕方、近くの学校で過ごしていた生徒がロボットだったとの噂が出回ってから、転校生という単語はロボットの検出器のような意味合いを含むようになっていた。入学してから昨日までマイケルと仲良くやっていたのに、たった一つの噂でその関係は崩れたのだった。それほどまでにロボットに対する反感は高いらしかった。

 一ノ瀬はそんな生徒たちの変わりようを面白がっているようだ。蔑みの目で空席を眺める多くの生徒を見回して、いつ自分へと注意が戻ってくるか試している。

 中島はその苦しい時間が少しでも早く過ぎるのを願っていた。かつては各地を転々としていた生徒であったから、その過去が暴露されれば今度は自分がターゲットになる心配があった。

 と、いきなり一ノ瀬が、殻に閉じこもってオーラを消していた中島を指さした。

「え」

 皮肉な笑みを浮かべた一ノ瀬は、指をさらに押し出した。固まっていた生徒たちは一斉に体を後ろへとひっくり返した。その視線の先には、中島の二つ後ろの席で手を挙げる、山田がいた。

「山田、どうかしたか」

「はい、マイケルはどういう理由で転校したんでしょうか。昨日の放課後に連絡を取り合っていたんですが、突然ぷっつりと返事がなくなったんです」

「昨夜、あいつの親御さんから連絡をもらった。お父様の仕事の都合で海外に引っ越さなければならなくなったと。マイケルがどうして返事しないのかは俺には分からない。準備が忙しいとか、返事をしたら別れがたくなるとか色々あるんじゃないのか。とりあえずあと数日くらい様子を見てみろ」

「そうですか、ありがとうございます」

 山田は口を結んで眉根を寄せて不満をあらわしていたが、ほかの生徒たちから投げられる奇異の目に屈したらしく素直に引き下がった。別の質問を求めるような雰囲気が教室に生まれた。マイケルと親しくしていた中島や欧陽のためのだと言わんばかりに、一ノ瀬は二人を交互に見やる。

 肘をついている欧陽が黙って頭を横に振ると、中島はそれに乗じる形で一度だけ小さく頭をゆすった。この開かれた場であえて質問する勇気もなかったし、それに一ノ瀬の挑発するような目つきが気に食わなかったのだ。

 中島の臆病さを見抜いたかのように桃瀬は唇を歪めた。

「あとの欠席者四人は体調不良と聞いている。以上」

 ホームルームが終わればまた、黒くて湿った感情の渦巻く噂話があちらこちらで起こった。肩身の狭くなった三人は廊下に逃げ出し、まず山田がぽつりと恨みがましく呻く。

「マイケルはどうしてこんな最悪のタイミングで転校したのよ。どう考えても疑われるに決まってるのに」

「つまりそれが答えなんじゃないのか」

 欧陽が背中を搔きながら興味なさげに言うと、山田は顔色を変えた。

「本気でそう思う? マイケルはどう考えても普通の人間だったじゃないの。私たちと同じように笑って怒って怖がっていたじゃないの」

「だからマイケルは世界最先端のロボットだったってことだ。俺らみたいな素人を騙すくらいはお手の物さ」

「さっきから自分がどれだけおかしなことを言ってるか理解してる? ちょっと変な噂が回ったり、ちょっと連絡がつかなくなったりするだけで友達じゃなくなるような、そんな浅い関係じゃないでしょ」

「まだマイケルがロボットなのかは不明だけど、もしそうなら俺にとってあいつは友達じゃなくなる。それくらいの関係だ」

 欧陽は身震いするような仕草を見せた後、肘から先を直角に折り曲げてロボットダンスをして、食ってかかろうとする山田をからかった。両手を後ろ髪に持っていった山田はいらいらとかき回し、二人の口喧嘩を静観していた中島を睨みつける。

「中島はどう思ってるのよ」

「俺は信じたい、けど」

 巧妙に仕組まれたかのようなタイミングの良さに疑問が残った。マイケルを見ていて、次の日に転校しなくてはらないほど切迫した事情があると感じられなかった。昨日もいつも通りの暑苦しさを振りまいて、中島や欧陽にうっとうしがられて笑っていたし、何でもすぐ口に出すマイケルが黙っていたのも不自然だった。

