第7話
野々咲尋美はその鉄仮面の様に固い無表情の裏で焦燥感に駆られていた。
先程突然現れた数町という刑事、あんな奴がいずれ現れる事は野々咲も想像は出来ていた。
野々咲は数町という刑事の顔を思い浮かべる。
枯れた様に艶のない白髪混じりの髪からは手入れなど一切感じられない。
恐らく風呂にも何日も入っていないのだろう。
近くにいると鼻に突き刺さる様な酸っぱい不愉快な匂いが漂ってきた。
けれど野々咲にとって何より不快だったのは、あの男の視線だった。
一つの動作すら見逃すまいとする様に全身を観察するかの様な視線。
そのムカデが這う様な視線に野々咲は悍ましさを感じずにはいられなかった。
何かしら自分たちの事を疑っているのは間違いない疑惑の視線。
本来ならこの様な視線どころか警察などに目をつけられる事など無いはずだった、それが狂い出したのは野々咲の主人である葉鳩典夫紀が勝木という新人刑事と交友を持つ様になってからだと野々咲は思ってる。
最初、勝木を家に招待した時いったい葉鳩様は何を考えていらっしゃっているのだろうと野々咲は己が主人の正気を疑ったものだ。
それでも最初のうちは自分でも考えないような思惑があるものだと考えていたがこれまでの様子を見るにそれも期待できないと今は思っている。
はたから見てとれる2人は正しいく友人関係にあった。
なぜ警察なんかと、そう愚痴をもう1人の主人に漏らした事があった。
けれど不安げな野々咲に自分より幼い主は「人の交友関係に他人が口出しすべきじゃないよ。典夫紀さんだって友達くらい作りますよそれがたまたま警察だったというだけでしょ」何も問題ないという様な口ぶりなぜその様な事が言えるのか、野々咲は呆れを通り越し恐怖を覚える。
なんて危機感のない人達なのだろうかと、この人たちは己の状況がわかっているのか?
ここは自分がこの家族を守らなければ野々咲がそう決意をしてそうそうに数町という刑事が現れた。
それこそ野々咲の覚悟の程を見届けようと神が使わした試練の様に。
葉鳩典夫紀は野々咲尋美という女性を見誤っていたのかも知れない。
痛いほどに引かれる右手の感触を通して典夫紀は己の認識を改めていた。
野々咲尋美、彼女は良い意味でも悪い意味でも機械の様な存在だった。
言われた事は忠実に完璧にこなす家政婦の鏡の様な存在。
そこに感情が挟まないのだろう、どの様な指示も二つ返事で忠実にこなしてきた。
それに反する様に彼女が自身の感情で動くことはまるでなかった。
たまの休日も自室に閉じこもり寝ているだけだと以前典夫紀は聞いた事があった。
余計なお世話だと承知で遊びに誘ったこともあったが命令ならば行きますという寂しい返答だった。
そんな彼女がまさか話の途中で手を取りその場からつらですなど典夫紀は夢にも思わなかった。
3分ほど歩いただろうか?
人気のない路地裏に典夫紀を連れ込んだところで野々咲は足を止めた。
「典夫紀さん。しゃべりすぎではないですか?」
それはいつも通りの無表情だから放たれる主に対して初めての否定的な言葉だった。
そんな彼女に典夫紀は「やっぱりそう思うかい?」と疲れ切った笑みを見せながら答える。
その顔で典夫紀の心中を察する事ができたのは彼女が特別人の心に敏感だからというわけではない。
むしろ野々咲はその様なことには疎い方だ。
だというのに思いを知る事ができたのはそれだけ典夫紀がもう限界だと諦めと絶望に満ちた顔をしていたからだろう。
「まさかバレても良いと思って話していたのですか?」
「警察が来たんだ。もう潮時だと思わないかい?勝木くんが家に来て数町という刑事が現れた僕はもうこれは天命だと思ってるよ、終わりにしようって神様が言ってるんだ」
「神様なんていませんよ。そんなものがいたならこの世はこんな地獄な筈がないです」
同感だと典夫紀は胸の内で賛同する。
神がいないということではなく、この世が地獄だという点にでだ。
「まったく、僕の人生なんでこんなことになってしまったのかな?」
よろよろと歩き典夫紀は路地裏の奥へと進む。
雑居ビルに囲まれて暗い路地裏を抜けるとそこは開けた広場となっており遮られていた日光の眩しさに典夫紀は目を顰める。
広場といっても正しくは建物の間の小さな空間。
すぐ先にはフェンスが敷かれ、その向こうには川が流れていた。
そのフェンスに典夫紀はもたれかかる、それはもはや自身の足で立っているのも辛いという様子だった。
「後悔しているのですか?」
後からついてきた野々咲が聞いてくる。
その問いに典夫紀は今までの己が人生を振り返り苦笑してしまう。
「後悔?そんなものあるに決まってる。こうならない道はいくつもあったはずなんだ。それなのにこんな結末をもたらしてしまった僕は本当にどうしようもない」
とうとう耐えれなくなったのかそのままフェンスを背に座り込む主の姿はかつての己に似ていると野々咲は思い起こすのだった。
野々咲尋美が己の人生に見切りをつけたのはいつの頃だっただろうか?
