第3話
中島は跳ねまわる心臓を鎮めようと細かく息を吸う。
この曲がり角を折れて十分ほど歩いたところにある公園が、決戦の地だった。
頭のなかでは数えきれないほどのシミュレーションをしていたし、何なら想定よりも桃瀬が心を開いてくれている感触もあった。
文字を介しては饒舌だが、面と向かっては寡黙な桃瀬。そんな桃瀬が、暗いシアターで同じ方向を見てともに二時間過ごしただけで別人のように口数を増やしたのだから、これ以上望むべくはないほどの成果だった。
しかし、とらえどころのない不安が中島の頭にこびりついていた。
「桃瀬の家はこっちの方向で大丈夫」
「うん」
ふたりは狭い路地に入り、露店から漂ってくる焼き鳥の匂いをかぎながら、だんだんと活気をなくしていく道を進んだ。住宅街の手前にある大きい公園が見えてきた。中島は周りを確認してからさりげなく聞いてみる。
「話があるんだけど」
桃瀬は身構えるでもなく聞き返す。
「どんな話」
「すぐに終わるから」
じれったくなった中島は桃瀬の手首を優しく引っ張り、一緒に公園のベンチへと腰を下ろした。桃瀬は一度立ち上がって、木くずを手で払ってからまた座り直した。後ろの茂みの中からバッタが跳び上がり、不規則なリズムで遠ざかっていく。
リュックを背負ったままの二人は前かがみで、街灯に照らされた砂粒を見つめていた。
頭が真っ白になった中島はひたすら、黙りこくった桃瀬の唇から漏れる吐息に耳を澄ましていた。自分で誘っておきながらいざその時が訪れた途端に、中島は臆病風に吹かれて、助け船が出るのを待つのだった。
砂粒を運ぶアリに気を取られていた中島だったが、しばらく経って手の甲が痒くなり、現実に引き戻された。蚊がテントのように足を広げていた。
舌打ちをして払いのけようとすると、それより前に桃瀬がその蚊をぴしゃりと叩き潰した。不甲斐ない自分が叱られたのだと勘違いして、中島は背筋を伸ばして声を張った。
「良かったら僕と付き合ってください」
桃瀬は手のひらの黒い点から目を上げた。その奥底の知れない丸っこい黒目が大きくなるのを中島は見て取った。これだけ舞台は整えられていたのに、同年代の女子なら絶対に予想がつくはずなのに、桃瀬は不意を打たれて口ごもっているようだった。
ややあって桃瀬は汚れた手のひらを背中に隠した。
「もし付き合ったら何が変わるの」
「なにが変わるか、か」
中島は思わぬ方向から質問を投げられて答えに詰まった。
が、桃瀬が求めているのは、ここで熟考して完璧な答えを導き出すことではなく、有無を言わさぬ思いきりなのだろうと開き直った。
「お互いが自分にとって特別な存在だと約束することが、付き合う、ということだと思う。だから例えば、誰にも明かせない秘密をその相手にだけは明かせたりだとか。うーん、もっと一般的に言えば、自分の弱みを明かせて、相手の弱みを受け入れられる関係になること、かな。いやでも、そうじゃなくても付き合っている人はいるから、その定義は違うか」
中島があっちへこっちへと思考を巡らせていると、すぐ隣のからクスクスと抑えきれない笑い声が聞こえてきた。
「俺はおかしいことを言ったか」
「ううん。おかしなことは言ってないけど面白かったの」
「バカにされているみたいで気分はよくない」
さんざん笑って満足したらしい桃瀬は、ふうと息を吸いこんで顔を中島へと接近させた。
「じゃあ教えて。中島が人に明かしたくない秘密はなに」
中島は汗で濡れた額に親指を押しつける。
「母親がいないことかな。父さんからは、俺を生んだ時に亡くなったって聞いてる。物心ついた時から、この話を自分から誰かに明かしたことはない。勝手に知ってる人はいるかもしれないけど」
しめっぽい空気に居心地の悪さを感じて、中島は頬を震わせて笑った。
こういったデリケートな話題を持ち出したあとにどう振舞うべきなのか、考えた経験がなかった。そんな日がまさかこれほど近いうちに訪れるとも思ってもみなかった。やはり桃瀬といると、自分の知らない自分が引きずり出されるのだと実感した。
そしてそれは、心がすっと軽くなるような爽やかさと、心をえぐるような苦さをともなう不思議な感覚だった。
「ふーん。そうなんだ」
桃瀬はぎこちなく神妙な表情を浮かべたが、中島が次にのぞきこんだ時には、見違えるほど晴れやかな顔で大声をだした。
