第4話

 翌朝の学校には、祭りのような浮かれ騒ぎと幽霊屋敷のような不穏さが立ちこめた、奇妙な雰囲気が漂っていた。中島が廊下を通っている時も、かなりの人数が携帯を片手に素っ頓狂な声をあげていたので、新しい情報が投下されたのだと分かってはいたが、その騒ぎは想像以上のものだった。

 教室の前にたどり着くやいなや、珍しく落ち着きを失った庄司が中島の首に手を回して、教室へと引きずり込んだのだ。

「なんだよ、いきなり」

「これ見たか。五分前にあがった、とれたてほやほやの映像だぞ」

 中島は抵抗する気力も失せて席に座った。庄司は手に持った携帯を前に差し出して、上から中島に被さるような体勢をとった。

「さぁ始めるぞ」

 再生ボタンが押されると、白衣を着た数人が現れた。研究室らしき場所の天井からはコードがだらりと垂れ下がり、壁に埋め込まれたいくつかのスクリーンでは英語で書かれた各種の指標が光っている。

 その部屋の中心に立っているのは、ほっそりとした成人女性だった。

 ただし顔の左から半分の皮膚が剥がれ落ちていた。露出したその部分のなかの複雑に絡まり合った細いコードは、脳の形を模して作られているようだった。

 中島は振り返って必死に訴える。

「先に言ってから見せろよ。こんなえぐいものを見せられると思ってなかった」

「まあまあ。肉や血が飛び散る動画じゃないんだからさ」

 しかめ面をして庄司は画面のほうへ顎を押し出した。

「分かったよ。見ればいいんだろ」

 ひとりの研究者が英語で挨拶をすると、ロボットは流暢な英語で返した。別の研究者が日本語で挨拶すると、ロボットはアナウンサーが話すような綺麗な発音で返した。

 いくつかの言語で挨拶のやりとりがなされた後には、日本語での質問が始まった。

 朝にシャワーを浴びるか、歯は一日に何回磨くか、友達と喧嘩した時にどうやって仲直りするか、嘘をつく時とつかない時はどうやって判断しているか、好きな人に振りむいてもらうためにはどうすればいいか、自分を守るためなら人間を殺してもいいか。

 その女性ロボットは答えに詰まりながらも、ひとつひとつの質問にしっかりと答えていた。右半分の顔に浮かぶ表情には、迷いや喜びや戸惑いや苦しみがありありと表現されており、左半分のコード群さえ見なければ、人間と見分けられはしないと思われた。

「すごいだろ。もはや業務用ロボットとは比較にならない」

「加工じゃなければな」

 中島は冷ややかな目で画面を見ていたが、ある瞬間に思わず息を詰めた。

 ロボットの額に光を跳ねかえす汗の玉を見つけたのだ。

 自分を守るためなら人間を殺してもいいか。

 その質問をされたロボットは額に皺を寄せて冷や汗を流したのだ。

「おい、庄司。このロボットの体は人間と同じものなのか」

「汗を流しているもんな。代謝機能は備えているのかもしれない」

 研究者たちが拍手して、ロボットが胸を押さえて微笑で答える場面で、動画は終わった。

 動画の下の欄は、各国の言語で書かれた無数のコメントで溢れていた。

「この騒ぎの理由にも納得せざるをえないだろ。日本にもロボットがいるかもしれなくて、もしかするとそのロボットはこの学校にいるかもしれない。もっと言えば、このクラスにいる可能性だってあるんだ」

 庄司は携帯をポケットに押し込んで笑った。

「もしいたら、どうなんだ」

「どうもしないさ。でも知っておきたいだろ、自分の近くにいるのが人間か、ロボットか。そしてそれがロボットだったなら距離の取り方も考える」

「そうか」

 中島は当たり障りなく言った。誰がどこでこの話を聞いているか分からないからだ。悪口を言うのは一時の快感になっても、後になってもっと大きな代償を払うことにもなりうる。

 これが、中島の過ごしてきた人生から得た処世訓だった。

 父はなかなか大学でのポストに就けない転勤族だったため、中島は小学校で二回、中学校で一回の転校を経験していた。すでに出来上がった関係性のなかに溶け込んでいくのには、いつも苦戦してきた。

 まず大事なのは、運動も勉強もそして人を笑わせる力も、どんな特技であってもクラスで一番にならないことだった。クラスのボスの居場所を奪おうとすれば、嫉妬で仲間外れにされかねない。それなりのプライドを持つ二番手も敵に回してはいけない。だから中島はいつも三番手の立ち位置を確保するために苦心して過ごしていた。