それは恐らく己が異常性を認識してしまった時だろう。
彼女の人生は一言で言えば灰色だった。
輝きがないというべきだろうか?
その原因は思い起こす限り自身の人生で幸せだと感じた事がなかったからだろう。
何をしてもどんな状況にあっても心が動かない。
まるで無風、学生の時も社会時になってからも心震える事はなかった。
このまま自分は一生無感動で生きていくのだろうか?
そんな生になんの意味があるのだろうか?
学生が終わり、社会人として家政婦として働き出しても答えは見つからなかった。
ただ生きるためだけに生きている、虚しい人生。
生きるのもそろそろつまらなくなってきたそう思い出した頃、あの事件は起きた。
その日のことは今もよく覚えている。
梅雨に入り夏の影が見え出した頃。
その日の天気も連日から続く雨、それもここ最近では一番ひどい刺すような大雨だった。
朝から大雨警報が各地に出る中、野々咲はいつも通り買い物へと出かけた。
大雨だとしても、別に水路などに近づかなければ大丈夫だと考えたからだ。
移動も車なので濡れる心配もない、ただ車の走行音を打ち消すほどの雨音は今まで聞いた事がない程激しいものだった。
ワイパーをハイスピードにしても視界が遮られるほどの雨量、野々咲は通い慣れた道をいつもの半分ほどのスピードで走行していた。
すでに許容量を超えているのだろう、道路は全体が巨大な水溜りのような有様になっている。
そんな中でも小学生たちは元気なもので黄色い傘を片手に横断歩道を水飛沫を上げながら歩いている。
時効は正午を少し過ぎた頃。
大雨のせいで学校が早めに終わったのだろうか?
信号待ちをしながら野々咲がぼんやりとそんな事を考えていると、それは突然起きた。
4人の小学生が横断歩道を渡る中、深緑のトラックが曲がり角から止まる事なくそのまま突っ込んできたのだ。
コレは後で分かった事だが水溜りでタイヤがスリップして制御が効かなくなったらしい。
天気が招いた不幸な事故ではあったのだが、その被害は致命的なものだった。
制御を失ったトラックはそのまま無慈悲に小学生達に喰らいかかる。
豪雨の中微かに聞こえるクラックション、驚き立ち止まる小さな子供たちはトラックに飲み込まれるように姿を消す。
周囲も時が止まるかのように凍りつく中、雨の音だけが変わらず響き渡る。
トラックは横断歩道を通過した後もなお暴走し続け、結局歩道横の電柱に激突する事でようやくその動きを止めた。
その間は恐らく10秒ほどしかなかっただろう
けれどその10秒はこの場にいたほとんどの人物にとって人生で一番強烈な体験になってしまっただろう。
それは、野々咲も例外ではない。
信号は既に青に切り替わっているが車を走らせることはなく、野々咲は扉を開けて車外に出る。
車が走らないことを咎める人はいない、誰もが同じように車外に出るか、車内から様子を伺っているからだ。
野々咲と同じように何人かが恐る恐るといった慎重な動きで事故現場へと近づく。
野々咲は雨に打たれるのも構わない様子で傘もささずにあの小学生たちが先程まで歩いていた横断歩道まで来た。
歩くたびにチャプチャプと水を踏む感触が足を伝わりじめりとした水分が靴に浸透し足を濡らす。
野々咲の足元、その横断歩道には小学生たちが散らばるように倒れておる。
誰一人としてピクリとも動かず、足はねじ切れる寸前までひん曲がっている。
皮膚が裂かれ骨が肉を突き破った腕からは大量の血液が流れ出し、野々咲の足元の水をほんのりと赤く染めていた。
驚き見開かれるその目は閉じることなどなく不自然な首の向きで一点を見据えていた。
