第207話 四月二十五日はDNAの日(DNA day)

 一九五三年のこの日、ワトソンとクリックによるDNAの構造に関する論文が発表された。


「好きな人ができました。探さないでください」


 ある寒い日曜の朝。起きたらダイニングテーブルに、こんな簡単な書置きを残し、妻の洋子が家出していた。


「お母ちゃんは……」


 母親の姿が見えないのと、俺が呆然としているのとで、息子の宗助は不安になったんだろう。俺の腕にしがみついて来た。


「お母ちゃんはちょっと用事があってしばらく帰って来ないんだ。だから宗助はお父ちゃんと一緒に待ってような」


 俺は宗助を安心させようと、頭を優しく撫でた。

 洋子が出て行ったことに、それほど驚きはない。元々、恋多き女だったからだ。

 洋子は美しい女だ。子供が出来て堕ろしたいという洋子に、俺の方から頼み込んで、して貰った結婚だ。そもそも洋子が俺のことを愛していたのかも自信は無い。ただ、結婚をするなら俺とだとは思ってくれていたようだ。彼女自身も落ち着いた結婚生活に憧れはあったようだし、宗助も生まれて順調に暮らしていると思っていた。俺に恋愛感情は無いとしても、家族としての情はあると思っていた。

 結婚して五年。俺の願いも空しく、とうとう洋子は出て行った。


「お父ちゃん……」


 宗助は泣きながらしがみ付いてくる。


「泣くな。お父ちゃんはずっと傍にいるから泣くな」


 宗助は今五歳。こんな可愛い息子を捨てて、どこへ行ったのか。一緒に連れて行く気は無かったのか。一緒に暮らす女の子供が邪魔だと思う男が、幸せにしてくれる筈など無いのに。ここに居れば、温かい家庭があるというのに。



 俺の予想通り、その後も洋子は帰って来なかった。興信所を使って探すことは出来ただろうが、本人が帰って来る気が無ければ、見つかっても意味は無い。そんなことにお金や労力を使うなら、これから宗助を育てていくことに力を使わなければならない。

 とりあえず仕事に行く間はベビーシッターを頼んだ。ただお金は無限にある訳じゃない。俺の両親はすでに亡くなっている。洋子の両親には一度も会ったことが無い。毒親だったようで、洋子が宗助を捨てて出て行ったのも、そんな両親に育てられた影響があるのだと思っている。

 宗助を育てる為に、会社に頼んで定時で帰れる部署に配置替えして貰った。割と早く対応してくれたのは、今まで真面目に仕事一筋で働いていた功績があったからだろう。会社の配慮には感謝しか無いが、給料は驚くほど減ってしまった。

 お金の面、家事の面、育児の面、洋子が出て行ったことで、何もかも大変になった。元々家事や育児には協力していたが、仕事も含めて全て一人で背負うのは重過ぎた。宗助は幼いながらも事態を理解していたのか、我儘も言わず素直に育ってくれたのでなんとかやって来れたと思う。

 大変だった生活も、三年過ぎればペースが掴めて来た。宗助も少しずつお手伝いが出来るようになって来たし、俺も慣れて要領が良くなって来たのだ。給料が安いので生活は楽じゃ無かったけど、父子二人で仲良く暮らしていた。

 そうして十二年の月日が流れ、宗助は高校生二年になった。高校に入ったらクラブ活動でもして学生生活を楽しめと言ったのに、宗助は家の為にアルバイトをしている。家事も積極的にやってくれるので、俺はまた元の部署に復帰出来ていた。