「私の秘密は、中学でいじめられていたこと、かな。自分を知っている人から逃げたくて、家から距離の離れている高校を受験したの。だから私たちの通う高校のなかに、私を知る人はひとりもいない」
「そうか」
中島は内心を悟られないように唸った。勇気を出して桃瀬がつらい過去を明かしてくれたのにその原因を邪推して、いじめた側の気持ちを汲んでしまう自分が醜く感じられたのだった。彼氏に立候補した男ならばせめて彼女から細かい背景を聞くまでは、いじめた側をボロクソにけなして、お前に悪いところはないと肩を持ってやるべきなのだ。
しかし、中島はうつむいて唸ることしか出来なかった。
桃瀬が立ち上がって、公園の隅にある蛇口をひねって手を洗いはじめた。
「これでお互い様。私たちはお互いに弱さを見せられる関係になった、はず」
「ということは」
中島は弾かれたようにぱっと顔を上げた。
「私たちは、中島の言う恋人の要件に当てはまる関係になった、はず。恋人ごっこではなくて」
はず、はず、と強調することに桃瀬の意地を感じざるを得なかった。また、山口がふざけて発した、恋人ごっこ、という単語を桃瀬がまだ覚えていることにぎくりとした。
中島はもう一つの蛇口へと歩いていって桃瀬と向き合う形になり、蚊に吸われてぷっくり膨らんだ手の甲を洗いながら、
「俺たちは恋人になった。はず、じゃなくて、なった。俺の告白を桃瀬が真正面から受け入れてくれた時点でそうなんだよ」
と我を失って、後には引けなくなるほどの声音で吠えた。
「中島がそう言うなら、はず、じゃなくて、なった」
桃瀬は手についた水を払い落しながら、恥じらいを頬に滲ませて言った。はっきりと意志を示すべきところで言いよどむ、桃瀬の新しい一面を知って、中島はなんだか嬉しくなった。
「中島、これを分けよう」
桃瀬はカバンをごそごそいじって例のアクセサリーを手のひらに乗せた。
「分けるってどうやって」
「こうやって」
ペンチらしき物を取りだした桃瀬は平然と、そのハート型を真ん中で二つに断ち切った。
「え、どうしてそんなこと」
常識外れのこの行動に度肝を抜かれて中島が固まっていると、桃瀬は半分になった二つの金属を見比べて、
「中島はこっち」
と微笑みながら、その一つを手渡した。
「気持ちは嬉しいんだけど」
せっかく買ったハート型を断ち切るのはまともな発想ではない。ひび割れたハートは失恋の象徴だとしか中島には思えなかった。しかし桃瀬の顔にはそんな悲壮な色は微塵もなく、二人のあいだに結ばれた関係を表す印だと疑っていないようだった。
「二人で一緒にいれば割ハートは割れていない。いつでもつなぎ合わせられるから」
「そうも考えられるか」
「うん」
その押しの強い返事に、中島は笑うしかなかった。ハートを割るという発想と、その裏に隠された桃瀬の想いのちぐはぐさが、どうにも滑稽だった。
「ありがとう。これはもらっておくよ」
「うん」
コンクリートに水が跳ね返される音が響いている。中島は黒く染みたズボンの裾を見やり、蛇口を閉めた。
「今日はもう帰ろうか」
「うん」
「桃瀬は今から電車に乗って帰るんだよな。俺のせいで夜も遅くなったし、家まで送るよ」
首を激しく振って桃瀬は拒否した。
「気持ちだけで嬉しい。でも私の家まで行ったら、たぶん中島はここまで帰って来られなくなると思う」
そのとき中島の脳裏に、黒塗りのセダンから降りてくるサングラスをかけた男性の姿が浮かんだ。そして、その男性の子供として育ったら、いま目の前にいる桃瀬のような女性になるかどうか真剣に考えた。中学生のときに桃瀬をいじめていた奴らは、とんだ怖いもの知らずだとも考えた。
中島は無意識のうちに襟をつまんでぴんと伸ばしていた。
少しばかりして、桃瀬は言葉を足した。
「たぶん帰りは終電に間に合わない」
「ああ、そっちか」
「ほかに何があるの」
「何もないな。はやく帰ろう、俺も駅までは送っていくから」
格好をつけて言った中島を嘲るように、レンガ造りの花壇の縁に立つ猫が鳴いた。中島はかっとなって足を踏んで威嚇して猫を飛び退かせ、桃瀬の手首を曳いて公園を出た。
手を下へとずらして桃瀬の指にまで迫ろうかと悩んでいるうちに、駅の改札に着いていた。桃瀬はすっと右手を抜いて、赤みの差した関節をそっと左手でさすり、
「今日はありがとう。じゃあまた明日」
と言い残して、改札に流れこんでいく人波にさらわれていった。中島は口をぽかんと開けて、地味な黒いリュックが遠く小さくなっていくのを見送った。
エスカレーターに乗った桃瀬が見えなくなるまで、ずっとそうしていた。
中島は小学生ぶりのスキップを交えたり、流行りの恋愛ソングを鼻で奏でたりしながら、違う路線の電車へと乗り込んだ。混雑した車内で体をねじ込ませ、背中をくっつけて二列になっている乗客たちのあいだの隙間に収まる。
カバンを足下に置いた中島は、窓の外の町並みをぼんやりと見つめる。
愛の告白をするなんて人生で初めてだった。そんな恐ろしいことを出来る自分だとは思ってもみなかった。昔から中島は気になる子がいても、素っ気ない態度をとって相手の恋心を念には念を入れて確認した。そしていざ確証に近いものを得ても、理由をつけて危険な橋を渡ろうとはしなかった。
その時に味わった後悔も、今日この日のための布石だったのだと思えた。
中島はすっかり舞い上がり、まるで世界は自分たち二人を中心に回っているかのような錯覚に陥っていて、桃瀬の笑顔を思い出しては心を温め、しかめ面を思い出しては肝を冷やすのだった。
電車を降りて駅のロータリを突っ切り、なだらかな坂をのぼって右手にある自宅の前に立った。道路に面したリビングから黄色い光が漏れている。
父が帰ってきているらしかった。
玄関には革靴が脱ぎ散らかされていた。中島はそれを靴箱の隅にきちんと並べてから靴を脱ぎ、リュックを自室に放り投げて制服をむしり取って洗濯機に放り込むと、朝に着ていた寝巻に身を包んでリビングへと入っていった。
「ただいま」
父はテレビを見ながら、スーパーで買った半額シール付きの惣菜を食べていた。
「おかえり。今日は用事が済んで早く帰ってこられた。ごはんはもう食べてきただろ」
「うん。一〇〇〇円くらいのラーメン」
「ひとりでか」
「友達とふたりで」
中島は正座をしておりんを鳴らし、テレビの横に置かれた仏壇に向かって手を合わせた。これが、家を出る時と帰ってきた時にこなす中島のルーティンである。昔はあれこれと心のなかで色々とつぶやいていたが、最近は特別な出来事でもない限りは挨拶をするだけで、今日より前で長く話しかけたのは高校の入学式の日だった。
中島は目をつぶって、初めての恋人が出来たことを亡き母に報告していた。それを 聞いた母はどういうリアクションをするのか純粋な興味があった。
寂しい思いを抱いたり、やたらと詮索してきたりするのかもしれない。
だが悲しいことに、そんな心配もいらないのだった。そんな心配がいらないから、中島は誰よりも最初に母へ伝えられたのだ。中島が部屋にこもっている夜、寝室で眠ろうとする父にこそっと耳打ちをする母ではない、できる母ではないのだ。
台座に飾ってある母の写真は、中島がどれだけ成長しようとも老いたりしない。父と二人で北海道旅行に行った時の柔らかな笑みをずっと保って、いつも食卓を見守っている。
「今日はいいことでもあったのか」
父は手に持っていた箸を机に置いて言った。
「いや、べつにそんなことないけど」
「拝む時間の長さで分かるんだぞ」
「子供も社会調査のサンプルにしてると聞いたら、母さんもきっと苦笑いするだろうな」
中島は答えをはぐらかしながら、机を隔てて父の前の椅子に座った。
「そこで母さんを持ち出してくるとは。なかなか手痛い一撃だ」
中島の父は大学の教員である。専門はネット炎上と呼ばれる現象で、被害者や加害者や事件の特徴、拡散や鎮火の速度などを統計的な観点から明らかにしようと研究している。職業病なのか身近にいる息子さえも研究対象だと考えている節があり、中島が幼いころから手を変え品を変え、個人的な実験をしていたようだった。
「母さんが生きていたら、父さんのその態度をたしなめていたと思う?」
「それはどうかな。母さんとは大学院の同じゼミで出会った仲だし」
「初めて聞いた。じゃあ母さんも一緒になって、俺にいたずらをしていたのかもしれないってことか」
父は満面の笑みで親指をつきだした。
