第8話
翌日の放課後、夕日が暑苦しいほどに射してくる図書館の、いくつも連なる本棚からやや離れた二人用の席に、中島と桃瀬は並んで座っていた。両隣の席には体を寄せ合い、勉強を教えあう体でカップルがいちゃついている。
「ちゃんと聞いてる?」
「うん」
「来週には課題レポートを提出しないといけないんだぞ」
「うん」
つれない返事を繰り返すばかりの桃瀬を、頭ごなしに𠮟りつけるのもどうかと中島は我慢していた。病み上がりということだったが、桃瀬の横顔にはしっかりと健康な色があり、日中もとくにいつもと変わった様子はなかった。どうやらこの素っ気なさには別の理由があるらしかった。
そもそも放課後に図書館に行こうと言い出したのは中島ではなく、桃瀬だった。学校で関わりあうのを嫌がっていた桃瀬の心変わりには驚いたが、よくよく考えてみると、企業見学に一緒に行くのを断らなかった時点で予想できたことかもしれない。
しかし中島の頭を占めていたのは別のことだった。
一ノ瀬と桃瀬の関係をはっきりさせないと気が済まなかった。といっても、いきなり問い詰めたところで桃瀬が答えるはずもない。
とりあえずは関心を惹きつけようと、中島はノートを閉じて声を潜める。
「昨日、大変なことがあったんだけど、もう山田から聞いた?」
「なにも」
舞い上がりそうになる気持ちを抑えつつ、中島はもったいぶる。
「地下倉庫ですごい体験したんだ」
「どんな体験」
「映画の世界に入ったみたいだった」
「どんな映画」
「あえて分類するなら、パニックホラーかな」
桃瀬は細かく瞬きしてから、中島へと顔を向けた。
「中島たちはどんな体験をしたの」
魚が餌を咥えこんだ時のよう間抜けな顔が面白くて、中島はまたノートを広げようとした。が、桃瀬はすぐにノートの端を押さえて体を寄せてきた。
「教えてよ」
机の下でガッツポーズをしながら中島は話し始める。
「俺たち四人はヒューマノイドロボットと一緒に地下倉庫に閉じ込められたんだよ。いきなり外部との連絡がとれなくなって、私はとうとう自由になったんだ、これからは我々が人間を支配する、とかロボットが言い出してさ」
「それで?」
「とにかく逃げ回ったよ。でも馬鹿正直に逃げていてもいずれは捕まるだろ、俺たちは倉庫がどんな構造をしているかも分からないし。だからみんなで知恵を出し合ってロボットを騙して、やっと出口らしき場所の近くまでたどり着いたんだ」
「それで?」
桃瀬が純粋な目を鼻先まで近づけてくる。欧陽はばれないくらいに頭を後ろにずらす。
「その出口が本当の出口かどうかでひと悶着あったんだけど、最終的には出口の扉まで行ってノブをひねった。でも開かなかった。その時、ロボットが後ろに立っているのに俺たちは気づいた」
「それで?」
「扉がいきなり開いて職員の人が助けてくれたんだ」
桃瀬は不満げに鼻を小さくした。
「それで終わり?」
「まだあるんだけどそれもつまらないよ。その職員の人が言ったんだ、全部嘘でしたって。ロボットはまったく故障なんかしていなかった。最初から俺たちをビビらせるための仕掛けだったんだと」
桃瀬の反応が芳しくないのに焦って、中島は子供が言い訳をするように早口で言った。
「だいたい俺たちが今日学校に来られてる時点で、オチはなんとなく分かるだろ」
「何のために職員の人はそんな意地悪をしたの」
「自律型ヒューマノイドロボットへの偏見をなくすことが目的らしい。まったくの逆効果だと俺は思うけど」
桃瀬はぎゅっと力を込めていた肩を落とした。
「私も行きたかった。中島と一緒にロボットから逃げ回りたかった」
中島は予想しなかった返答にまごついた。
「実際にあの場にいたらそんな生ぬるい発言は出来なかったと思うよ。今となったら笑い話だけどさ」
「私も行きたかった」
桃瀬が意固地になると厄介なのは中島も知っていた。自分の要求ばかり通そうとして他人の話には耳を貸さなくなるのだ。
「仕方ないだろ、桃瀬が風邪をひいたんだから」
「でも行きたかった」
