第9話
再び駅前にハバトが姿を現したのは日が完全に沈み、くたびれた会社員たちが帰路に着こうとする頃だった。
日中の暑さがまだ冷めずもわりとした空気の中、異様な服装をしながらも美しく涼しい顔で駅前を散策するハバトは皆の目を引いた。
けれどこれもハバトからすれば想定済みのことだ。
今までの経験から自分が特別人の目を引く容姿をしいることは彼自身が一番よくわかっていた。
本当に貝沼裕作が考える通りの人物ならきっと声をかけてくるそう考えていた。
だが勿論ここにいるのは貝沼だけではない、他の有象無象の者たちも光に惹かれる虫の様にハバトの元へ群がってくる。
とはいえそれらの方々には用がないので、丁重にお誘いをお断りして帰っていただく。
良識ある方々は自身が学生だと教えると気まずそうに去ってくれたが、そうでない人を撒くのは少々時間がかかり、時刻はあっという間に22時を回ろうとしていた。
今日はもう会えないかもしれないと諦めかけた時、艶かしいネオンが光るスナックから探していた人物が現れた。
ネットで見た画像より随分ふけているが野生動物を思わせる様なギラギラとした目にバターでも塗った様な脂ぎった肌、身長はハバトよりも頭一つぶんほど高い、間違いなく貝沼裕作であった。
ずいぶんお酒を飲んでいるのだろう、その足取りは不安定で支えがなければ杉にも倒れそうだ。
ハバトはそれを好機と見てすぐに駆け寄った。
「危ない。大丈夫ですか?」
さっと胸元を支え、下から覗き見るようにハバトは貝沼裕作に接触をした。
「なぁんだ?」
助けたというのに貝沼裕作はハバトに対して非常に不愉快そうな声を上げる。
どうやら助けられたのではなく、ぶつかって来たと勘違いをしている様だ。
しかしその不愉快そうな顔をハバトの姿を認識するなり反転するかの様に下卑た笑みを見せた。
「おお、どうした?こんな時間にこんな若い子が」
言葉と共に耐え難いほどのアルコール臭がハバトに向かい漂ってきるが、そんな不愉快さなど一切見せず彼は涼しい顔をする。
「貝沼裕作さんですよね?貴方に話があるんです。少しいいですか?」
尋ねながらハバトはポケットからスマホを取り出し鏡谷麻希とのツーショット写真を見せつける。
同時に貝沼裕作の顔からは一瞬笑みが消え再び元の顔に戻る。
「ああ〜なるほどなぁ。君アレか、麻希ちゃんの友達か?」
「話、良いですよね?」
改めて尋ねると貝沼は快く頷いてみせる。
「いいとも。けどここじゃ人が多い。少し先に車止めてあるんだ、そこで話そうか?」
鍵を見せつけながら笑う貝沼からは人の心が理解できないハバトを持ってしても気付ける悪意が満ちていた。
貝沼裕作が車を停めていたのは駅前の駐車場は居酒屋やシティーホテルこそあれど街灯はまばらにしかなく、平日ということもあり車もまばらにしかなかった。
そんな薄暗いどこか哀愁漂う駐車場に似つかわしくない漆黒の高級そうな車。
「さぁ入って」
その車が貝沼裕作のものだあったのだが、この場所の雰囲気にも貝沼という男にも全てがミスマッチしていた。
そんな車の助手席にハバトは大人しく乗り込んだ。
と同時に車の鍵がかかる。
しかしハバトは不安そうな表情など一切見せず再び鏡谷麻希の斜視を見せる。
「この人知ってますよね?」
写真を見ると貝沼はフンと鼻で笑う。
「さてな?よく覚えてねぇな、この女がどうした?」
先程の名前を自ら出したことを忘れているのか、貝沼はそうしらばっくれた。
「先日、自殺しました。遺書に貴方の名前が書かれてたんです。心当たりありますよね」
念を押し尋ねるがそれでも貝沼はフンと鼻を鳴らす。
「だからしらねぇって。そんな女。俺の名前だって何かの間違いだろ。そんな事より男の車にホイホイ乗ってきて君俺に気があるんだろう?」
