第5話

 登校や出社の時間よりも遅いため、電車のホームはかなり空いている。日の光を反射して輝く屋根の下で、中島は緊張しながら電車の到着を待っていた。

 思えば中島は一週間ずっと緊張しっぱなしだった。あの日、唐突に桃瀬と山口とグループを組むことになったせいで、遣わなくてもよかったはずの気を遣わなければならなくなったのだ。

 どの企業を訪問するかを決めるかにおいても中島は、声の大きい山口とケチばかりつける男二人の争いを仲裁した。それでもなかなか意見がまとまらず、中島と山口、マイケルと庄司の二つのチームに分かれて論戦を交わしている時に、ずっと無言でいた桃瀬が男二人の選定企業にお墨付きを与え、ようやく計画がまとまったのは昨日だった。

「え、中島もこの駅だったの」

 目の覚めるような声で、山口は後ろから話しかけてきた。

「俺も山口に同じことを言いたい」

 中島は緩んでいた緊張の糸をまた締め直す。

「行動する時間が違うから知らなかったのかな」

「陸上部は、放課後はもちろん朝練もあるもんな。そりゃ登校は遅くて下校は早い俺とは会わないはずだ」

「今日くらいか」

 ありきたりな会話を終えると長い沈黙が訪れた。

 日に焼けているのか地黒なのか、山口は小麦色の健康的な肌をしている印象があったが、いま隣にいる山口はかなり白かった。どうしてわざわざ企業見学に行くのに化粧がいるのかと聞こうかとも思ったが、余計な火種を生まないためにも中島は我慢した。

 数分後に電車がやってきた。車内には一人分だけ座るスペースがあった。中島が手をだして合図すると、山口はにっと笑って座った。

「さすが、あの桃瀬のハートを射止めた男ね」

 中島はつり革を掴みながら苦い顔をした。

「普通だろ。俺じゃなくてもそれくらいするよ」

「さりげない仕草が慣れてる人のものだと思ったの」

 ネットで得た情報もなかなか使えるものだと中島はほくそ笑んだ。頬が緩んでくると釣られて口も緩んでくる。

「というより、山口の機嫌を損ねたくない気持ちのほうが大きい。あの二人と口喧嘩でも始めたら大変だし」

「私ってそんな暴れ馬みたいに思われてるの?」

 腕を組んで冷静に言う山口に、中島は早口で弁明する。

「あいつらにも問題はあるんだよ。どちらが悪いというより相性が悪いのかも」

 電車の揺れが激しくなり、中島は体を反らせながらバランスをとる。向こうではサラリーマンが落としたカバンを拾っている。

「ふーん。ところで、中島と桃瀬の相性はいいの」

 眼下から訝るようにのぞく山口は真剣な面持ちだった。

「悪くはないだろ、付き合ってるんだから」

「悪かったらすぐに別れるだろうね」

 とうとう我慢ならなくなって中島は声を尖らせる。

「しつこいな。もうこの話はいいだろ」

 やたらと桃瀬との関係を詮索してくるのが鬱陶しかった。桃瀬のまえではなぜか警戒心の鎧を脱げる中島にとって、その二人だけの神聖な関係を侵そうとする部外者は敵であり、排除しなければならない対象だった。

「ごめん、もう止めるね」

 山口は太ももの上のリュックに目を落として黙り込んだ。中島はいきなり声を荒げたのを反省しつつ、乱れた気持ちを落ち着かせようと携帯をいじる。すると、桃瀬から一件メッセージが届いているのに気がついた。

 体調が悪いので今日は行けません、ごめんなさい

 鳩尾にパンチを食らわされた気分になったが、次の瞬間には中島は唇を歪めて笑っていた。不運がいくつも重なると、人間は本能的に笑う仕様になっているのだと実体験で知ったのだった。

