第1話

 高校一年一組の教室は、ゴールデンウィーク明けの昼休みらしい騒々しさに満ち、弁当を食べ終わったばかりの男子二人も教室の端っこで噂話を楽しんでいる。

 中島は携帯から目を逸らし、椅子の背もたれに寄りかかった。

「これが噂の動画か。モザイクがあるせいか、俺にはあまり怖さが伝わらない」

 眉をひそめたマイケルは中島の机に座り、前のめりになって息を飲む。

「あの関節の曲がり方はおかしいだろ。苦しそうな顔をしていたし、あの曲が流れていなければ呻き声だって聞こえたはずだ」

「テロップには、これは人間じゃない、って書いてあった。それが正しいなら俺たちはあのロボットに同情しなくて済むけど、きっとあれは加工を施された動画なだけだろう」

「いや、彼女は完全自律型ヒューマノイドロボットだと思う。十年くらい前にあった、あの噂は事実だったんだよ」

「LUVLUB社から提供されたロボットが人間として生活していけるか。今の科学技術でそんなことができるわけがない、はずだ」

 中島は鼻をかいて、上を向いたまま目をつぶって考え込んだ。

 今から遡ること二〇年前。アメリカのロボット製造会社LUVLUBが国外向けに商品を展開するという発表をした。情報処理の観点から生後数か月の人間の脳を模倣して作られ、人間がさまざまな情報を摂取して大人になっていくのと同じ発達段階を経て成長していくと言われている。

 いわば外から見ても生身の人間と区別はつけられない完全自律型ヒューマノイドロボットなのだ。数十年前に導入されたアメリカにおいてはすでに完全な形で人間社会に馴染んでいるらしく、いまだそのロボットの存在が確認された例はない。

 もちろん、今回の動画のような例もまだ起きていない。

「楽しそうな話をしているらしいな。俺も混ぜてくれよ」

 後ろからやってきて中島の肩に手を置いたのは、同じクラスの庄司である。中島はだるそうにその手を払って言う。

「この国でロボットが俺たち人間に混じって生活しているかって話だよ。俺はそんなことあり得ないと思っていて、オカルト好きなマイケルは、噂の動画に映っているのがまさにその完全自律型ヒューマノイドロボットだと思ってる。ちょうど第三者が現れてよかった。庄司はどっち派だ」

 庄司はいったん振り払われて手をまた中島の肩に置いた。

「どっちもありうるな」

 拍子抜けしたような様子でマイケルは笑った。

「成績優秀で思慮深い庄司くんは意見を保留するらしいぞ」

 庄司はごほんと咳払いした。

「そもそも人間は互いにとってロボットみたいなものだ。なにを考えているか本当のところは分からないんだから。自分と相手との関係性や、相手の表情や仕草から内面を読み取っているふりをしているだけだ。それは相手も自分と同じ人間だと仮定して成り立っている、不確かな信頼関係でしかない」

 言われた二人は目を合わせて苦笑いした。庄司はさらに続ける。

「お前らのその苦笑は自分の無知を隠すためものだろう。入学してからの二か月でお前らと関係を築くなかで得た知識からの推論だ。人間の脳を巧妙にシミュレートしたロボットなら造作もないことだ」

 言われた二人はうつむいて黙った。庄司は声を抑えて続ける。

「今はきれいごとばかり叫ばれる時代なんだよ。裸の王様に裸だと指摘することも公共の場では許されない」

「庄司、すこし声が大きすぎる」

 中島は周りをうかがいながら言って、手で顔をこすった。

 弱者を犠牲にしてきた社会の過ちを糺していくというのが、何百年かけて続いている世界の潮流だった。奴隷解放による人種差別の撤廃、女性参政権の付与による男女の政治参加の平等、同性婚の承認による性的マイノリティの保護、動物愛護による生物間の平等。

だから次に認められるのがロボットの人権でもおかしくなかった。

 この流れから考えれば、知能や感情で人間にもっとも接近しているロボットを蔑ろにするほうが、不自然なのだ。いずれロボットが人と並び立つ存在になるとみな分かっていながら、いまいち実感が湧かないなかで現われた例の動画であるから、これだけ多くの人にとっての関心事になっている。

 マイケルが白々しいあくびをして、重い空気を破った。

「そんな真面目なことを言いたくて、この動画を見せたわけじゃないぞ。俺は退屈な学生生活にスパイスをひとつまみ提供したかっただけだ」

 しかし庄司はお構いなしに言いつのる。

「さぁ今日からロボットを導入しますだと多くの人が偏見をもってしまう。だから政府はある程度の時間をかけて、ロボットが社会に馴染んでいるという既成事実を作ったうえで、すべての事実を明らかにするつもりなんだ。そして、今回の動画は来たるXデーを決めるための観測気球だと俺は見ている」

