第225話 五月十三日はメイストームデー(五月の嵐の日)
「バレンタインデー」から八十八日目、「八十八夜の別れ霜」ということで、別れ話を切り出すのに最適とされる日。
二月十四日の「バレンタインデー」、三月十四日の「ホワイトデー」、四月十四日の「オレンジデー」と、十四日あたりは恋人に関連した記念日が続く。これを乗り切れば、六月十二日には「恋人の日」が待っている。
「俺達、もう別れよう。俺はもう、美紀を幸せにしてあげられる自信が無いんだ」
会社に辞表を提出した日、俺は美紀に別れを告げた。
「どうして?」
美紀は顔色も変えずにそう聞く。
「今日、会社に辞表を提出したんだ。こんな情けない男と一緒に居るのは嫌だろ?」
「……分かった。荷物をまとめて出て行くわ。残った物は捨てて貰って良いから」
美紀はそう言って立ち上がるとバッグを押し入れから取り出し、自分の着替えを詰め出した。
「どこに行くんだ?」
美紀は家族と折り合いが悪い。同棲しているこのアパート以外にどこに行くのだろう。
「今日は沙織ちゃんのところに泊めて貰う。駄目ならネットカフェでも行くわ」
沙織ちゃんは俺達の共通の知り合いで、美紀とは本当に仲が良い。
「すぐに住むところなんて見つからないだろ。今日は出てかなくて良いよ」
「ここはあなたの住んでいた部屋だから。もう別れたんなら、居ることは出来ないわ」
美紀はそう言うと、後は黙って荷物をまとめた。
「三年間……ありがとう」
部屋を出て行く間際、美紀は別れ話をしてから初めて、少しだけ曇った表情になった。
「ああ……」
俺がそう返事をすると、美紀は「さよなら」と言って出て行った。
美紀が出て行った後、俺の心にもの凄い後悔が襲って来た。そこで初めて、俺は別れ話を止めて欲しかったんだと気付いた。会社を辞めた情けない自分を励まして欲しかったんだ。再起に向けて、美紀に支えて貰いたかったんだ。
俺は最近、美紀に対して仕事の愚痴ばかり言っていた。きっとすでに愛想を尽かされていたんだろう。
別れてからの俺は、一切美紀に連絡をしなかった。何度もメッセージを書いたが、送信はしなかった。それが俺の最後の意地だった。これ以上、美紀に情けない姿を見せたくないという思いもあった。
あれから三年経った。俺は再就職に成功し、今では結婚を考えている恋人もいる。毎日充実した生活を送っているが、心の隅には無表情の美紀の姿が残っていた。
「美紀ちゃん、最近結婚したって知ってる?」
趣味の活動の場で偶然再会した沙織ちゃんが、「久しぶり」の挨拶の後で俺に聞いてきた。元々、俺も美紀も彼女も、この趣味の場で出会ったのだった。
「そうなんだ……」
「あの子、あなたと別れた夜は大変だったんだから。私はなんて酷い女だ、弱った恋人を見捨てた冷たい女だってね」
俺は沙織ちゃんの言葉を聞いて驚いた。あの無表情の裏は、そんな気持ちだったんだ。
沙織ちゃんと再会した夜。俺は美紀に連絡すべきか迷っていた。ラインの登録は残している。だが美紀も残しているとは限らない。
ブロックされているならそれで諦めがつくと、決心して美紀に通話してみた。
「はい……」
「あっ、俺……久しぶり。今日沙織ちゃんから、美紀が結婚したって聞いたから連絡してみたんだ。結婚おめでとう」
「ありがとう。本当に久しぶりね。あなたはどう?」
美紀は様子を窺うような話しぶりだ。
「うん、元気でやってる。今は再就職して、結婚を考えている彼女もいるよ」
「そうなんだ! 良かった~」
美紀の声色が変わった。付き合っていた当時、一緒に楽しい時間を過ごしていた時の声だ。
「あの時、俺を突き放してくれてありがとう。美紀に甘やかされていたら、きっと立ち直れなかったと思う」
「ううん、それは違うわ。あなたが強かったのよ。私たちの関係は壊れてしまったけど、どちらも悪くない。きっとタイミングが悪かっただけだわ」
「そうだな。その通りだと思うよ」
俺達はその後、近況を報告し合って通話を終えた。
話せて良かった。心の隅に居た無表情な美紀が消えていた。その分、楽しそうな美紀の笑顔を思い出せる。良い思い出に出来たようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます