第2話

 すっかり人もまばらになった教室の真ん中で、中島は時間を潰すため、すでに三度読んだ漫画のページをめくっている。桃瀬に声をかえるタイミングが見失って、もうどうせならほかに誰もいなくなるまで待ってやろうと腹を括ったのだった。一方の桃瀬はそんな男の葛藤も知らずに、窓の外に広がる雑居ビルを眺めているようだ。

 一人、また一人とクラスメイトたちが不審がるような視線を残して去っていく。

鼓動が高まっていくのを中島は必死に押し止めようとするが、意識すればするほどかえって心臓は早鐘を打つ。最後の一人の足音が廊下から消えたタイミングで、中島は意を決してのっそりと立ち上がり、震える声を喉からひねり出す。

「そろそろ行くか」

 桃瀬はくるりと首だけ中島の側へと回して、こくりと頷いた。

「うん」

 中島は漫画をリュックへと雑に押し込んで、ファスナーを閉めて背負った。振り返ると、桃瀬はもう帰る準備を万端にしてすぐそばに立っていた。

「とりあえず学校を出よう」

「うん」

 二人はどことなく気まずい距離を保ったまま、夕日の薄い光の射す廊下へと出る。近くの教室から漏れ聞こえる、吹奏楽部の下手くそなラッパ音も、この時ばかりは中島にイライラではなく安心を与えてくれる。

 ゆっくりと小さな歩幅で進む桃瀬に合わせて、中島は階段の一段目に足をかける。一階の踊り場を抜けて、運動部が汗を流すグラウンドを遠巻きに見ながら石畳を踏みしめ、限界まで開かれた門の外へと二人はたどり着いた。

 中島は渇いた口をつばで潤す。

「映画でいいかな」

「うん」

「見たい作品はある?」

「いちおう」

 桃瀬の声に力がこもったので、中島は意外に思った。

「なんていう題名」

「『デッド・シティでの三日間』」

 中島は驚いて飛び上がりそうになった。

「俺もそれに誘おうと思ってたんだよ」

「そうなの」

 その態度との温度差に体の芯まで冷やされて中島は狼狽したが、いつまでたっても桃瀬が動きだそうとしないのでじれったくなった。

「とりあえず行こうか」

「うん」

 一歩前を行く中島は緊張のあまり話しかけられなくて、桃瀬はまったくいつも通りに姿勢よく淡々と歩いていく。国道の信号待ちに耐えかねて歩道橋をのぼり、トラックが出す排気ガスの匂いが立ちこめるなか、駅の東口のあたりで駄弁る同級生の女子たちがちらほら現れる。中島は道の端に寄って、どこか別の方向を見ながら早足に切り換える。

 桃瀬との関係が宙ぶらりんである今はまだ、二人でデートをしていることを知られたくないのだ。桃瀬への想いが実らなかったらそれ自体も残念だが、無関係の人間に哀れみの目で見られるのはもっと嫌だった。

 しかし中島のそんな羞恥心をよそに、当の桃瀬はだだっ広い歩道橋の真ん中を堂々と闊歩している。中島が怪しげな挙動で同級生たちとすれ違ってから後ろを向くと、桃瀬はぼそりとつぶやく。

「中島は見つかるとまずいの」

「まずいというより恥ずかしい」

「どうして」

「思春期の男だから」

「そうなんだ」

 興味深そうに首を小刻みに揺らす桃瀬から離れるように、中島はまた足を早めた。

ほとんどの無礼をマイルドにしてくれる思春期、女とは異質な存在だと壁を作るための男、その二つの言葉をすらすらと言ってのけたせいで虫の居どころが悪かったのだ。変わり者の桃瀬はその一言で納得したらしく追及の手をゆるめたのだから、なおさらだ。