どういう思考回路をもてばそんな結論に理解に苦しむが、こうやって自身に迫る男を見てハバトは確信をした、鏡谷麻希もこうして襲われたのだろうと。
悲しい事だが、この人間は改心などしていないのだろう。
つまり未だ人間ではなくケダモノのままだという事。
このままコレを放置すると間違いなく他人を不幸にし自身も不幸になってしまう。
そんな絶望から助け出すのがハバトに出来ること。
「僕が貴方を救うよ」
そう呟くと同時にハバトは迫り来る貝沼に向け弾丸のような速さで手を伸ばしその首を締め上げた。
人間の力とは思えない力で首を締め上げられた貝沼は瞬時に白目を剥きその意識を刈り取られる。
恐らく一体何が起きたのか本人は最後の瞬間まで何も分からなかっただろう。
それほどの早技だった。
そしてハバトはそのまま力をさらにかけまるで小枝でもおる様に簡単に貝沼の首の骨を折ってしまった。
そして5秒前まで生きていた男の死体を後部座席へ押し込むと自身が運転席へ移動しエンジンをかけ車を発進させた。
車の運転など勿論ハバトは初めてだが目的場所までは問題なく到着することができた。
初めての運転に緊張はなかった。
無免許運転も後部座席に死体が転がっておることもハバトにとっては些細なことでしかなく不安要素になり得ないものだった。
車を運んだのは自身の家近くの空き地。
駅前からはおおよそ車で十分ほどの距離ある場所である。
ここへ運んだ理由はこの車から自身の証拠を消すための道具を家から運ぶのに都合が良かったからだ。
証拠なんてほとんど残るはずがないがそれでも可能性がゼロではない、すぐに布巾や箒を家から運ぶと車の清掃を始めた。
人気がないとはいえ今は静まった夜、音には最新の注意を払う。
掃除機を使用しなかったのもその為である。
結局念には念をと細かくしているとあっという間に1時間半が経過した。
後はこのままこの場を立ち去ればいいだけとハバトは家に向かおうとして空き地の入り口付近で地に根が生えた様にピタリとその足を止めた。
彼の目に映るのは人よけのために貼られた有刺鉄線
彼はその有刺鉄線に惹きつかれる様に歩み寄りおもむろに手をかけると素手で有刺鉄線を引きちぎった。
それこそ壁に伸びた蔦を引きちぎる様に簡単に、鋭く尖った有刺鉄線を素手で触ったというのに彼の手には血どころか傷ひとつなく痛みも当然なかった。
ハバトはその有刺鉄線を手に再び車に戻るとトランクを開けそこに貝沼裕作の死体を詰め込み、有刺鉄線で両手をぐるぐる巻きにしその両手を胸元へ運んだ。
それこそさながら神に祈りを捧げる様に。
トランクに詰め込まれ手を組むその姿はまるで棺桶に入った仏様にも見える。
その出来にハバトは満足そうに頷いた。
コレでこの男がこれ以上人を傷つけることは無くなり、この男も価値のない生に終わりを告げることが出来た。
自分は生に苦しむ人を救うことが出来たのだとハバトは自信を持つことが出来た。
やはり真の救いは死にしかない。
死こそが全ての苦しみからとき放てる救い。
だからその死に様は安らかにと手を組ませ穏やかな死に様を演出してみせた。
それはまるで自らが生み出した一つの作品の様でハバトは生まれて初めて達成感というものを胸に抱いた。
ああやはり自分は死という救いを生に苦しむ人たちに与えるために存在しているのだとそう確信できた。
ならばもっと迅速に動きもっと多くの人々を救わなければ。
多くの人々を苦しみから解放しよう、その想いがこれから続く連続殺人にハバトを走らせてしまったのだった。
数町健永の葬儀には多くの警察時関係者が参列をした。
誰も彼もが険しい顔で線香をあげる、涙を流すものはいない。
彼らの顔に浮かぶのは悲しみというより怒りの表情だ。
数町健永は交番勤務の刑事では珍しく上層部とも繋がりを持つ稀有な存在だった。
そんな彼を情報部は重宝し部下たちはそんな彼を頼りにしていた。