 中島は携帯を山口の膝のあたりで上向きに構える。さぁと山口の頭が上がり、前髪の下から絶望にも似た表情が現れた。

「え、じゃあ私は今日男三人にいじめられながら行動しないといけないの」

 その挑戦的な言葉の並びで、山口は元のテンションに戻ったのだと知り、中島はひそかに安心した。

「ささっと見学を済ませればいいんだよ。たまには男だけのなかに混じるのも悪くないぞ」

「しんどいなぁ」

 また愚痴を連ね始めた山口をあやしながら、中島は桃瀬のことを想っていた。

白に統一された部屋のベッドのうえで汗を流して苦しげに呻く姿や、親が用意してくれた雑炊を少しずつ啜る姿、だが最後に脳裏をよぎったのは、部屋の壁を無表情で眺める姿だった。

 昨日学校から帰るときは特に体調に問題があるようにも見えなかった。無口なりにも口数はあって、初めてのデート以来興味をもったホラー映画の話をしていたりした。しかしよくよく考えると、次の日の一大イベントである先端科学見学については何も言わなかったのだ。人見知りの桃瀬が心配事ひとつ明かさないのが不自然だった。

 山口の誘いを受けたのも最初から参加する気がなかったからではないか、そんな疑念がどんどん優勢になってきたが、山口に桃瀬のことを聞くのは地雷を踏みに行くようなものだから、中島はその疑いを胸に収めて外の景色へと意識を向けた。そしてそれにも飽きると、ポケットの中の、桃瀬にもらった半分のハート型金属を握った。

 しばらくすると庄司が電車に乗りこんできて、その二駅あとにマイケルも合流した。四人が揃ったので、中島は桃瀬が欠席することを伝えた。

 男二人は意味ありげな視線を交わしてから、臨戦態勢の山口へと会釈した。

「私も今日は友達ごっこだと思って大人しくしておくつもり」

 一人だけ座席についている山口もしぶしぶといった様子で会釈して、四人を取り囲む空気はいくぶんか和やかなものになった。桃瀬の欠席について切り出す者は誰もおらず、クラス内のくだらないゴシップや教師の悪口などで盛り上がっていたが、山口のある一言で潮目は変わった。

「そういえば最近は見ないけど、一ノ瀬と桃瀬が放課後、たまに教室で親密そうに話してるのは知ってる?」

 山口にはまったく悪気がないらしかったが、中島は背中に悪寒が走るのを感じた。マイケルと庄司も冗談を言わず、中島が反応するのを静かに待っている。

「知らない。少なくともこの数週間の放課後は俺と一緒に過ごしてるから、そんな機会はなかったと思う」

「そうなんだ」

 山口はすべった口を押し止めようとしたが、中島は急き立てる。

「そこまで言ったなら止めるなよ」

「分かった、分かった。言えばいいんでしょ」

 庄司は吊り広告に目をやって関心なさげにしているが、マイケルは分かりやすく中島の肩へと身を寄せた。

「入学式の日、忘れ物をして教室に戻ってきたら、あの二人が向かい合って話しこんでいるのを見たの。私もその時はあまり気にしていなかったんだけど、時間が経つにつれて違和感を抱きはじめた。だって一ノ瀬はわざわざ放課後に生徒の悩みを聞くような親身な教師じゃないし、桃瀬もわざわざ教師に悩みを明かすような人懐っこい生徒じゃないでしょ。でも私はそうやって二人が話しこんでいるのをもう三回くらい見た。だからなにか深い理由がありそうだなって」

 中島が考えついた答えは一つだけだった。しかし、それを口に出すのは怖くて一回息を飲みこんだ。そして心の準備を整えて、喉にまで出かかった言葉を絞り出す。

「二人は恋愛関係にあると言いたいのか」

 山口は答えに困ったように目線をさまよわせていたが、その沈黙は何よりも雄弁だった。

 電車が止まって自動扉が開き、スピーカーから車掌の渋い声が響いた。眠りこけていた若者が目を覚まして周りを見回し、急いで立ち上がって駆けていく。

 無情にも閉ざされた扉に触れた若者は、恥ずかしさを押し隠すように別の車両へと歩いていった。庄司はそんな哀れな後ろ姿を見て嘲笑した。

「さすがにあの後じゃ居心地が悪いよな」

「俺ならみんなに向かって照れ笑いを見せて誤魔化すけどな」

 マイケルは白々しく大声で言ったが、中島はくすりともしなかった。こんな茶番じみた光景で拭いされるような軽々しい疑念ではないのだ。初めて自らの意志で心をつなぎ合わせた思った恋人が、他の男しかも担任教師と関係をもっているなど中島はとうてい受け入れられなかった。