 悪口も絶対に言わないようにした。集団で同じ悪口を言っていても、問題が起きた時に藁人形にされるのは転校生の中島だったからだ。次の日学校に行くと今まで仲良くしていた友達がよそよそしくなり、担任の教師はアリバイ作りのために、みんなで仲良くしなさいと言うだけだった。

 多くの苦難を乗り越えていくなかで、中島は敵を作らない生き方を身に着けてきた。

 そのおかげで、目立たず嫌われず、しかし存在はきちんと認識されているような不思議なポジションを築けた。そうして息を潜めて周りからの関心を買っていくうちに、いつのまにか人気者に近いポジションにのぼりつめ、最後の別れになる日には泣いて悲しんでくれる友達が多くいるまでになった。

 そして高校で初めて、他の生徒たちと同じスタートラインに立つことになった。

 周りと足並みを揃えつつ話しかけやすい空気を醸し出すことで友達も出来たし、その好調な波に乗って彼女も作れた。中学生のころに思い描いていた自分よりも、かなり開けっ広げな高校生を装えていた。

 これまで立場の弱い異邦人から成り上がってきた中島はここに来て、もう周りの目を恐れなくてよくなったはずだった。

 だが、周りの目を過剰に気にする癖はなかなか抜けず、一か月経った今もまだ庄司やマイケルにも完全に心を開けてはいない。昔に刻まれたトラウマというのはそう簡単に解消されないようだった。

 後ろの扉から澄ました顔をした桃瀬が入ってきた。庄司が中島にそうしたように、桃瀬に馴れ馴れしく絡みついて動画を見ようと誘う者はいない。髪の毛を手でほぐした桃瀬はカバンを下ろして椅子に座り、ちらっと中島へと視線を送る。

 中島は首をすくめて目を合わると、桃瀬はまた別の方向へと視線を逸らす。

「で、どうだったんだよ」

 庄司は肘でぐいぐいと中島をつついた。

「なにが」

 中島がとぼけた声で無駄な抵抗をしてみると、運悪くマイケルが入ってきて、

「あの動画」

 と言おうとしたが、庄司が重ねるように中島に迫る。

「桃瀬とのこと」

「ああ、そっちのほうが優先順位は高いな」

 手で扇ぎながらマイケルも賛同した。逃げ場を失った中島は抵抗を諦めた。

「作戦通りうまくいったよ」

 二人は唸り声をあげて机の下でガッツポーズをした。

「先を越されてしまったなぁ」

 マイケルが弱弱しくつぶやくと、庄司は胸を張って上から目線で言う。

「黒歴史にならないといいな。五月に、しかも桃瀬と付き合いだすというのはなかなかのギャンブルだ」

 中島は嫌味なニュアンスを匂わせた庄司に噛みついた。

「五月に、というのは納得できるけど、桃瀬とだったら何がまずいんだ」

「変わり者の桃瀬と付き合うのは男としては勇気がいる決断だろ。周りの女子からも奇異な目で見られるだろうし」

 最後の一言に頭がきた中島は、半笑いの庄司を睨めつけた。

「桃瀬は虐げられるべき存在だと思ってるのか」

「そこまでは言ってないだろ。でも変わり者だし、野次馬根性でお前らの関係性を知りたがる奴が多くいるのは事実だ。中島は、王様が裸だと言ってもらえない友人関係を望んでいるのか」

「べつに言うのは構わないけど、自分の彼女をからかわれて気分のいい奴はいないだろ」

 中島の胸の底から黒い感情がこみ上げてきた。傍観者気取りで自分たちの関係を面白おかしく批評する庄司への怒りを抑えながら、桃瀬へと目をやった。

 窓際の机で頬杖をして、哀愁をまとった美しい横顔を支える桃瀬は、教室の賑わいから切り離された寂しい孤児のように見えた。

「そう熱くなるなよ、中島。庄司が皮肉屋で正論吐きだっていうのは今に始まったことじゃない。挑発するのが本能みたいなものなんだよ、こいつは」

 マイケルは庄司に向かって息を吹きかけた。

「俺が悪かったよ。さきに可愛い彼女を作った中島に嫉妬していたのかも」

 今度は皮肉ではなく本心からの発言らしかった。

「俺も悪かった。昨日の夜からずっと頭が熱いままだったりして」

 中島は恥ずかしくなるような冗談を言って場を和ませた。いかに後腐れなく喧嘩を収めるかは、コミュニティで居場所を確保するためには重要な技術なのだ。

「恋の病は怖いなぁ。端から見たら痛すぎる奴だぞ」

「俺もこんな恥ずかしい振舞いだけはしないようにしたいなぁ」

 二人は胸のまえで手を交差させて腕をぶるぶる震わせた。

「ほら、はやく席に戻れよ」

 中島はオーバーリアクションの二人をしっしと追い払い、授業の準備を始めた。

 その日は授業を聞いていてもまったく中島の頭は回らなかった。教師の発するすべての音が、意味の分からないお経のように片方の耳へ流れ込んでは逆の耳まで通り抜けていく。監視ロボットが巡回してくる時だけ優等生ぶった顔をこしらえてその場をしのぎ、ロボットが通り過ぎればまたうわの空に戻るのだった。

