第206話 四月二十四日は日本ダービー記念日(月間ベスト作品)
一九三二年のこの日、目黒競馬場で日本初のダービー(東京優駿競争)が開催された。
イギリスのダービーステイクスに傚って企画された。出走は十九頭で、優勝したのは一番人気のワカタカだった。
ダービーは元々、第十二代ダービー卿が始めた、ロンドン郊外で開催されるサラブレット三歳馬ナンバーワンを決めるレースの事で、イギリス競馬界最高の行事だった。後に、日本を始め世界各国でそれに傚った「ダービー」という名前を附けたレースが開催されるようになった。
「今日はダービーか……」
日曜の朝、俺は朝食を食べながら、新聞のスポーツ欄を見て呟いた。
「ダービーって競馬の?」
妻が俺の前にコーヒーを置きながら、尋ねて来る。
「コーヒーありがとう。今日は競馬の日本ダービーが開催されるんだ」
「ふーん。でもあなた競馬に興味が有ったの?」
俺が朝食を食べているダイニングテーブルの向かいに座り、妻は不思議そうに尋ねる。
「これでも大学時代は競馬サークルに入っていた時もあったんだよ」
「そうなんだ! もう結婚して二十年以上になるのに、初めて知ったわ」
「うん……途中で辞めて、それ以来馬券も買って無かったからな」
「途中で辞めたんだ。どうして?」
妻は好奇心旺盛な女性だ。何にでも興味を持って、いろいろなことに挑戦して行く。それが彼女の魅力の一つだと俺は思っている。
「言わなきゃ駄目?」
「だって、二十年以上も隠されてたんだから、気になるわよ」
「隠してたわけじゃ無いんだけどな……」
「じゃあ、話してくれても良いじゃない。あっ、もしかして当時の彼女のこととか? 今更気にしないわよ、そんなの」
妻はいたずらっ子のような笑顔を浮かべて聞いて来る。
俺達は夫婦仲はすこぶる良い。二人の子供は就職や大学で家を出たから、今は夫婦水入らずで、新婚当時のように仲良く暮らしている。そんな現状だから何を話しても、問題は無いだろう。
「まあ、女の子絡みとは言えるけど、彼女ではないな」
「振られたんだ」
「じゃあ、順番に話すから、黙って聞いてくれよ」
「分かった」
妻はそう言うと、口をわざとらしくギュッと閉じた。
「競馬サークルに入っていた当時、俺には凄く好きな馬がいたんだ」
妻は黙って頷く。
「馬の名前はナリタタイシン。小さな馬だったけど、凄く根性があってね。俺も背が低いのがコンプレックスだったから、親近感を感じていたんだよ」
「ええっ! 背が低いの気にしてたの? 全然気付かなかった!」
早くも黙って聞くという約束を忘れて、妻が驚いたようにそう言った。まあ、妻が黙ってられないのは予想通りなので、それについては何も言わない。
「その背が低いコンプレックスについてはちょっと置いといて、そのナリタタイシンには同期のライバルが居てさ、ウイニングチケットとビワハヤヒデの二頭。ナリタタイシンを入れた三頭で春のクラシックレースを争ったんだよ」
「クラシックレースって?」
「三冠と呼ばれる三つのレース。春は皐月賞とダービー。あと少し期間が空いて秋に菊花賞があって、三冠になるんだ」
「ああ、その三つのレースの名前は聞いたことがあるわ」
「三つのレースの中で一番最初に開催されるのが皐月賞。ナリタタイシンは前走の弥生賞でウイニングチケットに負けて三番人気で出走したんだ」
「で、どうだったの?」
妻が少し身を乗り出すように聞いて来る。
「ナリタタイシンは追込み馬。レース中は後ろの方をゆっくり気ままに走ってるんだけど、勝負所、四コーナーを回ってからは、まるで別の馬のように鋭く切れ込んでくるんだ」
妻は話に聞き入っているのか無言で頷く。