そんな彼の無惨な死にここに集まる多くのものが悲しみより怒りを滲ませていた。
例外は数人。
そのうちの一人が勝木伸之だった。
彼は社会人になった際スーツと共に買った喪服をこの日初めておろした。
着慣れない服はどこか固く有り体に言えば彼に似合っていなかった。
そんな伸之はどこか泳ぐ様な目で数町健永の遺影やその周囲の花々に目線を向ける。
つい数日まで自身の上司として口うるさく説教をしてきた男はもういない。
花々に囲まれた棺桶が開かれることはない。
数町健永の遺体は火災でひどく損傷しているらしく伸之がかつての上司の最期の姿を見ることは叶わなかった。
故に彼が死んでしまったという実感がどうしても伸之には湧かなかった。
そして何よりも数町健永の死よりも、彼と同じ様に死んだ友人と想いを寄せていたその妹の死が何よりも信じられなかった。
まるで悪夢の中にいるかの様な現実味のなさ。
全てが夢であってほしいと伸之は斎場の中一人強く目を瞑った。
数町健永が殺害された、その一報が伝達されたのは2日前の深夜の事。
始まりは殺人の通報では無く、火災の消防への通報だった。
葉鳩の屋敷が燃えている。
その通報を受け現場を訪れた隊員達はその光景に立ち尽くしたという。
消防が到着した頃火の手はすでに屋敷全面に回り3階建ての建物はまるで火の壁の様に見えたという。
まるでそこだけが昼間になったかのような強烈な業火は一晩中燃え続け、夜が明ける頃に鎮火はされたものの屋敷は消しカスのように跡形も無くなってしまった。
そしてその焼け跡から焼死体が3体見つかった。
どれも損傷が酷かったが、一体は辛うじて焼け残った組織片からそれが連絡が取れなくなっていた数町健永であるという事が判明した。
そして残り2体の遺体はその骨格から男女だということが判明し、恐らくこの家の主である葉鳩典夫紀とその妹だと判断された。
兄妹二人の死因こそわからなかったが、数町は腹部を中心に数十箇所の刺し傷が確認された事で警察は本件を殺人事件と断定、犯人は未だ不明となっている。
その日一体何があったのか伸之には想像すらできない。
あの屋敷での輝かしい思い出もその全てが炎と共に燃え尽きてしまった。
生気のない瞳で遺影を見つめる伸之、彼は程なくして警察を辞めたのだった。
将来の夢、この話題が授業で取り上げられる度に香夜はなぜ大人達はこうも子供に夢を持たせがるのだろうと思ってしまう。
香夜の夢は単純だ東洞一峰と幸せに暮らす、それ以外の夢なんて持ち合わせてはいない。
だからこそ困る、将来の夢は何かと聞かれたとき。
午後のホームルーム、雲の切れ間から差し込む日差しは微かに春の訪れを感じさせる。
昼食も終えお腹も満たされた後のこの環境、自然と瞼も重くなる中、担任の近藤幸之助はクラス皆にA3の紙を回す。
特に説明もないままの配られる用紙、なんだかめんどくさい予感が香夜によぎり手持ちに来た紙を見て予感的中だとゲンナリした顔を見せる。
「紙は全員に行き渡ったか?今からその紙に自分たちの将来の夢とその理由そしてどうやってその夢を叶えるかを教えてくれ」
殴りたくなるほど清々しい素敵な笑顔で説明する教師に香夜は早速不満を抱く。
なぜそんな事を赤の他人に教えなければいけないのかと。
そして何よりも香夜には将来の夢というものが無かった憧れの職業もなければ、特定の道を極めようという活力もない。
社会に貢献しようとも誰かの手助けをしたいという気持ちもない。
かと言ってこき使われる仕事も性に合わない。
5分ほど考えるがやはり良い考えは思い浮かばない。
考えるのも飽きてくるくるとペンを回しながら心地よい日差しが差し込む空を窓から眺める。
晴天ではないが僅かな雲が太陽の光を阻害し居心地の良い暖かさを醸し出している。
空には鳥が二羽、アレはスズメだろうか?