「特別な事情があるのは間違いない。でも親御さんから学校に伝えられているんだし、やっぱり家庭内の問題なのかもしれない」

 ほっと息を吐こうとした山田を、欧陽はまた追い詰めた。

「そもそもその理由が本当かも分からないし、一ノ瀬が本当の理由を生徒たちに伝えているとも限らない。一ノ瀬は偏見なしで怪しすぎる。ほら、マイケルが電車のなかで提案してくれたじゃないか。一ノ瀬と桃瀬の関係を調べてはっきりさせようって」

「そうやって都合の良いときだけマイケルの名前を出すのね」

 山田はうつむき加減になり、欧陽の胸に肩をぶつけて去っていった。罪悪感からか欧陽はうつむいた。

「言い過ぎだったかな」

「確実にな。それより今日の放課後は空いてるか」

 一ノ瀬と桃瀬の間柄を暴きだすことで中島の頭はいっぱいになっていた。

「運良くフリーだ。俺の調べだと、一ノ瀬は、金曜日はすぐに車で学校を出る。もちろんそう簡単に車では帰らせない。車を追いかける手段を俺たちは持っていないからな」

 得意げに笑う欧陽がいつになく頼もしく見えた。

「決まりだな。できるなら俺は少しでも早いほうがいい」

 教室に戻ると桃瀬がなにか訴えたそうな目線を投げてきたが、欧陽は愛想笑いをしたきり放課後までそちらを見ないようにした。

 六限の化学を終わらせるチャイムの音は緊張をはらんで響いた。教室の扉に張りつくようにして待っていた一ノ瀬は、化学教師に形だけの挨拶をしてその脇をすり抜け、黒板の前に立って生徒に号令をかけさせて即座にホームルームを終わらせると、足早に廊下を歩いていった。

 中島は迷いのある足取りで、教科書をぱらぱらめくっている桃瀬へと話しかけにいった。

「ちょっと言わないといけないことがあって」

「なに」

 見上げてくる桃瀬の口もとは不安げだったので、中島は束の間ためらったが、もう後には引けないと思いなおした。

「その、今日は一緒に帰れないんだ。ちょっと大事な用事があって」

「分かった」

 桃瀬の鼻から唇にあったこわばりが消えた。

「うん、ごめん」

「気にしてない」

 申し訳なさやら気まずさやらで浮き足立っている中島の前で、桃瀬はむくれるでもなく帰る用意をするでもなく、次の指示を待っているような感じで動きを止めている。次の日に遊園地に行く約束をしている男女らしからぬ微妙な距離感だった。

 椅子を机にぶつける音がして中島が振り返ると、苛立ちを隠そうともしない欧陽が廊下へと出ていこうとしていた。

 と、情けなく突っ立っている中島を押し出すように山田が現れた。

「桃瀬、これから空いてたりする?」

「うん」

「じゃあ行きましょう」

 桃瀬の手を取った山田は、そばにいた中島を無視して通り過ぎ、ほかの友達に断りを入れて廊下へ去った。中島は唖然として見送り、感謝と不満を半分ずつ抱きながら、階段を降りつつある欧陽を追いかけて、一階の保健室の前まで来てやっと肩を捕まえて並び歩いた。