「俺が空気を変えようと頑張ったのに全部パーじゃないか。たしかによくできた陰謀論ではあるけど、出所も分からない動画一本でそこまで言えるかな」

 中島もうなずいて同調する。

「匿名のイタズラにムキになるなよ。らしくないぞ」

「じゃあ中島はロボットと自分が同じように扱われる世界を受け入れられるのか」

 顔を赤くして迫る庄司の勢いにひるんで、中島は声を潜めた。

「俺一人がどうこう言っても仕方ないだろ。そういう時代の流れなんだから受け入れるしかない。受け入れなければ周りから白い目で見られるだけだ」

「まあお前はそういうスタンスをとると分かっていた。これも数か月のあいだ関わってきたからできる、ロボット的な情報処理で推論できた」

 庄司が嫌味で締めた。マイケルはもう諦めたらしく首をひねって口を閉じている。

「そこまでボロクソに言われるとはな。こんな議論でムキになる方がどうかしてる。庄司の予想なら一か月以内に政府から発表があるわけだ。楽しみにして待ってるよ」

 捨て台詞を吐いたあとで、中島はなんとも言えない感情を抱いた。

 父がいて母がいて、今日までに溜めてきた多くの思い出があるのに、それを機械仕掛けの装置と同等に見なされると考えるだけで苛立った。かけがえのない自分の心はたしかに存在していると信じていたし、自分以外の誰かがきっと持っている心の存在も信じていた。

 しかし人間のふりをしたロボットがいるとなれば、他人の心をどうやって認めればいいのか分からなくなる。認める必要も感じられない。

 これは理屈ではなくて本能の問題だった。

 中島はロボットの運用がここ日本ではまだ始まっていないことを願った。

「おいおい、それより今日の放課後なんだろ」

 マイケルが今度こそと言わんばかりにニヤついたので、中島は睨みを利かせる。

「だったら悪いのか」

「いや、悪くない。こういう場合、勝負をする前の時点で決着はついてるからな。本番でよっぽどの失敗をしないかぎり」

「お前らが余計なことをしないかだけが心配事項だ。俺は平常心を保っているから」

 すると、ずっとムッとしていた庄司も頬をゆるめる。

「こっちまで緊張してきた」

「しなくていい。俺でさえそこまで緊張していないのに」

 ちょうどその時、五限の始まりを告げるチャイムが鳴った。

 あちこちに散っていた生徒たちが自分の席へと戻っていく。授業の補助を行うロボットが教室の後ろ扉からすべり入ってくる。底の部分に付けられたローラーで移動し、胴体の部分は台のようにくり抜かれ、顔の部分は黒いレンズで四方を見渡すという、人間の風味がない業務用ロボットである。

「授業が始まりました。倫理を担当される一ノ瀬先生がもうすぐいらっしゃいます。それまでに席について、授業を始める準備をしておいてください」

 抑揚のない機械音声が流れると、庄司とマイケルはそそくさと去っていき、残された中島はカバンから教科書を取り出して机のうえに置いた。淡い夕暮れどきの風景が描かれたその表紙は、倫理という教科の掴みどころのなさを示しているようでもある。

 一年一組の担任教師の一ノ瀬が、けだるそうに頭をかきながら入ってきて教壇に立って、

「起立、礼、着席」

 と早口の小声で言ったが、生徒は誰ひとりとして立ってもいないし、礼をしてもいない。最初のホームルームで一ノ瀬が、堅苦しい挨拶が嫌いだからと言って以来ずっとこの調子である。ロボットの台に乗った教科書を手に取って、一ノ瀬は楽しそうにしゃべりだす。