なんとも長閑な風景が流れている。
そんな長閑な時間の中未来について語り合う子供達、なんと平和で呑気な日々だろう。
同じ時刻世界のどこかでは戦争や殺人、病や事故と多くの人が命を失っているのが信じられないほどここは死とは無縁の居場所だった。
今日もあの人は人を殺しているのだろうか?
香夜の思うあの人というのは祈り殺人事件の犯人のことである。
未だ正体不明の連続殺人鬼、その犠牲者は今や50人に届くだろうと言われているこの国始まって以来の犯罪者。
もはやどこか都市伝説と半ばかしているこの殺人鬼の正体におそらく自分は気づいてしまったと香夜は思っている。
皆が知らない事実を知りそれを話したいという優越感と知ってはならない事を知ってしまったという危機感を同時に覚える。
それにこの考えが本当に正しいのかも確認も取りたい。
となれば話を聞いてもらうにが一番だと香夜は昨夜、東洞一峰に連絡を取り今日に放課後に会う約束を取り付けた。
しかし実際、自分の考えを聞いてもらうというのはほとんど建前で、実際は会う口実に使わさせてもらってる感はある。
香夜からすれば目に見えない危機より目の前の恋の方がはるかに大事なのだろう。
授業を終え帰宅途中に東洞一峰の家へ寄り道をする香夜。
こうして彼の家を訪れるのは正月以来のことだ。
あの日は勉強だったとはいえ長い時間二人っきりで幸せだったなぁと思い出を振り返り香夜はうっとりする。
春の訪れを感じさせる季節になったとはいえ、まだ息は白く冬もまだ去っていない事を主張してくる。
この寒さにスカートは寒く香夜は早く着くためと体を温めるのも兼ねて駆け足で一峰の自宅へと向かう。
タッタッタと跳ねるように走る香夜その速さはまるで50メートル走でもするかのような勢いで周りの人はこの子は一体何をそんなに急いでいるのかと目を向けるが、本人はそんな視線一切気にする素振りもなく歩道を走り抜ける。
元々運動神経も体力も人並み以上にある香夜は走ることが苦手ではない。
それに走る時に見える風景、前方の風景がどんどんと流れる光景も好きだった。
世界が早送りになってるみたいで楽しかった。
そうしているとあっという間に目的地の一峰の家へ到着する。
東洞一峰の家は診療所も兼ねた自宅兼職場で、3階建ての建物の一階を診療所、そして二階三階を自室として活用している。
診療所が開いているときは一階の入り口を活用するのだが、ガラス張りのドアに掲げられた札を見ると休診中の文字が掲げられている。
ガラスドアも白いカーテンで覆われ中が確認できない。
どうやら今日は休診日のようだ。
このいい加減な診療所は東洞一峰の気分で診察をするのでいつが休診日なのかはこうして実際訪れないとわからない。
香夜は一度診療所の入り口前で立ち止まり呼吸を整え、ガラス張りのドアを鏡代わりに髪を整える。
ちょいちょいと指先で髪をまとめると外付けの階段を上りその先にある玄関のチャイムを鳴らす。
大体10秒ほど経ったところで扉が開き無精髭に眠気まなこの東洞一峰が目を擦りながら顔を出した。
「先生、こんな時間まで寝てたんですか?」
時刻は午後6時前、昼寝にしては寝過ぎな時間に香夜は少々呆れた声を出す。
「こんにちは香夜くん。いや、色々まとめる資料があってね。昨日は徹夜で昼間にやっと寝付けたんだ」
夕日が眩しいのか一峰は仕切りに目を擦る。
そんな一峰の手を香夜は抑えて止める。
「目、赤くなっちゃう。眠いなら日を変えようか?」
そう尋ねる香夜に一峰は首を振る。
「いや、今日話そう。何か気づいたんだろ?あの事件について」
入りなさいと促す一峰はどこか急いでいるように感じられる。
ここでもしかしたら自分は本当に危ない事に首を突っ込んでしまったのかもしれないと少し香夜も肌で感じ始めた。
「コーヒー入れるが飲むかい?」