「ごめん」

「ちゃちゃと済ませろよ。桃瀬はそんな依存するタイプでもないだろ」

「そうなんだけど、昨日、俺が問い詰めたせいで微妙な雰囲気になってしまって、なかなか話しづらいんだよ」

「一ノ瀬とどういう関係なんだって聞いたからか」

「たしかそんな感じ」

「どうせ煙に巻かれたたんだろ」

「だから今日こうやって一ノ瀬を尾行してるんだよ」

 と言った瞬間、中島は欧陽にトイレへと押し込まれた。

陰からそっと顔だけ突き出してみると、職員室から出てきた一ノ瀬が左右を見渡しながら車の鍵を手で弄んでいる。

「危なかった。ここからが大事なところなのに」

 中島と頭を並べて欧陽が呟いているうちに、一ノ瀬はさっさと駐車場のほうへと行った。

「さすが欧陽だ」

 素直に褒めたが、欧陽はそう受け取らなかったらしく、

「これくらいで褒めるな」

 と吐き捨てて、後ろ姿の見えなくなった一ノ瀬をつけていく。機敏に動く欧陽に、中島は舎弟みたいに付き従っていく。靴箱からくたびれたスニーカーを取りだして履き替えていると、体育館のそばの駐車場で、腰をかがめて黒い軽自動車のタイヤを点検する一ノ瀬が見えた。リズム良くかかとを地面に打ちつける中島の耳もとに、欧陽が囁きかける。

「釘を何本か打ち込んでおいた」

 耳を疑って欧陽の様子をうかがった。

「やるときは徹底的にやらないとだめだ」

「さすがにやりすぎだ」

「やりすぎかどうかは、これから判断しろ」

「見つかったら大変なことになるぞ」

 ちょっとした詮索のつもりだったのに、相談もなしにここまで荒っぽく行動されて、中島の気持ちは遠くに取り残されていた。欧陽にとって一ノ瀬と桃瀬の関係など些細なことに過ぎないはずだが、どうして引き返せないくらいの危険を冒すのだろうかと気になった。

「欧陽はどういう理由で動いているんだ」

「お前のためでもあるし、俺のためでもある」

 欧陽は本気とも冗談ともとれる謎めいた笑みを浮かべた。かっとなった中島は欧陽の胸倉をつかんで揺さぶる。

「俺が聞きたいのは、お前の真の目的なんだよ」

 段につまずいて二人がもつれあうように倒れた。まだ挑発したげな顔で笑っている欧陽を見て我を失い、中島は腕を振り上げた。

 が、打ちつけられなくて、空中に腕を止めたままでいるその隙に、欧陽は体を抜いて段に腰掛け、乱れた制服を整える。その胸が激しく上下しているのを、欧陽はうつ伏せのまま脱力して見ている。

 周囲からひそひそ声が湧いてきて、二人の靴箱の列からは人がいなくなった。

「我慢してたけどはっきり言わせてもらう」

 欧陽はぐったりしている中島を仰向けに裏返して凝視した。

「俺は桃瀬がロボットなんじゃないかと少し疑っている」

 中島は弾丸を撃ちこまれたかのように目をつぶった。心のどこかで疑っていながら信じるのが怖くて、考えるのさえ怖くて先延ばしにしていた謎を、とうとう友人の欧陽に投げかけられてしまったのだ。

「俺も本気でそう思ってるわけではない。でももし、もしうちのクラスにロボットがいたとしたらあいつしか考えられない」

「どうしてうちのクラスにいる前提なんだ」

「近くの学校でも見つかったらしいし、それに感情表現が薄いっていう特徴にも合致する。転校生なのかは分からないが」

 欧陽の声から自信が薄れていくのを中島は感じた。

「そんな弱い根拠でどうして決めつけようとするんだよ。いつもの欧陽ならそんなことは絶対しない」

 桃瀬の過去を知る自分までも騙すように、中島は起き上がりながら大きな身振りで訴えた。中学校でいじめられたから遠くの高校を受験したというのは、転校と言えないはずだと一人で断定していた。せっかく桃瀬が信頼して明かしてくれた秘密を誰にもばらすつもりはなかった。

 深呼吸した欧陽は扉のガラスにもれかかる。

「俺も自分がどうかしてると気付いているから、この目で一ノ瀬の正体を知っておくべきだと思っているんだよ。みんなに隠れて桃瀬を特別扱いするあいつを辿れば真実が見えてくるかもしれない。それに」