「完全なモルモットになっただろうなぁ。まあ注射したり変なものを食べさせたりはしない。ただお前の反応を見て、行動を見て、人間がどういう生き物なのか探るだけだ。とくに赤ちゃんの認知的な発達はその時期にしか観察できない特別なものだし」
その両親から生まれた自分にも好奇心旺盛という血が流れているのだと思うと、中島はあまり父を責める気も起こらず、
「悪いな。もう高校生になってしまって」
と冗談を言ってコップにお茶を注ぎ、ごくりと飲み干して乾いた喉を潤した。
「ところで、父さんは例の動画のことは知ってる?」
「例の動画、あの女の子が踊るやつか」
中年男には関りがなさそうなあの動画をすぐに挙げた父を、やはりネット炎上の専門家なだけのことはあると中島は見直した。
「そう。本当にあれがロボットだと思う?」
父は無言で席を立ちあがった。そして冷蔵庫からビールを引っ張り出し、また席に戻ってきた。目をアルミ缶に落としたまま蓋を慎重に開けて、中島に差し出した。
「専門家の話を聞きたければビールを注いでくれ」
「はいはい」
さっきまでお茶の入っていた父のコップに、泡が適度に立つようにアルミ缶の角度を調節しながら注いだ。白い分厚い泡がコップの切れ目のあたりで膨らむのを止めた。それをご機嫌で見届けた父は、喉を鳴らして半分飲んでから口を開く。
「映像それ自体がホンモノかは父さんも分からない。父さんが言えるのは、動画がネットにあがった一日経った現在で考えると、ここ一〇年で最も拡散力の高いニュースだということだけだ」
「じゃあやっぱりみんなが関心を持っているんだ」
「文字通りみんなだ。あらゆる年齢層がなんらかの形で言及している。あの女の子をロボットだと考えたうえで否定的な反応をしたアカウントは、どれも匿名ばかりなのは興味深い現象だ」
父は下から覗き込むように中島にその先をうながした。
「匿名じゃないと批判しづらいってことか」
「それはもちろん。高い知性や感情を持ち合わせるロボットには、人間と同等の権利を与えるべきだという意見は公共の場ではだんだんと強くなってきている。それを別としてあと考えられるのは、デマを流すためのボットアカウントが暗躍している可能性だな」
「ボットか」
数十年前から、ボットアカウントは水面下で活動していた。世界各国の選挙戦のプロパガンダ、戦争における情報操作、企業の新商品を使うための販売戦略などあらゆる分野において、ボットは人間には対応の出来ない速さで広範囲に情報をばらまき、人間の思考や行動を影で操っているのだった。少なくない数のジャーナリストがその事実を暴露してきたが、いまだに有効な解決手段は見つかっていない。
残りのビールをぐびぐび飲んだ父はコップを持ったまま、
「あと一週間すればもっと色々なことが分かってくるし、さらに数週間すれば今回の炎上が終わっていてもおかしくない。人の噂も七十五日と言うが、ネットでの炎上は新しい情報が投下されない限り、たいてい一か月以内に嘘のように消えていく。世界の個人が密接につながった現代では、次から次へとどんどん面白いニュースが出てくるからな」
「じゃあ」
と声量をあげて尋ねようとした中島を、父はコップを掲げて制した。
「今日はこれくらいでいい。残りの考察については宿題とする」
「急に教員みたいな振る舞いをしやがって」
「教員なんだから仕方ない」
父は空いた手で惣菜のパックをつまんでそのまま台所にゴミ箱に捨て、コップはシンクにわざとらしく音を立てて置いた。
「水仕事も授業料に含ませてもらう」
アルコールで顔を真っ赤にした父は、音痴な歌を口ずさみながら風呂場に消えた。
「絶対に一週間経ってから質問攻めにしてやる」
中島は愚痴をこぼしながら二つのコップを洗い、自室に戻って桃瀬からのメッセージが届いてないかを確認する。
さっき家に着きました。今日はありがとう。
どこまでも形式ばったこの文章を中島は口ずさんだ。恋人になった桃瀬はいい意味でも悪い意味でもあまり変わっていないようで、中島の胸には寂しいような嬉しいような複雑な思いが湧き上がってきた。大きなため息でそれを吐き出してみる。
なにも変わらなかった。
中島も今まで通りの文面で返信した。
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