部屋に入るなり暖房の熱気がむわっと顔にかかり香夜は不快そうに顔を顰める。
「いらない。それよりジュースとかない?こんな暑い部屋じゃ喉乾くよ。先生、暖房の何度にしてるの?」
上着やマフラーを脱ぎソファーに置きながら尋ねると一峰は首を振る。
「あいにく甘い飲み物は苦手でね。あとは水とお茶くらいしかないね」
「じゃあ良いや。うわ〜設定温度25度もしてるじゃん。先生って寒がり?」
壁際立てかけられたエアコンのリモコンに表示された設定温度を見て香夜は信じられないと驚きの声をあげる。
居候の身で電気代を気にしてるという理由もあるが、香夜は元々暑さにも寒さにも強い体質で普段からエアコンはあまり使用しない。
だからいざエアコンのついた場所に来ると大体暑かったり寒かったり感じてしまうのだ。
「仕事柄、エアコン環境に慣れてしまってね。もうこれなしでは生きていけないね」
ははと笑いながら一峰は入れ立てのコーヒーを片手にソファーに腰を下ろす。
香夜もすかさずその横にちょこんと腰を下ろした。
「それで香夜くんは事件について調べてたらしいけどもしかして日和くんの事まで知っちゃったのかな?」
コーヒーを一口啜ると一峰は早速本題に斬りかかる。
しかも尋ねてはいるが、個人名まで出す聞き方からしてもう香夜がもうどこまで知り得てるのか把握したいるようだ。
責めるわけでも無くただ穏やかに尋ねる一峰の全てを知るような眼差しに香夜はドキリと胸がときめく。
「うん。先生がその話からするって事は私の考える真相は正しいって事かな?でもびっくりした、なんで私がどこまで知ってるかわかったの?」
本来ならまず相手がどこまで情報を得ているのか、それを尋ねるべきなのに一峰はそれを通り越して相手がどこまで知っているのか見抜いていた。
この人は読心術でも使えるのかと香夜は疑ってしまう。
しかし心の内を読まれて興奮気味な香夜に対し
一峰は大した事じゃないと香夜を落ち着かせる。
「香夜くんだからわかっただけだよ。君はスイッチが入ったらとことん突き詰める性格だからね、この手に話決して中途半端な状態で他人に
話をするとは思わなかった。だから僕に話を聞かせたいと言った時点で真相にたどり着いたんだと予測しただけだよ。にしても流石だ日和くんにたどり着くなんて。彼にたどり着けたのは君で二人目だよ」
「一人目は央華ちゃん?」
自分がたどり着いた事だ、事件について調べていて尚且つ南風日和の肉親として思いも強いだろうあの央華が真相にたどり着けないわけがない。
央華も全てを知ったうえでその事実を隠してる香夜はそう考え一峰が頷いた事でそれは肯定された。
「ねぇ先生、一応確認させて。祈り殺人事件あの連続殺人の犯人って南風日和なんだよね」
香夜の問いに一峰は万感の思いを込めるように目を閉じ深いため息の後、とても小さな声で「そうだ」と認めたくない事実を口にした。
「そっか。あのさ先生は南風日和に会ってるよね?」
じゃなきゃこんな眉を寄せて困ったような顔はしないだろ。
本人が気づいているかどうかは知らないが一峰は完全に身内贔屓するタイプで他人に対しては案外淡白だったりする。
そんな一峰がここまで顔に感情を出すという事はそれなりに親交があった人物だったのだろうと香夜は推測する。
「ああ、会ってるよ。最後にあったのは今から
8年前、彼が自身の家を燃やした直後だった」
その日のことはどうしても忘れることができない記憶として一峰の脳裏に今も焼き付いている。
燃え尽きる屋敷、暗い夜空を背景に美しい少年はこの場を支配する皇帝のように余裕に満ち溢れた笑みで一峰と対峙していた。
狂気に満ちた光景なのに今でも思い起こせるその少年、南風日和はどこか神々しささえ漂う神秘的な存在に一峰の目には映ったのであった。
葉鳩家に東洞一峰が向かうのは葉鳩健吾、聖美夫妻の葬儀以来実に3年ぶりのことだった。