「中島、そんなカッカするなよ。山口もきっとつい口がすべっただけだろうし、だいたい恋愛関係にあるのかも分からないだろ」

 マイケルが仲裁役を買って出たが、中島はそんな中途半端な結論には満足できなかった。色々な皮を被って周囲から身を守ってきた中島だったが、その時々で物事を自分のものさしで測ってきたつもりだった。

「もしかして桃瀬が休んだのも、邪魔なクラスメイトの目をかいくぐって二人で会うためだったりして」

 庄司は両手で自分の肩を抱いてふざけて笑った。理性を失った中島が足を踏みこんで殴りかかろうとしたが、息を弾ませて腕を垂れた。

「次に言ったときにはどうなるか覚えとけよ」

「さすがに言い過ぎた。ごめん」

 唇を舐めながら庄司があやまると、マイケルはその鳩尾に指先でゆるく刺した。

「罵倒ならいくらでもしていいって勘違いするなよ。さすがの俺も、お前が中島に殴られるのを見たくなって止めに入る気になれなかった」

 山口はスカートの裾を握りしめて言う。

「ごめん。私が不用意な発言をしたせいで」

 窓の向こう側で、高層ビル群が流れ過ぎていく。透明なガラスが跳ね返してくる眩しい光に中島は目を細める。

 重く続いた沈黙を破ったのは、やはりマイケルだった。

「中島の怒りが収まらないなら、後日ふたりの関係を調べればいいだろ。俺も一ノ瀬の胡散臭さには引っ掛かりを覚えていたし手伝うぞ。な、庄司」

「仕方ない、そうでもないと丸く収まらないんだろ」

 庄司は嫌味っぽく、いたずらっぽく言って中島に頷いてみせた。

「じゃあそれでいいよ。今日はこの話はやめておく」

 頭を冷やしつつあった中島は、引き際を失うまいと話を終わらせた。

 ちょうどその時、電車が目的の駅に到着した。

 四人は迷路のように複雑に造られた駅を抜けて、階段をのぼって地下出口から国道沿いの歩道へと出た。道路の真ん中には人工的な樹木が整然と植えられており、コンクリートとビルに熱された空気を涼しく感じさせる。道を歩くのはスーツを着た男女ばかりで、高校生の四人はまるで見知らぬ地に置き去りにされた迷子のようだった。

 地図アプリを起動した山口は、携帯を回転させて方向を探る。

「私、方向音痴なのよね。たぶん、このまま進んでいけば左側に見えてくるはずなんだけど。どう思う、マイケルは?」

 後ろから画面を覗きこんだマイケルは、

「俺も方向音痴なんだけどな」

 と呻きながらも山口と歩調を合わせて進む。そんな仲睦まじい夫婦のような二人を、中島と庄司はニヤつきながら後ろで眺めている。

 舗装された歩道にはちり紙ひとつ落ちていない。数台の清掃ロボットがローラーを滑らせてせわしなく動き回って、ボディの下部に備え付けられた吸引口からゴミを吸い取り、すれ違う人間たちに明るく声かけをする。

「街を綺麗に利用して下さりありがとうございます。これからもご協力のほどよろしくお願いいたします。街を綺麗に利用して下さり」

 短い間隔で淀みなく同じ文言が繰り返されるのを中島は不気味に感じたが、あたりを行き交う人間たちは慣れているのか注意すら向けていないようだった。その違和感を共有したくなり、中島は庄司へと首を向ける。

「やっぱり都会はちがうな。清掃ロボットが配置されていて、しかも数が多い」

「このあたりにオフィスを構える企業の製品だろうな。ひょっとして市とパートナーシップを結んでいるのかも。市は街の清潔さを保てるし、企業は製品の宣伝をできる」

「なるほど。庄司はそんな大人の事情も見抜けるんだな」

「というより俺はロボットに興味があるから、それに関連する自治体の動きにも詳しいだけだ。ロボットがこうやって我が物顔で街を歩いてるのが俺は気に入らない。まずは敵を知ろうということで色々勉強してるんだよ」

