第2話 初日
自分のクラスを確かめ、教室へと向かう。今日から高校生になった、と言っても学校に流れる空気は中学校とあまり変わらない。砂の匂いのする下駄箱も、ワックスの塗られた廊下も嗅ぎ慣れた、見慣れたものだ。制服だけがまだ着慣れない固さを保っているだけで。けれどこれもきっとそのうち馴染んでしまうのだろう。時間が経てば今感じている固さは消えていく。忘れていく。
階段横に備え付けられた鏡に映る自分と目が合う。べっこう色のフレームが白い肌に馴染んだように。はめられたレンズを通して見える景色に違和感を覚えなくなったように。誰かに与えられた正しさの中で生きることに私は慣れていくのだろう。
ツン、と音が鳴るような胸の痛みも、「千映」と優しく呼んでくれた兄の声も、全部――忘れていくのかもしれない。
「おはよう」
間近で響いた声にびくりと肩が揺れた。
「え、そんなに驚く?」
振り返れば
――え、モデル?
――美少女じゃん。
聞こえてきたざわめきを振り払うように美晴が「千映も二組でしょ? 一緒に教室行こう」と私の腕を掴み、歩き出す。背中で揺れる長い髪から甘い花の香りが流れてきて、階段を上る度に弾む毛先が窓からの光に透けている。
「美晴、髪染めた?」
「あ、わかった?」
足を止めて振り返った美晴はとても嬉しそうに笑った。
「高校生だしさ。もういいかなって」
美晴の言葉が胸の奥まで落ちてくる。中学生とはもう違うのだから。周りに振り回される必要はもうないのだから。笑って口にしているけれど、美晴の強い意思を感じる。
良くも悪くも目を引いてしまう美晴。好意的な視線ばかりではなかったことを私は知っている。美晴がずっと耐えてきたことも。
――こんなこと言うとさ、贅沢な悩みとか、嫌味とか言われちゃうんだろうけど。わたしは自分の見た目が好きじゃないんだよね。「かわいい」とか「モテるでしょ」とか言われるたびに心が固くなるの。枠にはめられている気がして苦しくなるの。
美晴が私だけに言ってくれた本音。私はただ「そっか」と返すことしかできなかった。それでも美晴は笑っていた。
――ありがとう。千映なら聞いてくれると思ったんだ。
本当に字面通りの「聞く」ことしかできなかったのに。美晴は「千映が友達でよかった」と笑顔を向けてくれる。「私も美晴と友達になれて嬉しいよ」そう笑い返したけれど。本当は美晴の言葉の意味を半分も理解していなかった。理解していたなら、きっとあんなことにはならなかった。兄が出ていくことを止めることはできなかったかもしれないけど。でも、あんな悲しい声を聞かずにはすんだだろう。
***
兄が志望していた大学は家から通える距離だった。けれど兄は一人暮らしすることを選んだ。兄が家を出ると言ったとき、私たち家族は誰も反対しなかった。父は少しだけ寂しそうな表情をしたけれど、母はどこかホッとしていたように思う。母だけではない、きっと兄自身もホッとしていただろう。自分の育ってきた場所が、居場所であったはずの家が自分を拒絶したのだ。はっきりとした拒絶ではなかったけれど、変わってしまった空気がそれを示していた。
家を出る前夜、兄が私の部屋を訪ねてきた。
コンコン、と響いたノックの音に気づいたけれど私はベッドの中から出なかった。
「千映? もう寝た?」
開けられた扉から光が入り込む。真っ暗だった視界に差し込んだ明るさ。目を閉じていてもわかる。兄は私が起きていることに気づいていたのかもしれない。
「千映、――ごめんな」
そうでなければ、あんなことを、あんな悲しい声で言わなかっただろう。
あのとき兄は何を謝ったのだろう。
私は謝られるようなことをされたのだろうか。
――お兄ちゃんは何も悪くないよ。
ようやく浮かんだ言葉は口にする前に「おやすみ」と閉じられた扉に阻まれた。
避けていたのはどちらだったのだろう。
兄だったのか、私だったのか。
家の中で顔を合わせても必要以上に話さなくなった。兄の顔を見る度にあの日の光景が浮かんでうまく目を合わせられなかった。兄はそんな私に何も言わない。ただ申し訳なさそうに微笑むだけで。
***
美晴と一緒に教室に入れば、そわそわと浮足立つような、それでいて緊張感があるような、いかにも「初日」というざわめきが体を包み込んだ。廊下よりも教室という限られた空間のほうが強く視線を感じる。美晴へと向けられる興味が隣にいる私の肌にも突き刺さる。
「千映、席どこ?」
美晴もきっと気づいている。気づいているけれど、気づかないフリをしている。だから私も美晴だけを見上げて答える。
「えっと三列目の前から三番目」
出席番号順に決められた座席を指差せば、美晴がひひ、と笑った。
「ど真ん中だね」
「美晴は?」
「窓際一番後ろ」
「いいなあ。さすが
「いいでしょう?
ふふ、と目を合わせて笑えば胸の中がふわりと温かくなる。
「あれ? 千映の隣の席って、もしかして
「え」
美晴の声に振り返れば、自分がこれから座るべき席の隣には大きな背中があった。反対隣の男子と楽しそうに話している、その横顔に一瞬息が止まる。
「へえ、柿崎も同じクラスだったんだ」
「……」
「千映? どうかした?」
「ううん。なんでもないよ」
美晴には言っていない。兄のことも。私が柿崎に言われたことも。
「席についてー」
チャイムの音と同時に入ってきた教師に促され、美晴とは別方向に歩き出す。
近づく背中を視界から外すように顔を俯ける。カタン、と引いた椅子に腰を下ろせば一瞬視線を向けられた気がしたけれど、声はかけられなかった。
――芹沢ってひとを好きになったことないんだな。
憐れむような目だった。眼鏡をかけているのに景色はぼやけていった。見えていたものの色が消えていく。輪郭が捉えられなくなる。それなのに、夕陽が差し込む教室で、逆光だったにも関わらず彼の表情だけはなぜだか鮮明に刻まれた。
彼――
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