第3話 レンズの先


 ***


 高校受験を間近に控えた冬休み前。教室に忘れ物を取りに戻ったら、柿崎がいた。

 中学で一緒になった柿崎とは挨拶くらいしかしていない。入学前から知り合いではあったけれど、小学校は違ったので特別何かを話すような仲ではなかった。同じクラスになって八か月。昔のことも兄の名前も私たちは口にしてこなかった。このままただのクラスメイトとして過ぎていくはずだった……のに。

 柿崎の姿を見つけた瞬間、私の頭には二年も前の光景が鮮やかに浮かんでいて。振り返った柿崎の顔が兄の隣に座っていたあのひとと被ってしまって。無意識のうちに声は転がり落ちた。

「あのさ……」

 ――柿崎は兄たちのことを知っているのだろうか。

 兄が通っていたサッカークラブ。私は母にくっついて応援に行っていたので兄の友達の顔を覚えている。柿崎も兄弟でそこに通っていた。

「何?」

「柿崎は、お兄ちゃんたちのこと、知ってたの……?」

 途切れ途切れではあるけれど、どうにか言葉を紡いだ私に柿崎は一瞬外した視線をすぐに戻した。

「知ってたけど。それが何?」

 まっすぐに向けられた言葉。揺れることのない視線。

「な、にって」

 問い返されて初めて自分が何を求めていたのか気づかされる。「共有」「共感」浮かんだ単語に顔が熱くなる。恥ずかしさでいっぱいになる。言葉を詰まらせたままの私に柿崎は言った。

「――芹沢ってひとを好きになったことないんだな」

「え」

「誰かが誰かを好きになるなんて普通のことなんだからさ。そんな表情かおするなよ」

 私はどんな表情をしていたのだろう。同じ年の差のきょうだい。兄と過ごしてきた時間は私も柿崎も同じはずなのに。柿崎には戸惑いが一切見られない。当たり前の事実として受け入れている。

 ――普通のことなんだからさ。

 ――千映は大丈夫よね?

 柿崎の声と母の言葉が重なる。何が「普通」で、どういうのが「大丈夫」なのか。正しいと思っていたこと、思い込もうとしていたことが崩れていく予感。眼鏡をかけているのに視界がぐらつく。兄をフレームの外に追い出したのは私自身なのではないだろうか。

「家族だろ」

 わずかに強張った声。ポン、と叩かれた肩。一瞬触れただけの熱に心臓が反応する。こんな瞬間に気づきたくなんてなかった。「共有」「共感」だけじゃない。私が求めていたのは、きっと……。

 自分の浅ましさと一緒に自覚させられた想いに、泣きたくなった。


 ***


 入学式とホームルームが終わればもう解散。初日なんてそんなものだ。

「千映は部活どうする?」

 放課後になったばかりの教室内は朝とは違うざわめきに包まれている。着慣れない制服は相変わらずでも、緊張感は薄れていた。

「えっと」

「渡辺さん」

 私が答える前に美晴が呼ばれた声に振り返る。

「連絡先教えて」

「あ、私も」

 声をかけてきたのは美晴の近くの席の女子たちだ。まだたった一日。たった数時間。それでもこの子たちがクラスの中心になるんだろうな、とわかる。そういう雰囲気を纏っている。美晴からも感じる。だからこそ彼女たちは美晴に声をかけてきたのだろう。同じ空気は自然と引き合うものだから。

「ごめん。明日でもいい? ちょっと今日は急ぐんだ」

 え、と視線を上げれば「千映、帰ろう」と困ったように笑う美晴の顔があった。

 頷くよりも早く美晴が私の手を握る。パタパタと上履きが床を叩く音が重なる。

「よかったの?」

 美晴のペースに合わせながら横顔を見上げる。美晴はまっすぐ前を向いたまま口を開いた。

「千映がいればいい」

 きゅっと握られた手は小さく震えていた。

「……そっか」

 私は合わない歩幅を埋めるように必死で足を動かした。

 美晴が私を選んでくれる度、美晴が強さを見せてくれる度、私は嬉しさよりも自己嫌悪でいっぱいになる。兄を気にかけながらも会いに行こうとまではしない自分。両親に兄のことを聞くのを躊躇う自分。

 こんなにも大切にしてくれる美晴の想いにすら私は気づかないフリを続けている――。


 四月も半ばを過ぎた中庭には緑の匂いが満ちていた。

「千映?」

 呼ばれた名前に顔を上げる。隣に座っている美晴は小さく顔を傾けていた。どうかした? と表情で尋ねてくる。校舎に囲まれた空間。中央に植えられた桜の樹には緑色の葉が広がっている。木目の浮かんだ机とベンチが煉瓦敷きの地面に並ぶ。その中のひとつで私と美晴はお昼ごはんを食べていた。日差しは暖かいけれど、風はまだ少し冷たい。きゅっと肩を寄せ合って制服越しに体温を分け合う。