 ズボンを灰色に染めるほこりを払う中島を、欧陽の真摯な目が射貫いた

「いろいろな証拠を揃えたうえで、マイケルのことも問い質さないといけない。まだ冷静に判断できる状態ではないけど、マイケルがロボットではないと信じたいんだ」

 そんな情の厚さを欧陽がもっていたことに中島は安心した。

「そうだよな。マイケルが伝えた転校の理由もあいつが歪めてるかもしれない」

「それも含めて、これから探偵ごっこをすれば裏事情は分かってくるはずだ」

 車に乗るのを諦めた一ノ瀬がきょろきょろしながら門から出て、駅の方向へと歩いていった。二人は尾行がばれないように、見通しのいい道では距離を十分にとって、駅近くの人混みでは標的を見失わないように近づいて、時おり振り返ってくる視線をうまくかわして駅までたどり着いた。

 改札をくぐった一ノ瀬は偶然なのか、いつも桃瀬が乗る電車のホームに降り立った。いやな胸騒ぎがしたが、中島は何でもないふりをして階段の陰で息をひそめる。快速急行が車輪を軋らせて停まり、多くの乗客がひと塊になってどっとホームに溢れた。

「隣の車両に乗るぞ」

 アナウンスがやかましく鳴るなか欧陽が言うと、二人は降車客の流れに逆らい、扉が閉まる寸前で乗り込んだ。車内は身を隠すにはちょうどいい混雑で、頭の位置を変えれば問題なく一ノ瀬を監視できた。

「どこまで乗るんだろうな」

 出来れば、桃瀬の家から離れたこのあたりの近場であってほしいとの願望をもちながら中島は言った。

「もしあいつが真の秘密主義者なら、勤務先から遠いところに住んでいるはずだ。休日にふらっと買い物に出かけて生徒たちに会うのは絶対に避けたいだろうし」

「近くだったら疑いは多少晴れるな。それより、マイケルが何度も言っていた鬼ごっこという言葉が、俺は今になって不可解になってきていて」

 欧陽はくいっと首を反って、隣の車両を睨みながら相槌をうつ。

「勘繰りすぎかもしれないけど、マイケルがやたらと鬼ごっこと連呼してたのが」

「つまりマイケルは始めから、あれが全部ドッキリだと知っていながら、俺たちと一緒に怖がっているふりをしていたと」

 非難を受けているような気分になってきて、中島は声音を和らげる。

「マイケルを悪く言いたくはない。でも老人ホームに行ったあたりからイズミンとか親しげに呼びはじめたし、ドッキリだと明かされて俺たちがキムさんに突っかかっている時も、あいつだけは黙ったままだった。マイケルが悪意をもっていたとかは俺も思っていない」

「そう指摘されると、たしかにそうか」

 電車が停まり、太ったサラリーマンが二人を押しのけるようにして降りた。一ノ瀬はいらいらと爪を噛んでは携帯をいじり、靴裏で小刻みに床を踏み込んでいる。降りるよりも乗る人間のほうが多いらしく、二人のいる車両にはむさ苦しいほどの熱気が充満した。

 一ノ瀬の手もとだけは視界にあったが、焦りの浮いた顔は、女子高生の肩に隠れて見えなくなった。

「もし仮にマイケルがロボットだったとして、どうしてドッキリを隠す必要があるんだ」

「知らないよ。そもそも俺は、欧陽なら答えを導いてくれると期待して聞いただけだ」

「人間に限りなく近い自律型ロボットなら、LUVLUB社製だろうし、MLT社がそこに協力する義理はないはず」

 欧陽は指先を額に当てて、薄い皴を伸ばしたり縮めたりしている。その聡明で頑固そうな友人の姿を見ていると、勇気を出して彼の意見を聞いたのは間違いではなかったと思えた。そして、もっと個人的な悩みまで相談してみようとの誘惑に駆られた。