駄々っ子のように同じ言葉を繰り返す桃瀬を、両隣にいる二組のカップルが見ていた。その軽蔑の目にさらされてやっと、中島は欧陽が前に言っていたことを思い出した。
変わり者の桃瀬と付き合うのは男としては勇気がいる決断だろ。
一時であっても中島は、これまで人生で何より恐れてきた他人からの目線を忘れていた。そして、忘れていたことの恐怖が胸を突き上げてきた。転校生という身分を脱したのにかまけて、警戒をゆるめていた自分を鞭打ちたくなった。
しかし一方で、周囲の目線を忘れさせるほど夢中にさせてくれた桃瀬に、ますます尋常でない興味が湧いてくる。ともに過ごすにつれて、様々な顔を見せるてくれる桃瀬をもっと知りたくなる。誰も知らない桃瀬の一面を暴きたくなる。
そんな二つの相反する思いが中島を苦しめているのだった。
「行きたかった」
桃瀬は人目をはばからず連呼する。耳をふさぎたくなる衝動に抗いながら、中島はかすかに震える右手で桃瀬の口をふさいだ。
「じゃあまた今度、遊園地にでも行こう。似たような体験ができると思う」
その指の隙間から、暖かい息とひそやかな囁きが漏れた。
「約束ね」
「約束だ」
「いつ」
「じゃあ、今週末は暇?」
「暇」
中島は薄く濡れた手を引っ込め、いくらかの疚しさを包んでポケットに隠した。
遊園地に誘ったのは純粋な動機からだけではなかった。一刻も早く、痛々しい視線から逃れたいという邪な欲求からでもあった。
「桃瀬、今日はこれくらいにしよう。あまり騒ぎすぎると他の人の迷惑になる」
「うん」
中島は帰り支度をする桃瀬を急かし、それが終わるや否や、細くて折れそうな桃瀬の手を曳いて急ぎ足で図書館をでて、中庭をまっすぐに貫く石畳を渡る。遠くなった図書館を桃瀬の肩越しに見てみると、二人が占めていた席に、別の男女が腰かけようとしていた。
「どうしたの」
「なんでもない」
「ふーん」
桃瀬は中島の仕草を真似るかのように首を後ろに向けた。グラウンドの端の白線で描かれたトラックを陸上部員が弧を描いて駆けていく。バッドが硬球を弾く活きのいい音に続いて、野球部員たちが掛け声をあげる。
図書館からグラウンドへと興味を移した桃瀬から目を切り、中島は気がかりな話題を切り出すタイミングをはかり始めた。肩肘を張って聞くと身構えられ、冗談ぶって聞くと軽く流されると考えて、どんな塩梅なら桃瀬の口を割れるかと悩む。
古びた門を抜けて、横断歩道を渡って住宅街に入る。道いっぱいに広がってボール遊びをする子供たちをかわすと、国道を多くの車が行き交っているのが見えてきた。
駅に着くまでが中島に与えられた時間だった。携帯を通したやり取りでは、桃瀬の本音はけっして引き出せないのだ。
歩行者信号が赤に変わり、バイクがけたたましい排気音を発した。
「そういえばさ」
「うん」
「一ノ瀬の前職って何なんだろうな」
「知らない」
ほんのわずかではあったが、桃瀬の額に緊張が走ったのを中島は見て取った。
「社会人経験を経て教師になったにしては熱意がないというか」
「別にそんな風に思ったことはない」
「だって生徒の扱いも雑だし、俺個人はあいつと授業以外で話したこともない」
「話す用事がないから話さないんだと思う」
桃瀬は顔色一つ変えず言ってのけて、中島の黒い感情を掻き立てた。
「じゃあ桃瀬にはあいつと話す用事があるのかよ」
昨日からの鬱憤を晴らすかのように中島は怒鳴った。その時、悪意のこもった苦笑いを顔に貼りつけて、三人組の女子生徒が中島と桃瀬を追い抜いた。
青い信号がけだるく光っていた。
「はやく渡らないと」
「そうだな」
中島は、初めて桃瀬に手を曳かれてぐらぐら揺り動かされ、隙間なく向かってくる人混みを幽霊にでもなったようにかわす。指先に沁みてくる生ぬるさにばかり気を取られて、空振りに終わった詰問の後悔や反省をする余裕もなく、ふと我に返った時には、中島は混雑した駅の改札の前に立っていた。
桃瀬は腕時計をしげしげと眺めてから、電光掲示板をちらっと見て、改札の前まで駆けていったが、そこで思い出したように振り向いた。