試しに一番近くに倒れていた子供の前に屈み呼吸があるかどうかを確かめるが呼吸音は聞こえてこない。
素人目でもわかるほどの肉体の損傷、分かりきっていたことだけれどやはり命はないようだった。
他の子も恐らくは同じ結末だろう。
凄惨な結末、それを目の前にして人々はようやく我に帰る。
正義感の強いものたちは子供たちの救助や救急と警察への連絡に勤しみ、そうでない者たちは野次馬根性からか現場の光景を収めようと携帯を向ける。
そんな中救助する訳でもただ事故現場に佇む野々咲は倒れ伏せる小さな遺体を無言で見つめていた。
先程まで友達と笑い合っていた人間が今はただの肉塊と化している。
初めて間近で感じるリアルな死、それは野々咲が今までに感じる事がなかった衝撃だった。
ゾワリと脊髄を撫でられるかのような感覚、動機は早く脳にはジュワリと液が滲み出るような感覚が走る。
この感情はなんなんだろうか?
そんな疑問を感じるほど野々咲は己のことを知らないわけではない。
この痺れるような衝撃、コレは快楽だ。
自分は今子供の死体を前にして快楽を感じている。
その悍ましさに、野々咲は吐き気を催し口を手で抑える。
けれど体の拒絶反応とは裏腹に胸の内では快楽と喜びが次々と滲み出してくる。
それは野々咲にとっては生まれて初めての感覚でありその快楽は麻薬のように今の野々咲尋美という人格を塗りつぶそうとする。
目の前の死体これを踏み潰せばもっと気持ちのいい快感を味わえる、確信できる直感。
その快楽の誘惑に誘われるように野々咲は右足を上げ、その半壊した子供の顔を踏みつけようとする寸前で誘惑を断ち切るように急いで車へ引き返した。
なんとか今までの人生で培ってきた常識が彼女の欲望を押さえつける事が出来たからだ。
運転席に戻った野々咲は直ぐに扉の鍵を閉め外へ出ないよう己の体を抱き締め外へ出ないよう閉じこもる。
己を拘束するかのように肩を抱く野々咲の身体は震えていた。
雨に塗れた為ではない、快楽なんて無縁だと思っていた人生の中で初めて己の心を揺らすモノに出会えた喜びとそれが他者の死によって齎されたものだという悍ましさに恐怖したが故の震えだった。
この日、野々咲は初めて己を知った。
自身が人の死を望む死神だったという事実を。
屋敷に戻った野々咲は憔悴した典夫紀をベッドへと寝かしつけた。
精神的な消耗も勿論だが暑さにもやられたのだろう軽い熱中症の様な症状が出ていた。
エアコンを入れ部屋を涼しくし、何か飲み物でも持っていこうとキッチンへ向かおうとしたところでもう一人の主がこちらを見ているのに野々咲は気づく。
今日はどうしても学校へ行く用事があるとかで珍しく学生服に身を包んでいる。
いつものゆったりとした服装に見慣れているせいか、野々咲には随分とその格好は不自然に見える。
「体調悪くした?典夫紀さん」
いつもの様に兄さんではなく名前で呼ぶ主、けれどこの呼称は野々咲からすれば珍しいものではない。
この主は家族の事を呼ぶ時、人前とそうでない時で呼び方を変える。
一度なぜ呼び方を変えるのか聞いた事があったが「その方が関係性がわかりやすいから」と
答えていた。
それは兄に対してだけではない。
まだ夫妻が健在だった頃、その時も人前以外でこの主が夫妻を父母と呼んでいる姿を野々咲は見た事がない。
夫妻はそれを不満に思っていた様だが、客観的に見ていた野々咲は常々感じていた。
恐らくこの人は誰のことも家族だと認めていないんずないんだろうかと。
「軽い熱中症かもしれません。今お水をお持ちしようかと。医者にも連絡しましょうか?」