 下校途中の学生でにぎわう駅を回りこみ、大型商業施設への連絡通路を渡り終えると、効きすぎなくらいの冷房の風がふたりを歓迎した。

「予定の時間まであと二〇分しかない。すこし急ごう」

「うん。なにを見るか、私に聞く前から中島は決めていたの?」

「どうせ桃瀬になんでもいいって言われると思ってたから」

 桃瀬は目を大きくして口をすぼめた。

「予想を外したんだ」

 中島はリュックを背負い直して、

「まさか桃瀬がホラー映画好きだとは思わなかった」

 と吹き出すと、桃瀬の恥ずかしそうな頬にえくぼが目立った。二人はそのまま近くのエスカレーターに乗って最上階に着くと、薄闇に閉じられた映画館でチケットを買った。ひと仕事を終えて安心していた中島だったが、背後から企みを含んだ声をかけられて固まってしまった。

 しかしさらなる追撃が降りかかってきた。

「中島と桃瀬ねぇ。けっこうお似合いかも」

 同じクラスの山口だった。誰にでも分け隔てなく接する快活な女子で、ただひとり桃瀬と親しく関われる稀有な存在でもある。その後ろには数人の仲良しグループがニヤニヤして控えている。いきなり出現した敵をまえにして固まっている中島の代わりに、桃瀬はのんびりと振り返る。

「あ、山口さん」

 物足りなさそうな山口は肘でぐいぐいと桃瀬の脇をつつく。

「今流行りの『三日間の恋人』を二人で見にきたのかな」

「ううん」

 山口を筆頭にして女子たちの視線が、冷たい汗がつたう中島の背中へと注がれた。逃げ場を失った中島はため息をついて彼女らに向き直る。

「残念ながら『デッド・シティでの三日間』のほうだ」

「え、わざわざデートに連れ出してホラー映画を観るなんて。もしかして、吊り橋効果で惚れさせようとか企ててるの。まだ付き合ってないけど恋人ごっこを楽しもうみたいな」

「ちがう。俺は吊り橋効果という用語さえいま初めて聞いた」

 中島は、恋人ごっこ、という単語をあえて無視しておいた。

「実際にそうでもまさか、はいそうです、とは言わないはず」

 山口はお仲間たちに目配せをして同意を求め、その期待に沿って女子全員の頭が縦に振られた。それでも魔女狩り式の誘導尋問には屈したくない中島は、

「本当だって。俺はただホラーが好きで、桃瀬も同じ意見だった成り行きでこれに決まったんだよ」

 と、我関せずと沈黙している桃瀬へと助けを求めた。

 が、桃瀬は足を揃えて背筋を伸ばしているだけだし、山口も意図があってか、中島からターゲットを変更しようとしなかった。

「ホラー好きねー、中島ってそういうタイプなんだね」

「悪いか、ホラーが好きだったら」

「まあ私たちがごちゃごちゃ騒ぎ立てることでもないわね。そろそろ始まる時間みたいだし、二人のお邪魔にならないように私たちは退散します」

 さんざん空気をかき乱した山口は、きょとんと佇む桃瀬に耳打ちしてから意味深な笑みを残して、仲間たちとエレベーターのほうへと歩いていった。

「まさか、こんなところで厄介な奴に出会うとは」

「山口さんは中島にとって厄介な人なの?」

 桃瀬が瞳を翳らせて言うので、誤解をとくために中島は、

「嫌いではない。でも、映画館で女子といる時には出会いたくなかった。なんとなく言いたいことは分かるだろ」

「山口さんは映画の開始時間を無視して話すから」

「うーん、たしかにそれもそうだ」

 会話の噛み合わなさに苦笑いしながら、中島は入場ゲートで待つロボットにチケットを提示した。ロボットはチケットをぎこちなく手にとり、不自然に大きな目で二人の男女の全身を見回すと、

「ポップコーンやドリンクはいかがですか。現在のレジの混雑状況からしますと、お客様が購入するためのお時間が十分にございます。また、映画の上映が学生様の夕食をいただく時刻にも重なりますので、食品類を購入することで空腹感なく映画を鑑賞していただけると思われます」