 そんなある日曜日の夜。リビングで宗助とテレビを観ていたら、ピンポーンとドアチャイムが鳴る。


「こんな時間に誰だろう?」


 宗助は玄関に向かう。ドアを開けて何やら話をしているが、揉めているのか宗助の言葉がキツイ。


「帰ってくれよ!」


 宗助が大きな声でそう言ったので、何事かと俺も玄関に向かう。


「どうしたんだ?」


 玄関に来てみると、宗助の前に一人の五十代位の女が立っている。


「あなた!」

「まさか……洋子か?」


 玄関に立っている女は、十二年前にここを出て行った洋子だった。

 今の年齢は四十三歳の筈だが、十歳は老けて見える。肌の艶は悪いし、しわも多く別人のように老けていた。


「今更何の用で来たんだよ。よく俺と父ちゃんの前に顔を出せたな!」


 普段温厚な宗助が、見たこと無いくらい怒っている。


「ごめんね……宗ちゃん……」


 宗助からキツイ言葉で罵られ、洋子は泣き出してしまう。


「泣きたいのは俺や父ちゃんの方だよ!」

「まあ、そう怒鳴るな。何か用があって来たんだろう。用件も聞かずに追い返すと、きっと後々後悔する。中に入って貰って話を聞こう」

「ありがとうございます」


 俺がそう言うと、洋子はハンカチで目を押さえながら深く頭を下げた。

 ダイニングテーブルに俺と宗助が並んで座り、洋子が俺の前に座った。


「何の用で来たんだよ」


 宗助が邪険な言い方で問う。


「これを渡しに来ました……」


 洋子は一冊の通帳を震える手で俺達の前に置いた。


「金を払って、許して貰おうってことか?」


 宗助が憎しみの籠った声で聞く。


「家を出てから今まで、どうやって暮らして来たんだ?」


 宗助の問い掛けの答えを待たずに、俺は聞いた。

 俺も宗助も通帳には手を出していない。


「家を出て、ヨリを戻した昔の男のところに行きました……」


 洋子は宗助の問い掛けには答えず、家を出てからのことを少し震える声で話し出した。


「一緒に暮らし出した途端、相手の態度が豹変しました。体の暴力、言葉の暴力で……」


 余程辛い思い出なのか、洋子の言葉が途切れる。


「三年でようやく逃げ出すことが出来ました。でも自分のしたことを考えるとこの家に戻ることは出来ず、せめてもと思い、県内にアパートを借りて生活を始めました」


 近くに戻って来ても、顔を出せなかったんだろう。


「何とか二人に償う方法は無いかと考えたのですが、私にはお金しか思い浮かばず、パートを掛け持ちしてコツコツ貯めて行きました。そのお金がこの通帳です」


 俺も宗助もそう言われて通帳を見たが、二人とも手は出さない。


「このお金で罪を償えるとは思いませんが、お願いします、もう一度ここに住ませてください。何でもします。お願いします」


 洋子はテーブルに頭を付けて頼んだ。


「勝手なこと言うなよ。その男が良い奴だったら、今でも俺達のことを忘れて暮らしてたんだろ。不幸になったからって、すり寄って来るなよ」


 宗助にそう言われても、洋子はテーブルに頭を付けたまま動かない。

 宗助の言うことはもっともだと思う。だが、俺は何も言えなかった。

 もし、洋子が昔のまま、美しい女の姿のままで来ていたら、宗助と同じように感じただろう。だが、今の老け込んで見る影の無い姿を見たら、自分の気持ちが分からなくなった。

 俺は通帳を手に取り、中を開いた。

 三百万円入っている。通帳の入出金履歴には、入金した記録しか残っていない。金額にバラツキはあるが、毎月毎月、必ず入金されていた。


「父ちゃんも何か言ってやれよ」


 宗助にそう言われても、言葉が出なかった。

 洋子が苦労してきたことは容易に窺えた。反省もしていると思う。家出された当時の情けなさや恨みはもう残っていない。ここで許さなかったら、将来後悔しないだろうか。


「いきなり一緒に住むのは無理だ。もっと近所に引っ越してきて、少しずつ距離を縮めて行けばどうだろうか」

「父ちゃん!」


 俺の言葉に宗助は驚く。


「ああっ、そ、そうして貰えるんですか?」


 洋子が不安と希望が入り混じった表情で顔を上げる。


「ああ、三人の為にもそうした方が良いと思う」


 俺はそう言った後、宗助の顔を見た。宗助の気持ちをフォローしなければいけない。


「今は納得できないかも知れないが、きっと許せて良かったと思う日が来るから……」


 俺がそう言葉を掛けても、宗助は思い詰めた表情をしている。


「とうちゃん……実は俺は父ちゃんの子どもじゃ無いんだ。俺は父ちゃんに似ていないと思っていたから、父ちゃんが寝ている隙に口の粘膜を取ってDNA鑑定してみたんだ。安い業者だから精度に問題はあるだろうけど、親子の確率はゼロパーセントだったんだよ」


 確かに宗助は俺に似ず、イケメンで頭も良い。容姿に似たところは全く無かった。宗助が疑問に思っても無理は無いだろう。


「こんな裏切りをした女を許せるのかよ!」


 宗助は悔しいのか、涙まで流す。洋子も下を向いて、また泣き出してしまった。


「実は俺も知っていたんだよ」


 二人は驚いて俺を見る。


「宗助が三歳になった頃だったかな。俺も全然似ていないことが気になって、洋子に内緒でDNA鑑定をしたことがあったんだ。同じように親子関係を否定されてね。ショックだったよ。でも、宗助が自分の息子じゃないなんて思えなかったんだ。その頃の洋子は裏切っている様子も無かったし、このまま黙っていようと思ったんだ」

「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」


 洋子はまたテーブルに頭を付ける。


「どうしてそんな裏切りされたのに許せるんだよ……」

「血が繋がっていなくても、宗助は俺の子供だ。宗助の母親である洋子も俺の家族だ。俺達は三人で家族なんだ」

「でも、この女はそんな家族を裏切ったんだよ! 俺達を捨てた女なんだよ! また裏切るかも知れないんだよ!」


 宗助の言葉に、洋子の肩が震えている。


「人間間違えることもある。俺はもう一度信じてみようと思うんだ。頼む。俺に免じて、もう一度だけ信じてやってくれないか?」


 俺が頭を下げると、宗助は少し間を空けて「分かった……」と小さく呟いた。


「もう二度と宗助を裏切ることはしないでくれな」

「ありがとうございます! もう二度と二人を裏切ることはいたしません」


 洋子はテーブルに頭を付けたままそう言った。

 これで解決した訳じゃない。これが家族の修復へのスタートなだけだ。また裏切られるかも知れない。でも、俺は洋子を信じてみようと思う。今は納得いかなかも知れないが、宗助もきっと分かってくれる日が来ると信じている。

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