「それは、こちらで連絡しとくよ。ちょうど先生がこちらに来てるみたいだから」
スクールバックから携帯を取り出すとどこかへと電話かける。
先生にかけているのだろう。
先生、本名『東洞一峰』という男は特殊な体質を持つこの主を幼い頃から見てきた医者である。
普段は別の街に住んでいるのだが、今は私用のためたまたまこの街へ訪れていた。
典夫紀もまた幼い頃からこの医者に体を診て貰っていた。
今回は精神的なこともあるし確かにあの先生の方が確実かもしれないと、野々咲も納得はするがそれでも懸念は残る。
典夫紀はもう終わりを望んでいる、それはあの口ぶりからしてもう間違い無いだろう。
あの先生に己の罪を口にするとは野々咲は考えていない。
そんな誰かに罪を背負わせる様な真似あの主はしないだろうと典夫紀の人柄を知るが故の野々咲なりの信頼だった。
けれどあの刑事はどうにも油断ならないこのままだといずれ足がつくと思われる。
携帯の会話が終わったところで、野々咲は己の胸の内を主人に吐く。
「なるほど、勝木さんの上司がね」
野々咲の話を終始冷静に聞き終わった主は冷蔵庫から一口チョコをを取り出し口に投げ込むとまるで興味なさげにそう呟いた。
それは前回のと同じ様に全く危機感を感じていない言葉だった。
「不安に感じないんですか?」
野々咲が尋ねると、主はチョコのお供にだろう牛乳をグラスに注ぎながら不思議そうに首を傾げる。
「その人は自身の仕事をしているだけ。典夫紀さんが言うようにこちらのことが分かっても仕方がない事。不安がってもどうしようもないよ」
「だとしてもこのまま放置する気は私はありません」
状況を少し楽しむかの様に微笑む主に従者は表情なく真剣な面持ちでそう告げる。
その顔つきで何かを察したのだろう従者に続き主の方も真剣な顔つきに変わる。
「野々咲さん、一体何考えてるの?」
心配そうに尋ねる主に野々咲は己が決意を口にする。
「あの時の約束を果たします」
それは野々咲が己の性に気づいた日に交わした一つの約束だった。
その言葉を聞き主もあの日の事を思い起こしたのだった。
その日は朝からの大雨で外に出ることはできず暇な1日をミステリー小説などを読んだりして時間を潰していた。
今家にいるには自分1人。
典夫紀さんは会社へ向かい野々咲さんも買い物へと出かけた。
こんな災害級の大雨の中でも働かないといけないなんて社会人は大変だと2人を見ているとつくづく思う。
いつもはこうして部屋で読書をしていると誰かしらの足音が聞こえてくるが今はその様な気配はなく耳に響くのは滝の様な雨音だけ。
どれだけ雨が降っているのだろう?
そう思い閉ざされたカーテンを開くと灰色の空と雨のせいで視界の悪くなった街並みが姿を見せた。
道路を見るとすでに大きな水溜りが出来ていて近くの用水路は水が溢れんばかりに満水になっている。
不謹慎かもしれないがこういった光景は心が躍る。
この日常とは違う景色、まるで街を流さんとするばかりの勢いの雨を見るのは楽しかった。
このまま雨が止まず街全てが水の底に沈んだら、それはとても幻想的な世界が出来上がりそうだ。
そんな妄想をしていると玄関の扉が開く音が部屋まで響いてきた。
野々咲さんが帰ってきたのだろうそう思い玄関フォールに顔を出し驚いた。
そこにはまるで海にでも落ちたかの様にびしょ濡れの野々咲が力なく座り込んでいたからだ。
「どうしたの?野々咲さん!」
急いで脱衣場からバスタオルを持ってくると包み込む様にして彼女の体を拭く。
野々咲さん、確か車で出かけたはずなのになんで?