元々、京都に住む一峰が大分の葉鳩家へ出向くことは少なかったが、それでも夫妻が健在の時は年に2度ほどは顔を出していた。
それというのも葉鳩家に引き取られた南風家の長男である南風日和、存在が気になっていたからだ。
日和は生まれてすぐに親元から引き離され葉鳩家へ引き取られた。
それというのも彼の父、南風飛彩には決められた許嫁がいたそれが央華の母、愛染時能里佳である。
愛染時能里佳は飛彩の死後後を追い亡くなってしまい、央華は母親の実家に引き取られるのだが日和はそれよりも前に姉夫婦の元へ引き取られることとなる。
名家であった南風家、その長男の第一子しかも男児となれば跡取り筆頭本来なら養子に出される事などないはずなのだが日和の場合はその出生に問題があった。
日和は飛彩がまだ愛染時能里佳と婚約を結ぶ前にどこの誰かもわからない女との間に作った子供だった。
相手が誰なのかは飛彩は決して口にすること無く最期まで分からなかった。
ただその人物も既に亡くなっている事を一度だけ一峰は飛彩から聞いたことがあった。
相手の忘れ形見である日和を飛彩は自らの手で育てる事を望んだが、当時飛彩は20歳。
子育てに年齢は関係ないが人生経験が足らない事と何より許嫁ではない女と作った子供を育てる事を親族はするさなかった。
結果、飛彩の姉で既に葉鳩家に嫁ぎ子育ての経験もある聖美が日和を引き取る事となった。
しかしこの決断、一峰は一抹の不安を覚える。
聖美は最初の出産の際の無理がたたって二度と子供を産むことができない体になってしまった。
そんな彼女が子供を引き取る、それはただの善意だったのか?
その真意が気になった一峰は数年後、日和の5歳の誕生日に初めて葉鳩家へ訪れ我が目を疑った。
一峰が通されたのは葉鳩家自慢の薔薇園。
まるで白い画用紙に様々な色のペンキをぶちまけたかのような鮮やかながらも混沌としどこかおどろおどろしい空間で茶会を楽しむのは四人の家族。
私服だというのおい髪から爪先までピシリと整えられた紳士的な男性は父。
上品な笑みを浮かべ、淑女としての気品に満ちた母。
子供ながら利発そうな表情を見せながらも時折見せる子供らしい笑顔が魅力的な息子。
そして、他の家族と比べても一線越え神々しささえ感じられる美しさを持つ娘。
一見それは誰みが羨む理想的な家族、しかし一峰はエゴに満ちた偽りの幸せに吐き気すら感じてしまう。
彼が釘付けになるのは子供のものとは違う母と、同じような微笑を見せる少女。
一眼見て悟ってしまったあの子が南風日和だという事を。
肩まで伸びた髪にピンクのリボン、フリルのついたピンクのワンピースといかにも可愛らしい少女の姿をしているがその顔にはかつての面影があった。
生まれながらにして完成された美、赤ん坊時の時からそう思わせられた存在たとえ女装をしていようと一峰に見抜けないはずがない。
そして見抜くと同時に察してしまった、葉鳩聖美がなぜ日和を引き取ったのか。
聖美が女児を欲していたその事を一峰が知ったのは彼女自身の告白だった。
最初の出産以降子供を作れない体になってしまった彼女はそれでもなんとかならないかと切実な思いを打ち明けらられた。
どうしても女の子供が欲しい、なんとかならないかと詰め寄る彼女に一峰は首を振る。
次はない、無理をすれば貴方が死ぬだけだ。
そう言葉を濁すことなく率直に伝えた。
その方が変に希望を持たすよりと良いと考えたからだ。
あの時の聖美の顔を思い出すと一峰は今も背中に悪寒が走る。
怒りなどそんなわかりやすい感情ではない。
絶望と怨み哀しみと狂気あらゆる黒い感情が渦のように入り混じった聖美は中身が飛び出しそうな程ひん剥いた表情で一峰を一瞥していた。
あの後彼女は何も言わず帰って行ったが、正直その日は一日中生きた心地がしなかった。
いつか彼女に殺されるのでは?