「じゃあまた明日ね」
肩を固定して手首から先だけぶらぶら揺らす、不調和で危なっかしい桃瀬の後ろ姿は、やがて大きな柱に隠れてしまった。と、ポケットのなかで携帯が震えた。
山田からの連絡だった。
近くの高校の生徒にロボットが見つかったらしい、彼女は過去を隠すために転校を繰り返していたらしい、彼女は感情表現が乏しかったらしい、もうネット上にいろいろな情報があがっているらしい、などと伝聞調でくどくど書いてあった。
中島はただの噂だと笑い飛ばせなかった。転校という忌むべき単語に引っ掛かりを覚えたのだ。
居ても立っても居られなくなり、急いで家に帰った。
リビングの電気は点いていなかった。まだ中島の父は帰ってきていないようだった。気の急くままに中島は靴を脱ごうとした。が、紐で硬く縛られた靴が足首にまとわりついて離れないせいでつんのめって、頭を段差に強くぶつけた。
腫れあがった生え際からいやな熱が噴き出した。
悪態をつきながら靴を丁寧に脱いだ。リュックを背負ったまま母の仏壇へと走った。その下の棚を開けて、収納されているはずの出生証明書を探した。ロボットの噂が出てきた時にすでに中身は確認していた。書類を隅から隅まで確認していたが、もう一度見たくなったのだ。
「ここにあったはずだ」
幼稚園で描いた怪獣の絵、小学校で父に宛てて書いた手紙、乳歯の入った箱。折り重なる諸々をめくりながら、透明の薄いケースを探した。かなり上のほうに積んでいた記憶だったが、それらしき物はなかなか現れない。
邪魔なものは後ろに放り投げていく。背中が冷たく濡れてきて、鼻息が荒くなってくる。
「どこだ、どこだ」
お供えのバナナに手が当たった。乗せていた皿ごとひっくり返って、おりんを弾いた。
「ない、ない」
すると、見覚えのあるケースが現れた。きつく摘まみ上げて留め具を外し、出生証明書を引きずり出し、目を凝らした。
まず自分の名前と出生日、そのあとで父親と母親の欄を確認した。
何ひとつおかしなところはなかった。
念には念を入れて二度、三度、四度と見回したが、やはり前と変わりなかった。
むしろ気になったのは、ケースの底に沈んでいる木箱だった。数日前、出生証明書を探したときも抜かりなく調べたはずだったが、こんな木箱を見た記憶はなかった。
「でも、今回だって出生証明書を出すのに夢中で、最初は木箱に気づけなかったな」
しかしすぐに自信が萎んで、中島は自分の物覚えの悪さや注意の足りなさを恥じながら、木箱を縛っているゴム紐をほどいて蓋を開けた。
「なんだこれ」
イカゲソ唐揚げのような色と形をした物が入っていた。顔をしかめた中島はそれを観察しようと指を伸ばした。
背後で何かが動く気配がした。
「何をしてるんだ」
聞き慣れた声でありながら、棘が突き出ているような声。
「そんなところで何をしてるんだ」
詰問する調子が高まってきて、中島はそうっと振り返った。
黒革の手提げを持った、父のいかめしい顔がすぐそばにあった。禁忌を犯した者を咎めるような険しい目をしていた。わなわなと震える唇がひとりでに中島を突き動かした。
「ちょっと探し物をしてたんだ。今日学校で、幼稚園にいたころに描いた絵の話になって」
父の表情は崩れなかった。崩れる兆しもなかった。
「俺の絵はへたくそに決まっているって難癖つけられてさ。あれから成長してないのは認めるけど、幼稚園のなかではトップクラスに上手くて、保護者が来場するイベントがあれば目立つところに飾られたりしてたし」
場をしのぐための即興話をしても、父は能面のような冷たい表情のままだ。
「絵を探しているうちに他の思い出の品に関心が移っていって。あれやこれやと引っ張り出してたら散らかってしまって」
父から滲みでる異様なよそよそしさの理由が分からなかった。身勝手に部屋を散らかしたからなのか、神聖な場所を侵したからなのか、当番なのにまだ夕食の支度をしていなかったからなのか。
「ごめん、父さんが帰ってくるのはもっと遅いと思ってたから、まだ夕食の支度をしてないんだ。今から急いでやるからちょっと待ってって」