家政婦の体を雇い主が拭くなんて本来ならありえないことだが、こんな状況でそんな事は言ってられないだろう。
野々咲は何も語らずされるがままの状態、その身体は小刻みに震え、目は瞬きなどせず見開き
口角はわずかにだが上がっていた。
引き攣ったような表情、間違いなく何かがあったのだろう。
「ねぇ。本当にどうしたの?」
今度は野々咲さんの顔を支えて目をしっかりと見て聞く。
それでようやくこちらの声が届いたのか野々咲さんはゆっくりとこちらへ視点を向けた。
「人が車に敷かれたんです・・・」
そうして野々咲さんは先程の出来事を。
全て語り終わるのにどれだけ時間がかかったろう?
内容的には恐らく5分もあれば話せる程の情報だったけれど、まだまともに会話ができる状態ではない野々咲さんは結局15分ほどかけて全ての話を語り終えた。
話を聞き終える間に手をひきリビングへ連れ、着替えを持ってきてあげた。
体が温まるようにホットミルクを作っている間に着替えてくれたのだろう、2人分のミルクを温めて再びリビングに戻った時には髪以外はすっかり乾いた服に着替えていた。
流石に人の服を勝手に持ってくるのには申し訳なかったのでまだ新品の自分の服を持ってきたのだが背丈も大体同じだったのでどうやらピッタリ着れたようだ。
「はい、飲んで。落ち着くよ」
ソファーに座る野々咲にホットミルクを渡すと自分も隣に座りミルクを啜った。
温かく甘い乳白色の液体が口内に広がるとホッと息が漏れる。
息と共に日頃の疲れも体から出ていくようで落ち着く。
やっぱり甘いものは良い、なんだか心が満たされる気がする。
横目で野々咲を盗み見るとちゃんとミルクを口に運んでくれていた。
よしよしと思う。
先ほどまで震えていた体も今は収まり蒼白だった顔色もほんのりと赤みが戻ってきたようだ。
どうやら少しは落ち着ついたかな?
ミルクを彼女がもう一口飲むのを見届けたところでできるだけ静かな口調で話を切り出した。
「さっきの話なんだけど、そこまで気にしなくて良いんじゃないかな?」
さりげなく告げたつもりだったけれど、瞬間野々咲さんは驚いたようにびくりと体を震わせた。
それに構わず話をあえて続ける。
「野々咲さんは人の死に快感を感じてしまったことにシュックを受けてるみたいだけれど、人の趣向なんてそれぞれだと思うし、ましてやそれ自体は罪でもなんでもない気にすることないよ」
そこでこの先さんは大きく首を振る。
「私は殺したいと思ってしまったんです」
「でも、実際には殺してない。なら問題はないよ」
「殺すかもしれない!いや近いうち私は必ず人を殺してしまう!」
今度はこちらが驚いてしまった。
いつも物静かな野々咲さんが叫ぶなんて思ってもいなかった。
つまりそれだけ追い込まれてしまっていると言うことだろう。
「そんなに苦しんで、可哀想」
野々咲さんの方が年上だけど、その姿が不憫でつい反射的に頭を撫でてしまった。
撫でてしまった後で少し後悔する、流石の失礼だったかもと。
けれど意外なことに野々咲さんはまるで安心するかのように目を閉じる。
「一つ聞いて良いでしょうか?」
「うん、いいよ」
迷いなく即答する。
野々咲さんには今まで散々お世話になっているできる限りのことはしてあげたいし、答えてあげたい。
彼女の期待に応えられるかが問題ではない彼女の想いに真摯に受け止めるのが誠意だと思う。
彼女の一語一句も聞き逃さないように体を野々咲さんの方へ向き直る。
こちらも真剣だとこれで伝われば良いのだけれど。
「先ほども言いましたが私はこの先人を殺します。その確信が私にはあります。胸の内の衝動を抑えることができない。こんな私でも救われる権利はあるでしょうか?」
殺人は罪、しかも彼女の場合は快楽による殺意。
まだ実際行動にはうつしてはいないけれど、もし本当に罪を犯してしまったらそれは誰もが嫌悪する大罪になるだろう。
そんな人間は救いなど求めるべきではない、それが多分世間一般的な意見だろう。