「いりません」

 桃瀬は後ろからひょっこり顔を出して、ロボットにありがちな見え見えの販売促進行動をはねつけた。この一風変わった女子高生の頼もしさを再認識しながら、中島もうなずく。

「承知いたしました。では、シアター三番にお進みください」

 一片のくやしさも滲ませずに引き下がるロボットの手からチケットを受け取り、二人は案内された三番シアターへと入った。

 上映二分前にもかかわらず、小さなシアターの席はほとんど空いていた。平日の、しかもまだ仕事終わりの時間でもないから、社会人らしき客はいないし、夕食の支度をしなければならないだろう主婦や主夫もいないし、もちろん制服を着たカップルはいない。物好きそうな中年男性が前列でパンフレットを読んでいるだけだ。

「ここだな」

「うん」

 二人はがらんとした後方中央の席に座り、かさばるリュックをそれぞれ隣の席に置いた。するとすぐに照明が消えて、大音響とともに宣伝映像が流れはじめた。

 中島は初デートに映画を選んだのには、はっきりとした理由があった。

 それは、気まずい沈黙の時間を減らしつつ、お互いの会話をするためのネタを作ることだった。映画ならじっと黙って観ていればいいし、終わったあとには自然と感想を言い合う展開になるはずだと、中島は考えていた。

 画面を見つめる桃瀬は心なしか前のめりだ。

 映画が好きなのか、あるいは、映画館に来ること自体が新鮮なのかもしれない。

桃瀬は部活にも入っておらず、授業が終わればすぐに教室を出ていく。かろうじて口を利く関係にはある山口も、桃瀬が放課後はどういうふうに過ごしているのかは知らないらしい。気になった中島が放課後になにをしているのか、趣味はなんなのかと聞いても、芯を食ったような返答を得られたためしもない。なんとなく誤魔化されて、これ以上聞くのは野暮だと思わされるばかりだった。

 桃瀬は謎に包まれた存在だ。

 そしてそのミステリアスさも、暴きたがりの中島を魅了していた。掴みどころのなさが逆に、桃瀬をもっと知りたいとの好奇心をかきたてるのだ。誰も知らない桃瀬という人間を自分だけで独占したくてたまらなくさせるのだ。

 予告映像がいくつか続いたあとで、ようやく本編が始まった。

黒々としたスクリーンにナレーションが現れた。

 未知の感染症にかかった者たちが取り残されて一〇年。ウイルス学の専門チームは特殊部隊に伴われて調査に送り込まれた――

「やっと始まった」

 中島はひとり言を装って横を見やったが、桃瀬はぐっと正面に目を凝らしている。

 トラックが急停車してタイヤの砂を噛む音がけたたましく鳴り、迷彩服のうえに防護服を着こんだ男たちが降りてくる。ハンドサインで指示を確認しながら銃を構え、密集して建つ木造の小屋のまわりを歩き回る。

 先頭のリーダーらしき男が深呼吸する。かしゃりと弾を装填する音が響く。

 後列の一人の女兵士の顔がアップで映し出される。先頭の男がドアを蹴破ると、それに続いて兵士たちがその家へとなだれ込む。

 誰もいない。床には埃をかぶった本や、古い新聞などが散乱している。

 そこで、桃瀬が深い息を吐きだした。ホラーのお約束ともいえる最初のフェイントに引っ掛かるのが可愛らしくて、中島はいやらしく微笑んだ。

 そもそも中島はホラー映画が特別好きではなかった。ただ桃瀬を知るために、この映画を選んだのだった。

 というのも、ホラーがもたらす恐怖こそが、視聴者の別の顔を暴いてくれると勝手に思っているからで、桃瀬のような反応の薄い人にはなおさら有効だと妄信していた。

 その予想通り、桃瀬はまず教室では絶対に見せないであろう反応を示したのだ。

 しかし、この程度で満足する中島ではない。ノゾキ魔のような如才なさで正面と横のどちらも視野に入れて、ストーリーの進行と同伴者の挙動を見逃さない。

 すべての家の内部に人の姿がないことを確認した調査団は、仮設住宅を建ててその晩の寝床を用意した。夜がやってくると彼らは酒を飲みはじめる。集団から抜け出した男女のお色気シーンも挿入され、これまた鬱蒼とした森からカメラが迫ってくる演出と、それがただの動物だったというオチが挟まれた。