 そうこうしているうちに六限目の美術の時間だった。美術教師が体調不良になったらしく、その代わりとして担任の一ノ瀬が監督をしにやってきた。どうせ授業で教師に絵の描き方を指導されるわけでもないのだから、その時間に生徒たちが遊び呆けていないかをチェックしさえすればいいとの理屈なのだ。

「じゃあ静かに校庭まで移動しろ」

 生徒たちは覇気のない返事をして画用紙と濃い鉛筆を持ち、どやどやと廊下に出て校庭に向かう。一ノ瀬は自虐的に笑って独り言をいう。

「監視ロボットがいない美術の時間だからって騒ぎすぎだ」

 息を吹き返して緑に染まる校庭に立つと、絵心のない中島でさえも大作品を書ける予感を抱けた。物置小屋に描かれたスプレーアート、それを左右から閉ざしている柿の樹、その奥にそびえるビル群、そのビル群も小さく見えるほどの背景をなす大山脈。

 技術偏重で設計された現代社会で、これほど混沌としたまとまりのない景色を見られるのが、とんでもない幸運に思われるのだった。

「テキトーな場所に座ろうぜ」

 マイケルが芝生にあぐらをかいて画材を脇に放り投げると、中島は壁にもたれかかった。

「今日は下書きだけだからってサボる気満々だな」

「いかにサボりながら課題を提出するかが美術の醍醐味だろ」

「たしかにそういうところはある」

 二人が話している間も、庄司は淡々とひとりで絵を描いている。目を細めては首をひねり、鉛筆を斜めに傾けてさらさらと輪郭から作っているようだった。庄司こそ美術を休み時間だと考えそうな男だったが、口を閉じて真剣なまなざしを風景に注いでいるのを見て、中島はまた別の一面を知った。

 中島もアリバイ作りのために鉛筆を持ったが、マイケルが話しかけてきて邪魔をした。

「また山口が絡みにいってやがる」

「優しい奴なんだろうな」

 構図を決めるために独りで中庭をさまよっている桃瀬に、集団から離れた山口が話しかけている。桃瀬はまんざらでもないらしく足を止めて聞き役に徹していて、大きな身振り手振りでマシンガントークを繰り出す山口はご機嫌そうである。

 跳ねているバッタを睨みながらマイケルは言う。

「俺にはおせっかいだとしか思えないが」

「そうか? 桃瀬も楽しんでいるように見えるけど」

 頷くだけだった桃瀬が話し始めている。山口のオーバーリアクションに影響されたのか、表情や身振りが大きくなったようにも見える。

「たしかに。でも本来は中島が相手をするもんじゃないのか。だって付き合っているんだろ」

 中島はだらりと座り込んで、日光を浴びて遠くで輝く山をながめた。

「桃瀬が嫌がるんだよ。学校では俺とあまり関わりたくないらしい」

「どうして」

「知らない。その場で聞けばよかったんだけど、もともとシャイな女子だとは思ってたし気に留めなかった。後になって聞いておくべきだと感じたよ。タイミングを逃してからは改めて聞きにくくて」

「なんだそれ。よそよそしい関係だな」

 きのう映画館で一緒にいた友達に呼ばれて、山口はにぎやかな集団に戻っていった。残された桃瀬はまた歩き回った末に、木陰になっている花壇の縁に腰を下ろして手を動かしはじめた。

 中島はそこに近づきたい欲をぐっとこらえて言う。

「まあ色々あるんだよ。俺らもそろそろ取りかかるぞ」

「はいはい」

 二人はグズグズと不平を漏らしながら描き、互いの絵を覗きこんで茶化し合った。顔をしかめて黙れと訴える庄司から距離をとると、視点が移動したことで風景に歪みが生じたが、それがかえって現代アート作品のような奇怪さを醸し出した。絵が完成した時には二人は大笑いして、担任の一ノ瀬からのお墨付きを得たのだった。