当時は本気で一峰は聖美を恐れた。
だがそんな聖美も日和を引き取ることが決まってからは落ち着きを取り戻した、女児ではなかったが新たな家族が彼女の心に平穏を戻すことができたそう思っていたが。
まさか養子に女装をさせ女として育てる事で己が欲と願いを処理していたとは一峰も考えはしなかった。
本来ならこのような過ち他の家族が止めるべきだろう。
だが聖美がそれで満足ならと誰もがこの異常を見て見ぬ振りをした。
夫もそして息子も家政婦も誰もが聖美は以上だと認識した上で日和を助けようとしなかった。
夫はもはやその様な異常者に関わりたくないとでもいう様に家に寄り付かなくなり、息子は異様な様子の母を恐れ何も言えなかった。
家政婦は日和の事を気にはかけていた様だが、所詮は雇われている身、主人の意向には逆らえないといった様子だった。
その代償として負債を背負うのは他ならぬ日和だ。
5歳の少年にそれはあまりに酷というもの。
少しでも日和の味方になれたらと大分に長期間滞在する事を決めその間は足繁く葉鳩家に通った。
その甲斐あってか、一峰は日和とも親しくなれた。
そしてその度に見た少女のように振る舞う少年の痛々しい姿を。
そんな日々が続き児童虐待として声を上げようとした一峰を止めたのは他ならぬ日和だった。
「ありがとう。僕のために動こうとしてくれて。でもどんな格好をしてても僕が僕であることに変わりはないから先生もほっといて、それでこの家族が幸せなら僕はそれでいいんだよ」
二人っきりの空間で日和は強がるわけでもなくそう答えた。
古びたベッドしかないここは日和に与えられた自室というには殺風景な彼の部屋。
あるのは本当にベッドだけで窓すらないここは部屋というより牢獄のように一峰には見えた。
日和はいつも女の子らしい可愛い服を着ているがそれも毎朝、聖美が用意するものらしく服の類もこの場所にはない。
自由なんてかけらもない暮らし。
もっと普通の暮らしがある一峰が何度説得しても日和はここから逃げたいとは言わなかった。
むしろ「普通の暮らしか、興味ないね」そう否定されてしまった。
結果として一峰は日和を葉鳩家から引き離すことができず大分を去る事となってしまった。
それからも年に幾度かは日和の様子を見に一峰は度々葉鳩家を訪れた。
そして会うたびに美しく成長する日和に一峰は心苦しさを感じていた。
そんな月日にも転機は訪れる。
その一つが彼の父、飛彩の死だろう。
飛彩が亡くなったのは日和の誕生日の2日後のことだった。
危篤状態になった彼を見送るために南風家からようやく許可が降り赤ん坊の時以来の親子の再会は1時間後、飛彩の死をもって終わりを告げる。
最期の1時間日和は何を語るわけもなくただ黙って飛彩を見守り続けた。
その様はまるで聖母のようで、だからこそ日和が男だと知る他の者たちは彼を悍ましい目で見ていた。
そしてそれは葬儀の時も変わらない。
葬儀に女性用の喪服で現れた日和を本家のもの達は穢らわしいと邪険に扱い実の息子だというのに彼は結局葬儀に参列することさえ許されることはなかった。
日和はその日のうちに遺品の腕時計だけ譲り受け再び葉鳩家へ戻って行った。
次の転機はその一年後彼が14の頃。
それが葉鳩健吾、聖美夫妻が亡くった事件だった。
不倫の末の無理心中だと一峰は聞いた。
家に火が放たれ夫妻は共に亡くなったが子供達は助かったと。
詳細も分からぬうちに家を飛び出し北九州空港に降り立った一峰を出迎えたのは、意気消沈とやつれた顔で俯く夫妻の一人息子、典夫紀とまるで何事もないように「長旅お疲れ様」と優しく迎え入れてくれた日和そして仏頂面の葉鳩家に使える家政婦だった。