 目を細めた桃瀬が膝のあたりでスカートを掴んでいるのを確認して、中島は、そろそろ彼らに降りかかるはずの事件に気を引き締める。

 すぐに異変は訪れた。

 カラスの不吉な鳴き声に起こされた調査団。点呼をしているうちに発覚する一名の欠員。その隊員は頻繁に風紀を乱していたと証言する仲間たち。混乱を鎮めようと言い争いをなだめるリーダー。呪われた地での怪現象によって深まる不安。

専門チームの調査によって、依然としてウイルスの濃度が高い水準にあることが明かされ、そうした事実と隊員の失踪を関連付ける隊員が出てきた。取っ組み合いをする血気盛んな者たちをみんなで引き剥がす。

 そして、また新しい朝を迎える。

 騒ぎの中心にいた隊員が姿を消していた。同じ棟で眠っていた者に疑いがかけられ、その二人は普段からいがみ合っていたとの情報もあがってくる。話し合いの結果、その者から銃器を取り上げることが決定されてその場は収まったものの、お互いへの疑心暗鬼はもう取り返しのつかない段階まできているようだった。

 次の日は、二人消えた。

 ここからはジェットコースターが急降下するようにストーリーが進む。リーダー格の男と研究者の女は正論を言うせいで周囲から疎まれ、本性を露わにした仲間から追われる羽目に。やがて残された者たちも喧嘩をはじめると、スクリーンは眩しいくらいに明滅し、すさまじい銃撃音が鳴り響く。

 容赦なく噴き出る血に圧倒されて、桃瀬は手をかざしながら顔の向きを変えた。その痛々しい視線が、ちょうど中島のものとぶつかった。

 二人は無言のまま互いの瞳を見つめ合うが、その距離は縮まらない。

 吹きさらしの地面に落ちた無線から、援護部隊の声がむなしく響く。

 夜が明けて朝日がのぼる。

 大量の戦車に乗ってきた兵士たちは意気揚々と、呪われた地に降り立つ。

 チームにはもともと何名いたのか、生存者は見つかったか、空気に含まれるウイルスの濃度はどれほどか、どうしていきなり連絡が途絶えたのか。

 緊張感のかけらもない声音で彼らが話し合うシーンで、映画は終わった。

 桃瀬は中島から目を離してぐったりと椅子に背中をもたせかけ、脱力したように首を垂れた。暗闇ではその表情がうかがわれなかった。中島は胸のなかをのたうつ心臓の音を聞きながら、桃瀬が怒っていないか、呆れていないか、もしそうならどうやって挽回すればいいかと、脳みそをフル回転させて考えた。

 考えれば考えるほど分からなくなった。変わり者のクラスメイトの本性をホラー映画で暴くという愚行を恥じた。そんなギャンブルに臨まず、焦らずじっくりと仲を深めれば良かったのだと悔いた。いつもなら退屈に感じるエンドクレジットがありがたかった。

 しかし、審判の時はやってくるのだった。

 ぱっと点灯する天井の光に照らされ、ぼんやりとしていた桃瀬の輪郭が色を帯びた。席を立って足早に去る客がいる。

 中島は控えめに咳払いした。

「どうだった」

 桃瀬の喉が引き絞られたのが分かった。

「すごく面白かった」

 反動をつけて顔を上げると髪がふわりと舞って、気味が悪いくらいの笑みが桃瀬の顔に浮かんだ。新しいおもちゃを見つけた時に幼児が見せるものだった。

「そう、か。なら良かった」

 中島はのけぞって言ったが、桃瀬は興奮に憑かれてまだまだ話そうとする。

「とりあえず場所を変えよう。なにか食べたいものは」

「ファストフードでいい。それよりも」

「分かってる。感想はあとで聞くから、もうすこしだけ待って」

 桃瀬は不服そうに口を膨らませたが、中島は見てみぬふりをしてチケットカウンターを抜けた。中途半端に相手をしたら閉館まで付き合わされる気がしたのだ。桃瀬は中島にとっての未知の存在であって、一度火がついたらどうなるのかもまだ知らなかったし、雄弁になった桃瀬を落ち着かせるための術も持っていなかった。

