視界を染める景色

hamapito

第1話 正しい世界

 眼鏡を新調した。

 きゅっと目を凝らさなくても文字が読める。ぼやけていた輪郭が鮮明になる。初めてかけたときの新鮮な気持ちを思い出させてくれる。だけど、それが苦しくもあった。

 まるで「あなたの正しい世界はこれですよ」と言われている気がして。眼鏡をかけて見える世界こそが正解で、それ以外は違うのだと。

 どうしてこんなことを思うようになってしまったのか。

 それはきっと――兄が家を出ていったからだ。


 ***


 夏は過ぎたのに、夏みたいな天気の日だった。冬服に衣替えしていたのに、秋の気配すら忘れてしまう空気。中間テストが終了したばかりの十月半ば。久しぶりの部活は急な雨で中止になった。折り畳み傘なんて役に立たないほどの風雨。幸い、中学校から家まではそれほど遠くはない。途中から傘を閉じて走った。どうせ濡れるなら、一刻も早く家に着きたかった。

 この時間は誰もいない。両親は仕事だし、高校生の兄は塾の日だ。チャイムを鳴らしたところで誰も出てはくれない。手が濡れていたけれど構わずリュックの中を引っ掻き回し、キーホルダーを指先で探り当てる。ジャラ、と金属のぶつかる音が手の中で鳴り、そのまま鍵穴に差し込んだ。

 雨はさらに激しさを増し、周囲の音を遮断する。手元のガチャガチャと鍵を回す音さえ掻き消される。

「た……」

 ただいま、と口にしようとして誰もいないのだったと声を引っ込める。母は「誰もいなくても家に挨拶するのは大事」と言うけれど、私は誰もいない家に向かって「ただいま」と言うのが嫌いだ。自分の声だけが響く空間はひとりぼっちだということを強く意識させられるから。

 だけど――、このときだけは母の言葉に従っておくべきだった。雨に掻き消されてしまった自分の存在をちゃんと知らせておけば、あんなことにはきっとならなかった。

 折り畳み傘をドアのそばに立て掛け、ローファーを脱ぎ捨てる。いつもなら使った傘は開いておくし、脱いだ靴は揃える。けれど今だけは構っていられない。雨を吸い込んだブレザーは重いし、床に足跡をつける靴下は気持ち悪いし、何より夏でもないのにこんなに濡れたら風邪をひいてしまう。

 早く着替えよう。頭にはそれしかなかった。

 だから――玄関の端に揃えられた靴に気づけなかった。兄のものと、もう一足。同じ大きさのものがあることにも。

 雨の音に覆われた家の中は静かだった。洗面所へと直行するはずだった足が止まってしまったのは、リビングの扉が開いていたから。戸締りにはうるさい母が開けっ放しにするとは思えない。風のせいだろうとは思ったけれど、泥棒だったらどうしようとか、幽霊じゃないよねとかひとりの不安が余計な想像を作り出した。なんでもない。この家には私しかいないのだから。一目確かめればいい。確かめてこの不安をなくしてしまおう。

 足先から冷えていく感覚とドクドクと不安に打ち鳴らされる心臓の音が混ざり合う。

 大丈夫。大丈夫。自分に言い聞かせながら隙間に顔を近づける。ポタ、と髪の先から廊下に雫が落ちる。リビングの入り口には見慣れた黒いリュックがあった。薄く流れてきたテレビの音に気づき、「あれ、お兄ちゃん?」と声が弾んだのは、しっかりと部屋の中を確かめる前に扉を開け放ったのは、ひとりではなかったという安心感からだった。

「今日塾じゃな」

 最後まで言えなかったのは、ビックリしたから。

 本当にそれだけだった。

 それだけだったのに。

 重なっていた輪郭がふたつに分かれ、振り返った兄が一瞬息を飲み込んだ。

千映ちえ……」

 向けられた視線が不安に揺れていて。怯えているような色にも見えて。何より窺うように呼んだ私の名前が気に入らなくて。

「……気持ち悪い」

 思ってもいない言葉がこぼれた時には遅かった。ソファに座ったまま向けられたふたつの視線に耐えきれず、私は逃げ出した。二階にある自分の部屋に駆け込んで、濡れた服のままベッドに潜る。着替えなきゃ、とか。このままだと風邪をひく、とか。そんなことはもうどうでもよくて。今見た光景を忘れたくて、なかったことにしたくて固く瞼を閉じた。

 それから三日間、風邪で寝込んだ私は私以外の家族の間で起きた出来事を知ることができなかった。もし風邪をひかなかったら。逃げ出さなかったら。兄に「本当はあんなこと思ってないよ。驚いただけだよ」と笑って言えていたなら、こんなことにはならなかっただろう。

 玄関で見送ってくれた母に「千映は……千映は大丈夫よね?」と不安げな顔をされることもきっとなかった。母の質問の意味にも気づかずにすんだ。咄嗟に浮かんだのはあの日の――あの雨の日の――光景。リビングに置かれたソファに座っていた兄と兄の友達の姿。

 大丈夫の意味は、きっと。

 ――千映は、お兄ちゃんとは違うわよね?

 そういうことだろう。

 兄はきっと自分から言ったのだ。

 男の人が好きなのだ、と。

 だるさの残る体を制服で包み、乾いたローファーに足を入れる。

 私は母の質問には答えず「いってきます」とドアを開けた。

 もう二年も前のことだ――。


 ***


 長方形のダイニングテーブルに並んだ三人分の食器。四脚ある椅子のうち左隣の椅子だけは二年前からしまわれたままだ。

「千映?」

 向かいに座った母の声にパッと顔を上げる。

「な、なに?」

 朝のニュース番組の声が急にはっきりと耳に届き、窓の向こうの光がカーテンをすり抜け床に影を伸ばす。物心ついた頃から変わらない、見慣れた景色。隣にある寂しさを除けば。

「ぼーっとしてるけど、具合でも悪いの?」

「え、あ、ううん。ちょっと緊張してるだけ」

 小さく笑ってから置かれた箸を手に取る。左手で持ち上げたお椀から上る柔らかな湯気がレンズに触れる。今日は野菜と卵の具沢山お味噌汁らしい。細く切られたニンジンのオレンジ色が水面から顔を覗かせている。

「今日から高校生だもんね」

 春キャベツの鮮やかな黄緑色を箸で掬う。卵の白身を絡めたまま口に運べば、まだ少し熱すぎた。舌の先が痺れたが、構わず奥歯で噛みしめる。広がった野菜の甘さに、寂しさを残す胸がじんわりと温かくなる。

「部活には入るのか?」

 左斜め前から聞こえた声に視線を向ければ、食後のコーヒーを飲んでいた父と目が合った。銀色のフレームの奥で黒く細められた瞳。その水面に後悔や申し訳なさのような色を感じるのは気のせいだろうか。

「うーん。どうだろう。まだ何も決めてない」

「そうか」

 カタン、と置かれたカップの底が音を立てる。ごちそうさま、と手を合わせた父に合わせて、母が立ち上がる。食器を下げる母と、洗面所へと向かう父。十分後には玄関で父を見送る私と母。変わらない朝の景色。変わらない習慣。

 兄がいなくなっても、私たち家族は変わらない。変わらないように振舞っている。

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