「こんな大変な時にわざわざ来てくれたのかい?」
驚きの声を上げた一峰を日和はふふと笑う。
「せっかく先生が来てくれたんですよ。誰も迎えに着ないなんて失礼できないです」
その心遣いは素晴らしいがまるでいつもと変わらない日和の態度に一峰は初めて空恐ろしさを感じた。
そしてこの時の訪問を最後に一峰は今日まで葉鳩家に訪れることはなくなった。
理由は二つあった。
一つは葉鳩聖美が死んだからである。
聖美が死んだ以上、日和にあのような無理をさせるものはいなくなった。
聖美の息子の典夫紀も日和を助けられないことに内心罪悪感を抱いていた事を一峰は気づいていた。
決して日和を悪いようには彼ならばしないだろう。
そして二つ目の理由それは、日和に対する疑念だった。
仮にも家族として過ごした人物たちが死んだというのにあの日の日和はどこまでも普段通りだった。
自身が犠牲になってまで幸せを望んだ家族の死を悲しむわけでもなく、自身からあらゆる自由を奪った叔母の死を喜ぶわけでもなく彼は今まで通りの日和だった。
それはつまり彼にとって身内の死でさえただの日常と受け入れられる程度の事にほかならない。
それは人間としてあまりにも異常。
おそらくあの軟禁生活が影響しているのだろうけれど、この結末は日和を救い出せなかった自分の罪でもあると一峰は感じそしてその現実から目を逸らすように葉鳩家への来訪をピタリと辞めたのだった。
それから三年何の音沙汰もなかった日和から電話がかかったには先日のこと。
一峰が仕事の都合で別府市に訪れた時に連絡が来たのはたまたまだと思いたい。
電話に内容は典夫紀の体調不良を見てほしいというもので3年ぶりの日和の声は17歳の少年とは思えない可愛らしい声をしていた。
突然の連絡、しかしあれから日和がどうなったのか気にならないと言えば嘘となる。
一峰は二人返事で明日予定が合えば向かおうと約束をした。
結論から言えば典夫紀は体調不良の原因はストレス性のものだったが彼は酷く憔悴しておりその原因が一峰は気になった。
そしてもう一つ気になったのは日和の格好だった。
「先生、今日はありがとう。典夫紀もだいぶん落ち着いたみたいだね」
再会の挨拶と感謝の印として深々とお辞儀をする日和。
顔を上げると首元まで伸びた漆黒の髪が揺れた。
ぱっちりとした猫を思わせる大きな瞳はこう見ると妹の央華ともよく似ていると一峰は思う。
兄妹揃って浮世絵離れした美しさは満天の夜空ように神秘的である。
添えこそ人の容姿に拘りにない一峰も素直に美形だと認めてしまうほどに。
そんな日和は3年前と変わらず女装をしていた。
白の長袖シャツに黒のVネックワンピースを着飾るその姿は誰がどう見ても絶世の美少女。
おまけに胸部を見ると何か詰め物をしているのか胸まで見事に再現しており誰もこの人物が男だとは夢にも思わないだろう。
「なぜ、まだ女装を?」
一峰がそう尋ねると日和は「コレが僕らしい姿だからかな?」と本人も明確な理由はないのかそう曖昧そうに答えた。
聞けば日和は三年前とそう変わらない生活を送っているという。
学校には通っているが、ほとんどが在宅授業で登校は月に一度ほど。
外出も殆どすることがなく1日のほとんどを自室で過ごしているという。
結局聖美が無くなろうと彼の生活は変わらなかったといい現実それがもしかしたら典夫紀のストレスになっているのだろうか?
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