「一生懸命考えてもらってるときに悪いんだけど」

「なんだ」

 手を止めた欧陽に、指の隙間から睨みつけられて怯んだ中島だったが、もはや彼を頼りたいという衝動は抑えられなかった。

「明後日デートの予定があって、でもあんまり関係性がよろしくなくて」

「もっと関係は悪化するかもな。その気まずさの根源にある一ノ瀬の正体を暴きに行くんだから」

「それも含めて問題なんだよ。お前と一ノ瀬はそういう関係なんだろ、と指摘するのも気が引けるし、かといって大人しく引き下がるのも気に入らない」

 中島が情けない声を漏らすと、欧陽は吹き出した。

「お前は誰に遠慮してるんだよ、桃瀬を罵倒しまくってなんなら学校中に噂を流してやればいい、とアドバイスをしても実際には出来ないんだろ」

 すべてを見抜かれているのだと中島は改めて知った。どんな厚い鎧をまとおうとも、どれだけ外向きの態度を徹底しようとも、分かる人間には自分の性格はすべて筒抜けなのだと改めて知った。

「ほらな。まあ作戦会議はあとで開いてやるよ。マイケルが転校してしまった今、お前が頼れるのは俺くらいだろうし」

「ばれてたか」

 口ではそう言ったものの、中島はこの時まで二人をあまり信頼できていなかったのだった。当たり前にそばにいたマイケルを失ってようやく、まだそばにいる欧陽を信頼しようと思い切れた。不安定に揺れるそんな心を省みて、つくづく自分はろくな人間じゃないと思い知らされた。

 車掌のアナウンスが流れると、客の多くが降りる準備を始めた。一ノ瀬はすでに扉の前を陣取り、今にも走りだしそうな雰囲気を振りまいて周囲を牽制していた。

「中島、俺たちも急ぐぞ」

「おう」

 扉が開いた。先頭の一ノ瀬がエスカレーターに乗り込んだ後ろに、人が連なっていく。その流れに割り込もうと二人は列の隙間をうかがったが、そこにいる誰もが必死に自らの順番を守っていた。

「階段から行くしかない」

 一段飛ばしで階段を駆けていく欧陽の背中を見失わないように、中島は誰かの体を突き飛ばしながら追った。やっとの思いで登り終えると、改札の向こうで駆け足気味に南口へと向かう一ノ瀬がいた。

 二人は目で意図を通わせて南口へと急ぐ。

「とうとうあいつの根城が見られるぞ」

「まだあいつが悪者かは確定していないけど」

「きっとあいつも容疑が晴れたら喜ぶはずだ」

「本人は疑われてることも知らないのに、か」

「細かいことを指摘してくるな。あと、これ」

 リュックを前掛けにした欧陽は紺色のカッパを二着取りだし、そのうち一つを中島に手渡して顎をしゃくった。

「制服が見えないほうが身分を隠すには都合がいいだろ」

「準備がいいな。ありがとう」

 二人はバスロータリーで一旦止まって、かりそめのマントを身にまとい、ふたたび追跡を開始した。

 雲が厚く空を閉ざしている下で、一ノ瀬はじんわりと雨の跡の残る横断歩道を渡り、閑散とした古くさい商店街に入り、途中で脇道に折れて数分ほど歩いていく。その後ろ姿には、学校の近くで負っていたような用心深さはなく、軽やかに堂々と肩を揺らすほどの余裕があった。

 四階建ての落ち着いた色合いのマンションの前で、一ノ瀬は足を止めた。

 習慣のようにあたりを見回し、番号を打ち込んでオートロックを解除してマンションへと入った。無情に閉ざされる扉を中島が呆然と見ていると、欧陽は中島の頭を下に押しつけてしゃがませる、