 嫌悪感を顔全体に滲ませて庄司は言った。

「ふーん」

 中島も庄司と似たような意見を持っていたが、曖昧な相槌をうつだけにした。多数のロボットが活動するこの場所でロボットを批判するほど、中島は豪胆ではなかった。

「早くきてよー」

 山口とマイケルがビルに通じる石段に片足をかけて呼んでいた。

「分かってるよ」

 遅れていた男二人が早足で追いつくと、四人はビルの自動回転扉に運ばれてMLT社のビルへと入った。

 赤いカーペットに西洋風の椅子といった、高級ホテルのような空間が広がっていた。中央にはグランドピアノを演奏する男性ロボットがいて、来訪者を認識すると曲のリズムに合わせながら首だけでお辞儀をした。そんな非日常的な体験に気を奪われていると、遠くからピンヒールの音が響いてきた。

 突き当りのエレベーターからヒューマノイドロボットが近づいてくる。目鼻立ちの整った若い男性にスカートスーツを着せているので、外見は人間と見分けられないほど丁寧に作られているが、上体を固めて肩と膝をカクカクとぎこちなく動かす姿にはやはり違和感がある。

 至近距離にまで迫ったロボットを相手に、山口は用件を伝える。

「今日の十一時から企業見学を予定している山口と申します」

 ロボットは規則正しく瞬きして、四人に吊り下げ名札を手渡した。

「お待ちしておりました、山口様。わたくし泉谷と申します。館内ではそちらの吊り下げ名札の着用が義務付けられていますので、ご理解のほどよろしくお願いいたします。では早速ですが、我が社MLTが経営する介護施設へとご案内いたします」