けれど、自身の意見はそうじゃなかった。
「むしろ、そういった人にこそ救いは必要なんだと思う。救いって自分自身じゃどうにもできない打開できない災厄に見舞われた時に必要なものなものなんだと思うんだ」
それは今までの短い人生で得た少ない答えの一つだった。
「よく困難は乗り越えるものだなんて語る人もいるけれど、乗り越えれない困難もあると思うんだ。そんな時は誰かに助けを求めれば良い、今野々咲さんがしているように。それで全ての問題が解決するわけじゃないけれど1人で悩むよりはずっと良いよ。少なくとも貴方の救いは今、聞き留めました。野々咲さんは救われます」
救われる、それだけは自信を持ってはっきりと告げてあげた。
それにどれだけの力があったかは分からないけれどそこで野々咲さんは初めての笑顔を見せてくれた。
「ありがとうございます。約束ですよちゃんと救って下さい。そのかわり私も貴方を救いますから」
それが野々咲さんとかつて交わした約束だった。
ハバトが両親を殺害してから3ヶ月ほどの月日が流れた。
事件は無理心中という形で警察が幕を閉じてくれた。
捜査がそう向けばいいと小細工はしたけれどまさかここまで上手くいくとは思っていなかった彼が一番この結末に驚いたものだ。
まぁ運が良かったのだろう。
彼はそう納得することにした。
まさか犯行に気づいた他の身内が裏で口裏を合わせていたなどとはこの時は欠片も頭になかった。
それを知った時彼は反省をした。
まさか自分のしたことで他人に助けてもらっていたなんて考えもしなかった。
あの殺人はハバトが決意し遂行したそこに他者に意思は関わっていない。
ならば最後まで関わらせるべきではない、それが彼の考えだ。
この先も人を殺すハバトからすればそれは由々しい事態である。
このままでは無関係な人を巻き込むだけじゃなくきっと警察にも見つかってしまう。
もっと慎重に計画的に完璧な行動をしなければならない。
次はどのようにして動こうか?
最近はそんなことばかりを考えているせいか元々無口だったハバトは以前にもまして無口になる。
そんな彼の変化にいち早く気づいたのは家族ではなく彼女、鏡谷麻希だった。
その日は昼過ぎから彼女の家に訪れていた。
彼女の部屋に訪れるにはコレで5度目。
少女趣味というよりはまるで少年の部屋のような鏡谷の自室は、勉強机にベッド、本棚には少年漫画にTVにゲームが置かれている。
今日もここに訪れてから1時間ほど対戦ゲームを楽しんでいた2人だったが、ハバトが三連続で敗北をしたところで鏡谷が不満そうに口を尖らせ聞いてくる。
「ヒーくん、最近心ここに在らずって感じだよね。何か悩み事?力になれることがあるなら言ってほしんだけど」
鏡谷から見れば家族を不幸な事故で亡くした彼氏であり心配するのは当然と言えた。
まさか彼本人が殺人の実行者などとは夢にも思ってはいない。
とはいえいきなりそのようなことを尋ねられたハバトは内心驚く。
考え事は確かにしてはいたが彼女にその事を見抜かれるとは思っていなかったからだ。
彼女、鏡谷麻希はハバトから見て自己主張の塊のような女性だった。
己がしたいことに貪欲で、後のことなんて考えずとりあえず今を楽しむ享楽的な女性だった。
そんな彼女だから積極的に好意を寄せてきて、そんな彼女にハバトはいつも振り回されていた。
いつも自分のことばかり、そんな彼女が人の心配をしたのがハバトには意外だった。
どうやら僕はまだこの人のことを理解できていなかったようだとハバトは考える。
いや、そもそも誰も彼も理解し合うなんてことはできない、人は生まれて死ぬまで真には1人であるしかないのだから。
だからこそ苦しむ人に救いは必要である。
けれどこんな内容を他人に話す訳にもいかないそれでもハバトは今後の参考にでもなればと鏡谷に一つ質問をしてみることにした。
「ああ、家族のこともあってね。最近考えてしまうんだ、人が幸せでいれる方法。いや皆が幸せなんてことは難しいだろうでもせめて不幸にならない方法はないかなって」