「まだ諦めるな。ここからでもあいつが入る部屋が分かるかもしれない」

 そのマンションはオートロック付きの物件ではあったが、周囲を透明のガラスで覆われているため、住居の廊下は丸見えだった。

「でも部屋番号までは見えないぞ」

 すると、欧陽の予想を裏付けるかのように一ノ瀬は三階に現れて、左端から数えて三番目の部屋へと帰っていった。

「とりあえず次に誰かが帰ってくるのを待つか」

 半笑いの欧陽は目の前にある小さな公園のブランコに座り、携帯を操作していたかと思うと、漫然と立ちすくむ中島へとその画面を見せつけた。

「あいつが住んでいるのは三〇三号室ってことか」

「ネットと自分の足を駆使すれば、ある程度の個人情報は手に入る」

 悪びれた様子なく言う欧陽からは、冷めた危険な匂いがした。これまでにも他人の個人情報を漁ってきたからこそ、今回も手間取らずに行動できたのだと中島は感じた。

 そして彼がこの次にやることも察した。

「住人の後ろについて内部に侵入して、郵便物を見るつもりだな」

「その通り」

「それで怪しいところがあったら直接訪ねるのか」

「そんな迂闊なことはしない」

 欧陽は土を蹴ってブランコで前後に揺れはじめた。

「あいつの家が分かった以上そんなに焦る必要はない。きちんと裏付けをして、逃げ道をなくしたうえで問い詰めればいいだけだ」

「まるで恐喝だな」

「探偵ごっこも悪くないだろ? きっとお前は楽しんでる」

 突風に吹かれて中島の髪は振り乱れた。

 言い返そうとした時に、欧陽がブランコから飛び降りた。

「行くぞ」

 会社帰りらしい中年の女性がオートロックを解除しようとしていた。単身者用マンションの住人らしからぬ風体の高校生二人は、彼女の背後に忍び寄り、無害そうな雰囲気を取り繕ってエントランスへと侵入する。

 女性が見慣れない二つの顔に挨拶をしてから、一階の廊下へと進んでいくのを確認すると、欧陽は三〇三号室と書かれた郵便受けへと手を突っ込んだ。気が気でない中島は誰も近くを通らないのを祈りつつ、欧陽の指先をのぞきこむ。

「手が痛くなってきた。代わってくれ」

 真っ赤に腫れた手を下に振りながら欧陽が場所をあけたので、しぶしぶ中島は引き受けた。本来ひとが入れるはずのない狭い横穴に二本の指をねじ込んでいくと、底の近くにハガキのような感触があった。

「取れるかも」

 手首より先は穴に食われた状態で、つかみ損ねては舌打ちしながら奮闘していたが、苦労が実ったのか指先になにかが挟まった。

 その角度を維持したまま慎重に引き抜く。

「はやく見せろ」

 欧陽はひったくってハガキを眺めてから、

「とりあえずここを出るぞ」

 と言ったきり、中島が問いかけても、商店街に至るまで声を発しなかった。

 シャッターを下ろそうとする青果店を通り過ぎるころに、ようやく口を開いた。

「これを読んでみろ」

 ガス料金の請求ハガキの名前欄には、山内、とあった。

「やっぱり一ノ瀬は偽名だったのか」

「今週末は大忙しになりそうだな。あいつに白状させるための舞台を整えないといけない。その先にあるかもしれない、人間風ロボットに関する秘密を暴くためにも」

 中島は背中をせりあがる冷や汗を感じた。

 と、欧陽は純朴そうな笑顔をぎこちなく作った。

「いまのは桃瀬を指しているわけじゃないさ。どちらかと言えばマイケルを指している」

 いずれにしても、中島の漠然とした胸の霧は濃くなるばかりだった。友人と恋人のどちらかがロボットだとは思いたくなかった。自分と同じような、ちゃんと血の通った、悲しんだり喜んだりする生き物であってほしかった。