「二人とも将来は画家にでもなるか」

 中島とマイケルがふと真顔になって食いつこうとすると、

「俺がどっちも二千円くらいで買ってやるよ。三〇分で二〇〇〇円なら時給換算で四〇〇〇円だ。ひとりで生活する分には足りるだろ」

「そんな現実的な数字を出さないでくださいよ。俺は大画家になれるイメージで耳を傾けましたよ」

 マイケルは落胆した様子で言って鉛筆を投げ捨てた。

「大金を稼ぐのは意外と大変なんだぞ」

 中島もマイケルほどではないにしても気落ちしたので反撃する。

「でも先生はこうやって中庭を散歩して生徒を弄んでお金をもらえるんでしょう」

「辛辣だなぁ。俺だって高校教師が天職だとは思ってはいないが」

「たしか先生は社会人経由でしたっけ。前職はなんだったんですか」

 なにげなく中島は聞いたが、気乗りしないのか一ノ瀬は表情を曇らせる。

「そんなことはどうでもいいだろ。もうちょっと細部にこだわって最後まで描け。このあたりが雑だし、もっと雲の量が多いはずだし、葉の形も尖りすぎだ」

 ケチをつけるだけつけて一ノ瀬はまた別の生徒へと寄っていった。

 一ノ瀬は謎の多い教師だった。三〇歳になって教師を志し、昨年この高校に赴任したらしいが、勤務態度からは熱意はまったく感じられない。教科への愛があるでもなく、生徒の面倒見がいいでもなく、生徒たちの怠けた雰囲気に合わせて授業を進めるだけである。わざわざ教師を志望した理由が分からないので中島は前職をたずねたのだが、望んでいていた回答ももらえなかった。

 マイケルは下手くそな絵に黒い線を増やしながらぼやく。

「一ノ瀬を見ていたら、俺でも教師になれるんじゃないかと思ってしまう」

 実りのない議論を避けるために中島は話を変える。

「そういえば、一週間後の先端科学見学会のメンバーを決めないといけないな」

「忘れてた。男女五人で企業見学に行くやつな。まったく男女の数まで規定するなんて集団デートごっこみたいだ。性差によって様々な観点から物事を見られるからって理由はどれくらい妥当なんだろう」

「俺らは決まりに従うだけだ。とにかくメンバーを集めないと。ほかのクラスならもうメンバーも決まっているんだろうけど、うちは担任が放任主義だからなぁ」

 先端科学見学会とは、社会で活躍するロボットへの理解を深めるために企業を見学するプログラムである。授業が休みになるその日を利用して、一年生たちは自分たちで決めた高校の提携企業へと赴かなければならない。ロボットの仕組みを学んだり、ロボットと共に働く従業員の話を聞いたりして、それをレポートにまとめて提出するのだ。

 画用紙を裏返した庄司が割り込んでくる。

「メンバー五人となると、あと女子が二人か。いや、一人か」

「残念ながら桃瀬は俺の班には入らないと思うぞ」

「どうして」

 状況を察したマイケルが理由を説明すると、庄司は手を額にかざして遠くを見渡す。

「なら二人見つけないといけない。誰か余ってる奴らがいるはずだ。どうせ形だけ一緒に行動するんだ、頭数を揃えればいいんだろ」

 中島は鉛筆をもって作業をしているふりをして、庄司が誰かを誘うのを待った。彼女のいる自分がほかの女子を誘っているとクラスメイトに白い目で見られるかもしれないし、鈍感な桃瀬でさえいい思いをしないのではないかと考えたからだ。

 たった一つのミスで自分のポジションは失われるのだと骨身に沁みていた。

 しばらく物色していた庄司が一息ついたころに、山口の声が聞こえてきた。

「私たちも余り者の男子を三人探してるの」

 男三人がぎょっとして後ろを向くと、山口は三人の頭を画用紙で順番にはたいた。

「余り者の女子を、頭数を揃えるために探す。この表現は聞き捨てならないなぁ」

 山口は般若のごとき目つきで仁王立ちしている。意地でも目を合わすまいとする中島と、いまだ状況を把握できていないらしいマイケルの代わりに、青白い顔をした庄司がたどたどしく言い訳する。

「たしかに言葉は選びまちがえた、ごめん。でも与えられた規定が、男女五人かつ異性を最低でも二人含む、だろ。べつにこちらの意図はそんな変なものじゃなくてだな」

「今の時代に女性を頭数扱いするなんて人権意識が一〇〇年前で止まってるのね」

 山口の怒りが一身に受け止める庄司を、中島は心臓をバクバクさせながら心のうちで応援する。

「悪気はなかったんだよ。仲間内での会話で、つい」

「仲間内でこそ本音が出るのよ。自分から答え合わせをしてくれてありがとう」

 にじり寄る山口に圧倒された庄司は、敵の力を思い知って即座に降伏する兵士のような情けなさで両手を上げた。

「もうなにも言いません、すみませんでした」

 山口は短い前髪に手で梳いて横に移動した。すると、その後ろに隠れていた桃瀬の姿が露わになった。画用紙を脇に抱えて小動物を労わるような目をして、バツが悪そうにあさっての方向を見やる男三人を眺めまわす。