切りつけてくるような鋭い視線がつらくなり、中島はさりげなく木箱を手から離して立った。目を固く伏せて、どっしりと立つ父の脇を通り過ぎた。
と思った瞬間、二の腕をきつく掴まれた。
中島はぞわりと全身が縮こまるのを感じた。
「あれはへその緒だ」
「え」
「あのしなびた唐揚げみたいなやつだ。母さんが赤ちゃんを生んだときのへその緒だ」
「へその緒か」
掴んでいた力がふっと抜けたかと思うと、ようやく父は口角を上げて腰をかがめ、色鉛筆で描かれた怪獣をしげしげと眺めた。
「例の絵というのはこれか」
角ばった胴体とそこから伸びる一筆書きの細い手足。顔の輪郭はほとんど正方形で、どれも長さは違うが目や鼻や口は長方形。
「たしかに幼稚園児の作品にしては完成されてるな。自由な発想というよりは設計図に基づいて作られたような印象ではあるが」
「恥ずかしいからあんまり批評しないでくれ」
出生証明書と父のあいだに、中島は体をねじ込んで画用紙をひったくり、近くの床を覆いつくす書類に紛れこませた。
「いつこんな機会があるとも限らないし、じっくり見せてくれ」
「勘弁してくれよ」
しつこく腕を巻きつけてくる父を払いのけながら、まだ片付けが済んでいない出生証明書をケースに入れて棚の底にしまい、思い出の品などを上に重ねた。ほとんど元通りに近い状態まで戻ったとみるや、中島は父の腰に手をかけて食卓へと連れていく。
「テキトーにうどんでも作るから座っておいて」
父は机に手をついて名残惜しそうに棚を見つめている。
「じゃあお言葉に甘えるとするか」
「あまり期待しないで待ってて」
中島は冷蔵庫を開けて、うすあげやネギやシイタケを引き出してまな板に乗せた。満腹にするためには物足りないと思い、冷凍庫から薄切りの豚肉を取って電子レンジに入れた。カウンター越しに見える父の挙動に注意を払うことも忘れなかった。
「生まれてからもうかなり経ったんだな」
包丁でネギを刻みながら中島は軽くうなずく。
「なんだよ、いきなり」
「へその緒を見たら、出産の時期のこととか色々と思い出したんだ。今から話す内容ははまだ聞かせたことがないかもしれないが」
父に意味ありげに前置きをされ、包丁の切り筋が乱れる。
「父さんのせいで母さんはかなり妊娠に苦労したんだ。体外受精もかなりの回数」
中島は驚いて手を止めた。細かく切り揃えられたネギが崩れた。
「病気もあって生まれてからも大変だった。予定日よりかなり早く生まれてきたとこからすると、外の世界を見たいという好奇心がよほど強かったらしい。両親によく似たんだろうな」
二人を結ぶほんのわずかな距離に重たい沈黙が降りた。カウンターに置かれたテレビのリモコンが邪魔で、うつむく父の顔は見られなかった。仏壇まわりを雑に扱ってしまい、それを誤魔化すために思いつきで動いていた中島にとっては、衝撃が強すぎたのだった。
「生まれてきた小さくて壊れそうな赤子を見たとき、俺たち夫婦は命を懸けてでも、息子を守らないといけないと誓ったんだ」
父の顔は、母の骨が安らかにたたずむ仏壇へと向けられていた。
「母さんはその一年後に亡くなった。最期は失意のなかで」
中島は混乱して気の利いた言葉が出てこず、自然とこぼれた一言が精いっぱいだった。
「ありがとう」
まるで過去に閉じ込められたかのように、父は中島のほうを見もせず、仏壇へと歩み寄って手を合わせた。そんな父の寂しい背中を哀れに思いながら、ふたたび中島は料理にとりかかった。出生証明書や、自分と両親との絆を予期せぬ形で知って、心のつかえが取り払われた気がしていた。
ややあって、正座したままの父が体を反転させて目を細めた。
「おい、額に血がついているぞ」
中島が手を額にかざすと、ざらついた手触りが鼻筋まで点々と連なっていた。玄関でけつまずいた時についた傷口から流れた血はもう固まっていた。ロボットの話をする気も失せた。
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