 高校生になって初めて手に入った、心を許しうる他人を失いたくはなかった。

「俺が言うのもなんだが」

 欧陽は歩調をゆるめて頭を掻く。

「ややこしいことは忘れて、明後日は楽しんでこい。一ノ瀬、じゃなくて山内の調査は暇な俺に任せておけばいいからさ」

「ありがとう」

「だいたい桃瀬はただの被害者かもしれないだろ。山内がじつはただの変態で、桃瀬に悪さをしようと付け狙っているだけかもしれない」

 この際、それが欧陽の本音なのかは気にならなかった。ただ自分の楽しみを尊重しようとしてくれる彼の優しさに中島は感謝していた。

「明後日か、まだ何も決めてないな」

 今度もまた率先して予定を組まなければという邪魔くささはあったが、桃瀬と人目を気にせず会える喜びのほうが大きかった。

「俺が山内の情報を送ったら、中島もデートの話を聞かせろよ」

「大事なところ以外は教える」

「ふざけんなよ」

「言うほうがおかしいだろ」

 この時だけは憂鬱な現実も忘れて二人は軽口を叩いていたが、商店街のありとあらゆるシャッターが閉められ、通行人の気配が途絶えると、欧陽が脈絡なく言いだした。

「中島は俺に似てるよな」

おそるおそる中島は聞き返す。

「どういうところが」

「ロボットが心底嫌いなところだよ。人間じゃないくせにさも人間みたいな顔をして俺らの生活を侵す化け物を、嫌いなところ。偽物のくせに本物のふりをして俺らにでも成り代わるつもりかよ、あのクズ野郎どもは。あの企業は世界を自社製のロボットで征服して、抵抗しようとする人間たちをひとり残らず駆逐するつもりなんだ。きっとその準備が進行中なんだよ。ロボットは人間と直接触れ合うことで、人間の行動原理をすべて学習して、いずれ凌駕するようになる。中島は分かってくれるだろ、俺が抱いてるこの不安を」

 悪霊でも乗り移ったかのように欧陽は青白い顔をしていた。血走った目の下には塗られた紫色の隈、むき出しになった歯茎ときりきりと出っ張った喉ぼとけ。

「いや、俺は」

「いや、お前は俺と似ている。俺たちの違いは、自分の考えをほかの人間に知らしめる勇敢さがあるかどうかだけだ。お前はいつもロボットを差別しているくせにそれを絶対に表面には出さないよな。ロボットに関する話が出てきたら、いつも黙りこんでいないふりをして、意見を聞かれたら当たり障りのない返答をする。俺が気付いてないとでも思ってたか」

 中島は詰め寄ってくる欧陽から離れようと後ずさる。背中にシャッターがぶつかり、耳をつんざくような音が遠くまで轟く。その残響を聞いているうちに、頭の中からぐらぐら揺さぶられて、普段は隠している汚ならしい感情がするすると口から飛び出してきた。

「その通りだよ。俺は差別主義者だ。あいつらに俺たちを食い物にされるのが気に入らない。それを当たり前のことのように受け入れていく社会が、みんなその可能性に気づいていながら口をつぐまざるを得ない同調圧力が、それを糾弾した俺が袋叩きにされる未来が怖い。これで満足かよ」

 叫んだ中島は欧陽を押し戻して、膝に手をついた。吐き出された本音は今さら飲み込むことはできなかった。無防備にさらけ出してしまった醜い自分を恨むだけだった。

 と、眼下に欧陽の手が差し出された。

「悪かった、中島」

 顔を上げると、欧陽の鬼のような形相は、澄まし顔に変わっていた。

「どういうことだよ」

「中島がいつまでも殻に閉じこもって出てこないから荒療治をさせてもらった。本音で話し合えない関係は親友とは言えないだろ」

「親友か」

 むずがゆい響きが心を温かくした。転校につぐ転校のせいで、これまで決して手に入れられなかったものが目の前にあった。

「マイケルが転校してしまった今、俺たちはさらに団結しないといけないだろ。べつに俺はお前に世間に向けて心の声を垂れ流ししろなんて要求しない。ただ俺にだけは本音で向き合ってほしいんだよ」

 欧陽はこの失言をちらつかせて脅迫するような男ではないようだった。少しでもそう疑ったのが恥ずかしくなり、中島は身動きをとれなかった。

「いつまでそんな負け犬みたいな恰好でいるんだよ」

 まっすぐに伸ばされた手が中島を引き上げた。

「中島、今日が始まりだろ。一ノ瀬、じゃなくて山内を俺たちで追い詰めるんだ」

 丸めた肩を回しながら中島は首を鳴らした。

「そうだな。欧陽のおかげでなんか心が軽くなった」

「よかった。俺は日曜の夜までに調査結果を報告するよ」

「頼りにしてる」

 とうとう降りだした大雨に、駅のロータリが霞んでいた。

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