「今朝、面白い動画がネットに上がったらしいな」

 意味深な笑みで応じる生徒たちの反応に満足したようで、

「笑えるくらいには信じていない奴が多いらしいな。じゃあ俺からも試しに聞いておくか」

 と一ノ瀬は間をあけて注意を集めた。中島は瞬きしながら次の言葉を待つ。

「このなかで自分はロボットだと自覚している奴はいるか」

 やっと打ち解けて柔らかくなりつつあった教室に、にわかに緊張が走った。手を膝のうえで固く握った中島は顔の位置をそのままに、目だけ動かして周りを盗み見る。

 作り笑いすらできない女子、余裕ぶって不自然に笑う男子。

そのなかで、いつもと変わらない無表情を保つ者がいた。長い黒髪からのぞく目はしっかりと一ノ瀬を見据えている。

 中島の心をいま一番に占めている、桃瀬である。

「伝わっていないみたいだからもう一度聞いてみようか。この教室のなかに、自分がロボットだと自覚している奴はいるか」

 この不穏な緊張感をかきたてるように、一ノ瀬は力強い声で問いかけた。

 と、後ろのほうから手で風を切る音がした。中島は驚いて振り返った。

 マイケルがバツの悪そうな顔で手を上げていた。

「ありがとう、マイケル。こんな答えづらい質問に反応してくれて」

 教壇から見下ろすようにして一ノ瀬が言うと、マイケルはくしゃりと笑みをこしらえた。

「って僕がロボットなわけがないでしょう。まあ完全自律型ヒューマノイドロボットの存在は僕も信じてはいますが」

「なんだ、悪ふざけか。ほんとうにマイケルがロボットなのかと信じかけたぞ」

 教師の隅までにどっと安堵が広がった。

しかし、一ノ瀬はまだ険しく眉を傾けて続ける。

「みんな今の空気で分かったと思うが、こうやって魔女狩りは始まるんだ。自分とは異質な誰かの正体を暴き立てようとして、お互いが疑心暗鬼になって、最終的には多数派がその異質な誰かを迫害するようになる。そうなった段階でもう真偽の検証は甘くなっていて、怪しい奴は全員アウトだって糾弾することになる。今のはあくまで魔女狩りごっこだが、こういう未来が近いうちに来てもおかしくない」

 教室はしーんと静まり返った。自分たちが作り上げた険悪な空気を言い当てられて、だれも何も言えなくなっているのだった。中島もその例外ではない。目を伏せて本心を覆い隠そうとしたが、その試みもうまくいっていないと自分でも分かっていた。

 マイケルがロボットだと思った瞬間、彼を見る目はたしかに変わってしまったのだ。

「ということで、この話はもう終わりだ。ネットの与太話に振り回されて魔女狩りに加担するなというのは、古代ギリシアの哲学者の思想を学ぶよりよっぽど倫理の授業にぴったりな議題になっただろう」

 一ノ瀬は大きく息を吐いて、前回の続きの内容を解説しはじめた。

 黒板をチョークが叩く音と、ノートにペンの先が走る音が強く響くなかで、中島はマイペースに構えている桃瀬をちらちらと見ていた。桃瀬は斜め前方向の窓際の席で頬杖をついて、虚ろな目で教科書に目を落としている。ロボットの話を聞く時となにも変わらない、無関心そうな横顔には儚げな美しさがある。

 その横顔に惚れて、中島は桃瀬に告白しようと思い立ったのだ。

 四月に初めて見た時から、他の女子とは違うと感じていた。つややかな長い黒髪や、つんと尖った唇だけが魅力だったからだけではない。周りからの同調圧力をものともせず、ゆったりと余裕ありげに振舞っているところに、自分にはない凄みを見出したからだ。

 それからというもの、中島は何度も積極的に話しかけて桃瀬との心の距離を縮めようとした。はじめは一言二言しか返ってこなかったが、だんだんと口数は増えていって、今では放課後にも連絡を取り合う仲になっている。

 そしてとうとう、今日はじめて二人で遊びに行くことになったのだ。

 一ノ瀬はダボダボの服を揺らしながら喋っている。

「だからプラトンは死刑執行を受け入れた。正しく善く生きることが出来ないのなら、これ以上生きる必要はないと考えたんだ」

 右から左へと聞き流しながら中島は放課後に備えている。髪型を整えようと手が頭にのびていたし、顔のべたつきも気になってきた。桃瀬はそんな些事に気がつくタイプの女子ではないと知っていたが、この大一番にかける中島の想いは強かった。

「中島君、授業はちゃんと黒板を見て受けましょう。今日はとくに注意散漫な傾向なようで、窓の外へと視線が向いています」

 気がつくと、教室の後ろを徘徊しているはずの授業補助ロボットが隣にいた。

「おい、中島。窓の外に美人でもいるのか」

 一ノ瀬は窓のほうへと近づいて目を細めると、マイケルが調子に乗って大声をだす。

「窓の外に、いるんですか」

 中島は後ろを振り返って舌打ちをした。マイケルは肩をすぼめて小さくなった。

「べつに俺の授業は真面目に聞かなくていいが、真面目に聞いているふりだけはしとけよ。俺じゃなくて、ロボットが四六時中お前たちを見張っているからな。そのロボットの視覚センサーの奥には生徒主任の目がある。常に生徒を監視できる技術が生まれたことを呪うんだな」

 渇いた笑いを見せてから一ノ瀬が授業を再開したので、中島は赤くなった顔を手で隠しつつ黒板に目を向けた。

 中島の横目のさらに端でとらえられた桃瀬は、自分の指にじっと見入っている。

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