 二階のにぎやかなフードコートに着いて中島が振り返ると、桃瀬はぴしゃりと遠くを指さした。ほっそりとした指先は、赤黒い看板に印字された、とんこつラーメンを示していた。

「ファストフードじゃなくて?」

「こってりしたラーメンが食べたい」

「べつに俺はいいけど」

「べつに中島に同じものを食べてとは頼んでない。私はこってりしたラーメンが欲しい気分だから食べるだけ」

 桃瀬は冷たく言い放ったので、腰を抜かしそうになった中島だったが、

「たしかにそうだな。でも俺もラーメンを食べたかっただけだから」

 と、斜め上を見ながら応じた。が、そんな中島をほったらかしにして、すでに桃瀬はラーメン屋の券売機とにらめっこしている。

「空回りばっかりしてるな、俺は」

 後を追った中島はせめてものプライドで、桃瀬が頼んだものとは違う商品を注文した。何から何まで真似をして、自分の意思のない男だとは思われたくなかった。これから夕食を共にする同級生はそういう男を嫌うという予想をしていた。

 桃瀬は近くのテーブルに盆を置くなり、手を合わせて一言。

「いただきます」

 遅れないように中島が手を合わせた時には、もう桃瀬は箸をつついて、どろっとした大小の油の泡を弾けさせていた。白いスープの絡んだ麺を勢いよくすすって目をつぶり、一瞬だけ怪訝な目をする。

「思っていたよりおいしい」

 安心した中島は魚介スープを口に含んだ。

「こっちもなかなかいける」

 それから二人は貪るようにラーメンを平らげるまで、言葉を交わさなかった。

 空腹を満たした中島が箸をどんぶりに立てかけると、思い出したように桃瀬が口を開く。

「初めて観たけど、ホラー映画はおもしろかった」

「え、初めてだったのか」

「うん。見たことがないから見てみたかった」

 その初めての体験を、最近親しくなったばかりの自分と共有してくれたのが中島は嬉しかった。そして、今日の告白はうまくいくとの確信を深めた。

「でもあの地味な内容で怖さは楽しめたか」

「お化けが出てくるような派手な演出がなくても、恐怖は湧いてくるんだね」

 中島は得意げに胸を張る。

「あれはジャンルで言えばサイコホラーだな。結局怖いのは幽霊や宇宙人より、身近にいる人間なんだって教えてくれるありがたいお話しだった」

「身近な人だからこそ疑ってしまうのかもしれない」

 桃瀬はウェットティッシュで口の端を入念に拭く。

「よくあるのは、見知らぬ人同士が予期せぬ事故に見舞われて一堂に会すパターンかな。無知ゆえに生まれる恐怖のほうが印象は強いけど、自分がその場にいるとどっちが怖いんだろう。俺は知らない人同士のほうが怖い。誰を信用していいかも分からないし」

「私は知っている人同士のほうが怖い。知らない人なら仕方ないと諦められる部分があると思うけど、見知った仲間には遠慮もしないし甘えてしまいそうだから」

 桃瀬が薄茶色のシミのついたウェットティッシュをお盆に置いた。中島は首をひねりながら、その場しのぎの曖昧なまばたきをした。

 高校に入ってから一か月経っても、桃瀬が学校で山口や自分としかほとんど口を利かない理由は、ひとに裏切られるのが怖いからなのかもしれなかった。無口なくせに自己主張ははっきりとする女子だから、これまでも同年代のひとに厄介者と思われることはあっただろうし、邪険な扱いをうけることもあっただろう。

 桃瀬が内気なのは心を守るためなのだと、中島はひとりで納得した。

「女子の世界は男子の世界より大変そうだもんな」

「私は男子の世界を知らないから、何とも言えない。それよりも、あの謎のウイルスは本当に存在して、それはひとの精神を狂わせていたのかな。最後まで明確な答えを示すような演出がなかった気がする」