 と言ってから、スタスタとエレベーターに乗り込んで手招きする。

「口調の割には砕けた呼び方だな」

 庄司が名札を首にかけながら歩きだして、三人が続いた。

「では八階へと向かいます」

 広々としたエレベーターのなかでマイケルが質問する。

「今日はすべて泉谷さんが担当してくれるんですか」

「介護施設を見学して頂いてから、私と別の者も参ります」

 庄司は高圧的に問いかける。

「別の者もロボットですか」

「いえ、人間の者が参ります」

 斜め上にある八の数字が点灯して扉が開くと、大勢の老人が拍手をして待っていた。

「どうぞお進みください」

 泉谷と名乗ったロボットはボタンを押しながら言って、四人をエレベーターの外に出し、拍手を続ける老人たちに頭を下げる。

「皆様、お忙しい中、ありがとうございます。こちら、社会見学の一環としていらした高校生の方々です」

 四人は浮足立ったままぺこりと頭を下げる。すると、集団の先頭で杖をついている老婆が言う。

「質問があったら何でも聞いてくださいね。私も若い人とお話しできるのは楽しみに待っていたのよ」

 それを皮切りにあちこちから口々に同調する声があがり、入居者たちは端に寄って花道を作った。泉谷に率いられて四人は小刻みに会釈しながら花道を進んだ。

「こちらが食堂になります。どうぞお座りください」

 長机が多く並ぶ食堂の一角で止まると、泉谷は四人のために甲斐甲斐しく椅子をひいて横一列に座らせた。

「お飲み物もお持ちいたしますね」

 泉谷は身を翻して暖簾をくぐり、食堂からは見えない厨房の奥へと入っていった。

「いやにリアルなロボットだな」

 沢木がささやくと、庄司もうなずく。

「まったく同じとまではいかないが、想像していたより本物に近い」

「私もびっくりしちゃった。泉谷さんを目の前にしていると、あの動画も本物だと思わざるをえないわ」

「だから俺は初めから言ってたんだよ。動画に出てくる女子高生ロボットは本物だって」

「泉谷とかいうロボットを見て驚いていたくせによく言えたな。ただ根拠もない陰謀論に乗せられていただけだろ」

「あー、マイケルはたしかにそういうタイプに見えるわ。センセーショナルなニュースを知ったら、すぐ調子に乗ってでまかせばかり言ってそう」

 庄司と山田に図星をつかれて、マイケルは不貞腐れた顔をした。

「きっと中島は俺の味方だ。だよな?」

 ずっと気配を消していた中島は愛想笑いした。

「どうなんだろうな」

 庄司は厨房へと注意を払いながら言う。

「中島はあのロボットに盗聴されていないかビビッてるらしいな」

「べつにそういうのじゃなくて」

 口ではそう言いながらも、やはり中島は分別のない発言をすることを恐れていた。

まだ心を許せないでいる友人がそばにいるのに加えて、ロボット製造で著名な企業のなかにいるのだから、中島はいつも以上に気を張っている。

「俺も責めはしないさ。どこで攻撃的な発言を盗聴されてネットに流されるか分かったものじゃないからな。このまま機械人形と話すふりを続けてれば平和に過ごせる」

 机の背面を手探りしながら庄司が言うと、山田も身をかがめて椅子の脚をいじる。

「話を戻すけど、私たちがそんなに驚くほど泉谷さんは臨機応変な対応をしてたのかな? 私たちを玄関で迎えて八階まで連れてきてお茶を取りに行っただけよ」

「たしかになぁ。俺たちの意思伝達に対する反応は速いが、行動自体は意外と単純なものなのかもしれない。俺は専門家でもないし、技術的な話は分からないけど」

 マイケルは天井に埋め込まれたライトに視線を走らせて黙った。

 暖簾をくぐって出てきた泉谷は危なげなく、お盆に乗ったグラスを四人に配った。

「お待たせいたしました」

「ありがとうございます」

 四人が礼を言って手をつけると、泉谷はいきなり深刻そうに言う。

「では私はそろそろ失礼いたします。ワタシがここにいないほうがアナタたちもゆったりと過ごせるはずだ」

 中島は冷たいお茶が歯に沁みるのと同時に、心臓がさあっと浮くような恐怖を感じて、コップで顔を隠しながら目を上げた。

 泉谷は、背筋を伸ばして皴のないスーツを着こなし、つやのある顔に笑みを貼りつけて立っている。

「質問などございましたら利用者様にお聞きください。時間になりましたらまた参ります」

 四人が固まって返事もできないでいるうちに、泉谷は不格好な歩き方で立ち去った。それと入れ替わるようにして、先ほどエレベーターの前で挨拶した老婆が杖をついて近づいてくる。

「無理をしないでくださいね」

 山口は机の向こう側にまわり、老婆のために椅子をひいた。

「わざわざごめんなさいね、お嬢さん」

 老婆がゆっくりと慎重に腰を下ろしたのを確認すると、山口は気の利かない三人を咎めるように睨んで座った。四人はそれぞれ簡単に自己紹介をした。

「私は鷲宮といいます。せっかく来て下さったんだから遠慮せず何でも聞いてください。企業の方にも口止めなどはされていませんし」

 鷲宮は茶目っ気たっぷりに言った。庄司はいきなり鋭い質問を浴びせる。

「泉谷とかいうロボットが施設の利用者のみなさんに乱暴な言葉を使ったり、暴力をふるったりしたことは今までにありますか」

「私はここに来て五年になるけれど、そうした場面に遭遇した記憶はありません。むしろ、イズミンはドジで人懐っこくて手のかかる子という印象が強いです」

「イズミン? あのロボットのことですか」

「そうですよ。彼は私たちみんなにとって孫のような存在なんです」

 鷲宮が目尻に笑い皴をつくった。山口は前のめりになって目を輝かせる。

「かわいいあだ名ですね。皆さんにとって、泉谷さんはもう家族同然の存在なんだ」

「イズミンは私たちの世話をするはずなのに、いつも私たちに世話されているんです。配膳をする手つきも危なっかしいし、言い間違いも多いし、世間知らずで敬語もうまく使えないし。でもそれすらも愛おしくてね」