この質問に特に深い意味はなかった。
ちょっとした雑談、話を逸らすための方便に過ぎない話題だったが鏡谷は口をへの字に曲げ珍しく真剣に考える仕草を見せてくれた。
人の考えなんてそれぞれ、別に答えを持ち合わせていないのならばそれでも良かったのだけれど、こうも真剣に考えられたらハバトの方も黙って見守ろうと思ってしまう。
結局口を開いても鏡谷の気難しそうな表情が緩まることはなかった。
それは自身の真理となるような答えを見つけれなかったからである。
けれどその答えはハバトにまた新たな信念を与えることとなった。
「どうだろう?不幸にならない方法なんてそれこそみんなが幸せになるのと同じくらい難しいことだと思う。不幸なことなんてそれこそ山のようにあるから」
そう、例えば事故や病気どれだけ気をつけようと本人の努力や認識だけではどうにもならない不幸というものがある。
それらはどうやっても消し去ることなどできない。
それこそ人智を超えたハバトであろうとも。
「でも、そんな不幸を少しでも少なくするために世の中にはルールがあるんだと思う。そのルールを破る人がいるから増える不幸ってあるんだと思うんだ、だからそんな人がいなくなれば少しは世の中変わるんじゃないかな?」
鏡谷はそう言うが、それも現実問題難しいだろう。
ルールがあれば必ずそれを破る者が現れるそれが世の常。
それを根絶するなどどれほどの時間がかかることか。
難しい事だ、でも自分なら不可能ではないのではないだろうか?
普通の人間なら不可能のことでも化け物の自分ならば可能かもしれないハバトはそう考える。
「ルールを破る人間を根絶出来れば世の中変わるだろうか?逆にそこまでしないと世の中って変わらないのかな?」
ハバトの問いに鏡谷はどう答えれば良いか戸惑ってしまう。
鏡谷からすればハバトはどうにも人に希望を持ちすぎたと思う。
人間はそんなに賢くない。
仮にハバトが言うようにルールを破る者を根絶しようとしても世の中は変わらないと思う、また新たなルール破りが現れるだけだと鏡谷は思う。
ハバトは不幸の芽さえ摘めばいつか世の中は良くなると思っているようだ。
それは彼が人の善性を心の奥では信じているからだと思うが、鏡谷は違う。
彼女は人の善性に対して懐疑的だ人は生まれながらにして悪であるいわゆるという、いわゆる性悪説を信じている。
生まれ持った悪性を人は経験により己の意思で封じているだからどんな善人であろうと、ひょんなことから悪に落ちる。
だからどうあっても人が人である限り世の中は変わらないし不幸も消えることができない、それが鏡谷の考えだ。
躊躇いつつもそれを正直に伝えるとハバトはなるほどと納得する様にコクリと頷いた。
「人はどうあっても悪だから不幸も消えないか。それが君の考えてってわけだ」
失望されただろうか?
鏡谷は彼氏の顔を恐る恐る伺うと、そこにはいつも通りの優しい微笑みがあった。
「実はね。僕は実際のところ人が悪だろうが善であろうがそんなことは全く興味ないんだよ。人にはそれぞれの考え方がある、その差がある以上は諍いが起きるのは当たり前だからね。誰かにとっての善が誰かの悪になるそんなこともあると思うんだ」
そうハバトとて全ての不幸を消そうなんてことは考えていない。
誰もが幸福なんてことはありえない。
ハバトが望むのは死でしか救われない命に安らかな終わりをもたらす事。
その魂が善であれ悪であれ死だけは平等であるから。
両親を殺したのも彼らに憎しみがあったわけではない。
絶望する彼らに死を与えることが何よりの救いだと信じたからだ。
けれど死を与え救わなければならない命は何も絶望する人々だけではない事をハバトはまもなく知ることになる。
それを教えてくれたのは他でもない鏡谷麻希だった。
この一週間後彼女は首を括り自ら命を絶ったのだった。
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