 桃瀬はやっと本題に入れると張り切った様子で早口になった。

「たしかに投げっぱなしな感じはあった。消えた人たちの消息も不明、原因も不明。新しく到着したチームも同じ末路をたどると暗示されただけ。でも、分からないこそ想像が膨らむとも言える。桃瀬も俺もそれぞれ自由に物語の結末を決められるんだ」

 待ち構えていた中島は偉そうに分かったような口を利いた。

「不親切な映画だった。でも面白かった」

「さぁ暴いてください、それが製作陣のメッセージじゃないか。きっと人間は謎や未知のものを探るのが生まれながらに好きなんだよ」

「私ならもっと面白く作れたと思う」

 真面目くさって言った桃瀬がおかしくて、中島は手を叩いて笑う。

「じゃあ映画研究会でも入ったらどう。予算はなくても協力してくれる仲間は見つかるかもしれない」

「いやだ。面倒くさいから」

「体験だけでもさ。まだ五月になったばかりだし」

「いらない」

「俺も強制するつもりはないよ。気の合う仲間が見つかったほうが高校生活も楽しくなると思っただけだから」

「気持ちだけはありがとう。これ返しにいくね」

 桃瀬は会話を打ち切るように、空のどんぶりの乗ったお盆を持って返却口に向かい、中島も置いていかれまいとそれに続いた。

 手が空いた二人は、どちらが提案するでもなしに専門店街をぶらつき始めた。服、靴、宝石など目に入ってくるあらゆる店を意に介さない桃瀬だったが、やがてある場所で立ち止まった。

「見ていい?」

「もちろん」

 ごちゃごちゃと商品が並べられた雑貨屋だった。店の入り口にはゴリラの巨大ぬいぐるみが置いていて、その黒い脇に抱えられた中型スピーカーからは、昔流行った洋楽がテクノ調にアレンジされて垂れ流されている。

 桃瀬はサブカル臭の濃い漫画の積まれた区画を通り、回転棚に引っ掛けられた金属製のアクセサリーをしげしげと眺める。十字架、ハート、剣などをモチーフにしたそれらの商品は、中島からすれば趣味の良いものに思えなかったが、ところどころ商品の空白があるので来店客の誰かには需要があるようだった。

「欲しいものは見つかった?」

 中島は退屈しのぎに話しかけてみたが、桃瀬は反応しなかった。

 一〇分ほど経った頃に、桃瀬は銀色のハート型のアクセサリーをつまんだ。

「それで決まり?」

「うん」

 こういう時にかける言葉が分からず、中島は社交辞令を言ってみる。

「桃瀬に似合いそう」

 しかし桃瀬はたいして喜ぶ様子もなかった。

「たぶん中島にも似合う」

 そして店の電灯の光を跳ね返すアクセサリーを手に包んで、レジで会計を済ませ、

「トイレに行きたい」

 と言い残して駆けていった。一人になった中島は独り言をこぼす。

「そろそろ心の準備をしないとな」

 我ながらここまでは順調だと思っていた。桃瀬が希望した映画を観させて、桃瀬が希望したラーメンを食べさせて、悪趣味なアクセサリーにも否定的な意見も述べなかった。今日までの一か月間で積み上げてきた信頼もそれなりだったし、もしこれで無理なら一年後でも難しいと諦められるくらいには努力してきた。

 桃瀬はなかなか出てこなかった。

 告白されるのを予期して化粧直しするような女子ではないし、トラブルに巻き込まれたのだろうかと中島が訝りはじめたその時に、とぼけた顔で出てきた。

「待たせてごめん」

「俺は大丈夫だけど、桃瀬は大丈夫?」

「うん」

 二人は肩を並べて商業施設の外に出た。空は暗くなっていたが、林立する低層ビル群の看板は色鮮やかに光り、飲みに出る大人たちであたりは賑わっている。健全な高校生が町の主役でいられる時刻は、もう過ぎているようだった。

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