「三人が反省したなら私もぐちぐち言う気はないの。こちらは女子二人で、そちらは男子三人。規定はしっかり満たせる」

「いや、でも」

 中島は納得がいかず口を開いた。学校では関わりたくないと言った桃瀬が、他のクラスメイトの混じるグループなど望むはずがないのだ。山口の押しの強さに屈してずるずるとこの場まで来ただけかもしれないと、中島は思っていた。

「心配いらない。桃瀬は了解済みなの」

 自信満々に言う山口の隣で、桃瀬は二度大きくうなずいた。

「なら俺はいいけど」

 中島の知るかぎり、桃瀬は意志が強くて、たとえボス猿に首を絞められても嫌なことは嫌という人間だった。そんな人間が一度ならず二度もうなずいたのだから、これ以上はごちゃごちゃ言うのはお門違いなのだ。

「じゃあ決定ね。そっちの二人の意見は聞かなくていいでしょ」

 マイケルと庄司は地蔵のように固まったままで、もはや意見をだす気力も失っているらしく、中島が彼らの心中を代弁する役回りになった。

「異議はないって。むしろ感謝したいくらいだとも」

「お互いにとって良いマッチングになったなら私も嬉しいわ。じゃあまたあとで細かい計画は詰めるとしましょう」

 勝者の風格をたたえた山口は桃瀬の手を曳こうとした。

 が、桃瀬は芝生を踏みしめて中島に一瞥した。

「また放課後にね」

 中島は驚いて身動きを取れなくなったが、一瞬遅れてぎこちない笑顔を返した。

「またあとで」

 微笑んだ桃瀬は山口にがっちりと手首を掴まれて、そのまま用具入れの裏へと隠れて見えなくなった。恥ずかしさと気まずさで混乱する中島を二人は面白おかしく煽る。

「桃瀬、なんかいいなぁ」

「やっぱり女の子はギャップがあったほうが魅力的だ」

 男どもの声で現実に戻された中島も煽る。

「そんなに彼女が欲しいなら山口にでも頼みこめ。あいつも彼氏の前では甘えん坊かもしれないぞ」

 さきほど山口にコテンパンにされた庄司は鼻で笑う。

「それはないな。どうせ二人の時も揚げ足をとられるに決まってる。そもそも俺はショートカットが好きじゃないんだ」

「俺も山口はお断りだ。気の強い女子は苦手だし」

 中島は勝ち誇った声音で言い放つ。

「じゃあ勇気をだして好みの子にアプローチするんだな、俺みたいに」

 低姿勢になって教えを乞う二人に対して、中島はネットで知った表面的な知識を披露したが、目を輝かせて聞く二人を見ているうちに虚しくなってきて途中で止めた。

 中島も実際にはなにも知らないのだ。

中学時代は殻に閉じこもっていて異性に深く興味をもつ余裕もなく、いかに同性に嫌われないかばかり考えていた。しかし、そんな暗い過去については二人にも明かしていなかったし、これからも明かすつもりはなかった。

 誰も自分を知らない高校という新しい舞台では、中島は別の役を演じるつもりだった。

 いつも冷静で堂々としていて、周りからの目など気にしない強者の役を。

「そろそろチャイムが鳴りそうだな。で、庄司はなにを書いたんだ」

 中島が気軽にたずねると、庄司はさっと画用紙を胸の前に掲げた。

「壮大な自然と汚らしい倉庫、そしてこの学校に存在するかもしれないもの」

 その絵はかなり写実的で、中島が中庭に来て心を奪われた景色そのものだったが、画用紙の中央にはいやに丁寧に描かれた、現実の中庭には存在しない物があった。

 物置小屋の前を歩いて横切る少女。鑑賞する人のほうへと物憂げに目線をよこしているが、その左半分は雑な線でぼやかされていた。

「ただ写実的なだけじゃ面白くないと思って、流行り物を採り入れてみたんだよ」

「さすが批評家みたいな奴だ」

 おどけて説明する庄司、おどけて合いの手を入れるマイケル。

 中島はその会話の輪に入るのも忘れて、ラフではあるが短い時間で仕上げたにしては立派な、その絵を眺めていた。

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