 正面ではなく隣に座ったのは寒かったから。美晴はきっとそう言う。そうだよね、って私も笑って返すのだ。

「次の授業なんだったかなって」

「えー、やっとお昼休みになったのにもう授業のこと考えてるの?」

 私の答えに美晴が不満の声をあげる。ぎゅっと眉根を寄せて「千映はマジメすぎ」と口を尖らせる。不満顔でも美晴の可愛さはなくならない。むしろこういう表情をしているときのほうが可愛いと思う。

「次……次は確か生物じゃなかった?」

 こうやってちゃんと答えてくれるのが美晴だ。単純な質問にも、些細な疑問にも答えてくれる。美晴は私にとても優しい。

「生物か。あの先生の喋り方眠くなるんだよね」

「どうせなら一限目にしてほしいよね。昼休み後なんてお昼寝タイムだもん」

 入学して二週間。クラスメイトのことも先生のことも少しずつわかってきた。お昼休みに誰と過ごすかも決まってくる。最初の一週間、美晴は何人かからお昼に誘われていた。その誘いのひとつひとつを丁寧に断って、美晴は私といる。ほかの誰かを入れずにふたりだけ。まるで中学校の延長みたいな光景。

 美晴がほかの人を避けるのは「仲良くなったぶんだけ裏切られたときの辛さが増す」から。「彼氏をとられた」とか「可愛子ぶってる」とか美晴の知らないところで言葉は交わされていた。美晴が何かをしたわけではない。美晴はただ普通に過ごしていただけ。それなのに悪く言われる。仲がよさそうだった友達ほど裏では美晴の悪口を言っていた。

 中学一年の夏休み前だった。私はたまたまそれを聞いてしまって、美晴がそこに通りかかった。女子トイレの入り口前。奥にいる彼女たちは私たちの存在に気づいていない。放課後の校舎内は不思議なほど静かだ。

「っ……」

 声にならない声が鼓膜に触れる。揃えられた上履きが目に入る。そっと見上げれば小さく唇を噛みしめた顔があった。

「行こう」

 気づいたら手を伸ばしていた。

 どこに、とか。なんで、とか。誰、とか。

 美晴は何も言わなかった。何も言わず、私に手を引かれるままついてきた。私たちはクラスメイトではなかったし、話したこともなかった。私は美晴のことを知っていたけれど、美晴はきっと私のことを知らなかったと思う。それでも美晴は手を振り払わなかった。それくらい傷ついていたのだろう。

「寝たくても寝られない席なんだよね」

 私が箸の先にため息を落とせば

「千映、しょっちゅうあてられてるよね」

 美晴がおかしそうに声を震わせる。

「やっぱり? 気のせいじゃないよね? 真ん中なら埋もれて隠れられるかと思ったのに。やたら先生と目が合うんだよね」

「それは千映がマジメに授業受けてる証拠だね」

「マジメにやればやるほどあてられるって損じゃない?」

「そのぶん授業は問題なく進むよ」

「うー」

 そうかもしれないけど、やっぱり損だと思う。不満を隠すことなく唸れば、「はい」とお弁当箱の蓋に卵焼きが載せられた。

「え」

「頑張ってる千映にご褒美」

「みはるうぅぅ」

 ごはんの途中でなければ抱きついていただろう。美晴の白い手が頭に載せられ優しく撫でられる。

「ヨシヨシ。お礼は課題のプリントでいいよ」

 温かな手に騙されるところだった。

「ご褒美にお礼っておかしいでしょ」

「バレたか」

 美晴が私の手を振り払わないのと同じで。私も美晴に触れられることを拒まない。同じ気持ちを返せないことに気づきながら心地よい温度から踏み出せない。最低だな、と思いながらも。私にはこの眼鏡を外す勇気がなかった。

 与えられた景色。誰かの作った基準。同じものを同じように見ることで得られる安心感。

 少しでも変わってしまったら、見えなくなってしまったら、また新しいものを手に入れるだけ。新しいと言いながら元の場所へと戻る。ここにいればきっと大丈夫だから。これがきっと正しいから。

 美晴の想いを確かめることはきっとこのレンズの先にはない。美晴のことを大切だと思っているのに。友達だと思っているのに。一番美晴のことを否定しているのは私だ。美晴は何も悪くないのに。中学の頃のあの子たちよりも私は美晴を傷つけているのかもしれない。

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