 マイケルは首をかしげて聞く。

「でも俺たちの前ではきちんと敬語を話していましたよ。質問にもそつなく答えてくれましたし、ロボットがあまりに流暢に喋るからびっくりしたくらいです」

「そんな頼もしい姿、私も見たかったです。私たちも普段から、外部の方に失礼がないようにと礼儀や敬語について教えてはいるんですが、あの子は飲み込みが悪くて」

 ふいに庄司の目に哀れみと冷ややかさが宿ったのを見て、中島はその本音を察した。

 利用者たちの前では、あのロボットはあえて手のかかる孫を演じているのだ。

 そうすることで利用者たちのコミュニケーションの回数を増やし、認知症の進行を予防している。また、若者としてプログラムされたロボットはそのコミュニティで異物として機能し、高齢利用者たちの連帯感を高める役割も担っている。

 そして、いつまでたってもロボットの出来が良くならないのは、潤滑油としての立ち位置が変わるとコミュニティの均衡が崩れてしまうからだろう。泉谷と名付けられたロボットの真の姿は、利用者たちに育てられて少しずつ成長するのを永遠に示しつづける、どうしようもなく器用な俳優なのだ。

 中島は場をつなぐために声を和らげる。

「きっと利用者のみなさんが指導されているおかげで、泉谷さんは僕たちの前でなんの問題もなく振舞えたんでしょう。所作や言葉遣いをからすると、まるで本物の人間の社員さんかと思ってしまうほどでした」

「イズミンを褒められると、なんだか私が嬉しくなってしまいます」

 鷲宮は喜びを噛みしめるように照れ笑いした。

「ところで、普段はロボット以外に社員の方はいらっしゃらないんですか」

「数人います。この時間だけ誰もいません」

「どうしてですか」

 庄司が食い気味に聞くと、びっくりした鷲宮は目を大きくした。

「あなたたち四人が安心して質問できるようにと聞いています」

「理由はそれだけですか」

「私が受けた説明はそうです。庄司さんは冷めたように見えて、かなり熱意のある方なのかしら。言い方が悪いかもしれませんが、外面と内面がかなり食い違っているというか」

 笑顔のしたに棘を含ませて鷲宮は言った。無愛想に遠慮なく話しかけてくる庄司にかなり苛立っているようだった。

「ほかの人から見た僕はそうなんですね。お気を悪くされたならすみませんでした。関心のあることには人目を忘れて行動してしまうところがありまして」

 中島の予想に反して、庄司は落ち込んだ声で静かに言った。

「いえいえ、私こそごめんなさいね。あなたたちと同じくらいの年齢の時は、私もそんなだった気がします。本当の自分、背伸びした自分、他人から見られる自分がいて、それらの引っ張り合いに苦しんでいました。本当の自分を打ち明けられず友達の誤解を生んで仲間外れにされたことも。そんなことを話している今も、私は年寄りらしく名言でも行ってやろうかと見栄を張ろうとしていますし」

 感慨深そうに見上げる鷲宮に賛同するように、マイケルは声を重ねる。

「人はどんな時代でも変わらないんですね。成長しているようであまり成長していない」

 頬を膨らませた山田はマイケルの吊り下げ名札を叩く。

「なにが、成長しているようで成長しない、よ。鷲宮さんは謙遜されているだけなのに真に受けちゃって」

「私は八〇歳になってもまだお子様気分ですからお気になさらず」

 中島はコップに口をつけて、明るく盛り上がる四人の蚊帳の外にいた。

 ここで交わされる言葉が、すべて自分に向けられているかのように芯を食っていて耳が痛かったのだ。他人から見られる自分に引っ張られて背伸びした自分を演じ、本当の自分はどこか遠くて深いところに隠れてしまっていた。ほかの人のように本当の自分が現れることはなく、もはやそんな自分が存在する実感さえもてない。そんな自分が存在するかさえ分からない。

 コップに隠した頭のなかで思考が堂々巡りをしていると、優しく語りかける声がした。

「つづいては地下二階に案内いたします」

 鷲宮は口に手を当てて涙を流した。

「イズミンがすごい頑張っていると彼らから聞きましたよ。やっと私たちが教えた成果が出たんだって嬉しくてたまらないわ」

 二度まばたきした泉谷はカクカクと歩いていき、皴のない手で鷲宮の手を包みこんだ。

「ぼくはまだまだ分からないことがいっぱいある。だからこれからもよろしくね」

 真顔の庄司は、もらい泣きする山田とマイケルをじっと見守っていた。

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