「進路妨害で降格する馬が出るくらい激しいレースでね。ナリタタイシンも直線で他の馬に体当たりされたんだ。小さな馬だから影響も有ったと思う。だけどね……」
「うん……」
「タイシンの闘志はそんな妨害ではくじけなかったんだよ。強豪馬をぶち抜いて一着でゴールイン。見事、皐月賞を勝ち取ったんだ」
「凄いじゃない!」
「そう、凄い馬だったんだ。あの小さなタイシンも頑張ったんだ。俺も背が低いのを気にせず頑張ろうと思ったんだよね」
「それであなたは背が低くても堂々としてるのね」
妻は感心したように、そう言った。
「いや、まだ続きがあるんだ」
「あっ、ここで女の子が出て来るんだ」
「相変わらず勘が良いね」
俺がそう言うと、妻は得意げに笑う。
「その頃俺はサークル内に好きな女の子が居たんだ。その子はサークル内でも人気がある娘で、狙っていた男も多かったんだよ。背が低いことにコンプレックスがあった俺は告白する勇気が無かった。そこで、もしナリタタイシンがダービーも勝ったら告白しようと決めたんだ」
「ええっ、皐月賞を勝っただけでは駄目だったの?」
「その世代の日本一を決めるレースはダービーなんだよ。三冠とは言え、ダービーだけは特別。そこで勝ってこそ一番と認められるんだ」
「そうなんだ。結果はどうだったの?」
俺は言葉に詰まった。あのダービー当日の悔しさが蘇ってきたからだ。
「三着だった。優勝はウイニングチケット。二着はビワハヤヒデ。三着にナリタタイシンだったんだ」
「そっか……でも三着でも凄いんじゃないの?」
「確かにそうだと思う。皐月賞馬として恥かしくないレースだった。でも、前の二頭とは差を感じたのも事実だったんだ」
タイシンは追い込み馬という脚質から、最後は届かず二着になったこともある。でもそれはレース展開の綾で、一着馬より強いと感じられた。負けてなお強しといった印象だった。しかしこのレースに関しては上位二頭と差を感じさせられた。リセットしてもう一度レースをやり直したとしても、タイシンが勝てるとは思えなかったのだ。
「じゃあ、告白は?」
「出来なかったよ。自信を持てなくって」
「そうだったんだ……」
「それからタイシンは春シーズンにもう一度レースに出たんだ。普通なら秋まで休養に入るところなんだけど、異例の使われ方してさ。それが祟ったのか、秋は不完全な体調で菊花賞に出て大差で惨敗。タイシンは終わったと言われてね。俺もそこでサークルを辞めたんだ」
「じゃあ、競馬には良い思い出が無いんだね」
「そこで終わればね」
「えっ、どう言うこと?」
不思議そうな顔している妻に、俺はにやりと笑った。
「タイシンの闘志は消えて無かったんだ。菊花賞後に休暇に入り、次の年の春の初戦。GⅡ目黒記念に出走。見事復活勝利を収めたんだ」
「凄いじゃない!」
「そう。次のレースは天皇賞春。ライバルであるビワハヤヒデは当時では最強馬の呼び声が高い馬となっていた。レース中はいつも通り最後方追走。最後の直線で逃げるビワハヤヒデを追い詰めたんだが惜しくも届かず二着。でも俺は完全な力負けとは思わなかった。展開がもう少し味方すれば逆転も有ったと思っている。何より秋にあれだけの大差で負けたのに、くじけず復活したタイシンに感動してね。それからは背が低いなんて気にせず、自信を持って生きて来たんだ」
「へえーそうなんだ。じゃあ、就職してから出会った私に告白してくれたのはそのナリタタイシンのお陰なの?」
「そうだな。タイシンのお陰だな」
「よし、じゃあ、後で動画探して観よう。だって、タイシン君がいなければ、何十年も幸せな生活を送れなかったんだからね。感謝のしるしに、その雄姿を目に焼き付けなきゃ」
「じゃあ、後で俺が探してあげるよ。一緒に観よう」
タイシンは俺に勇気を与えてくれた。今日は日本ダービーが開催される。今日走る馬も、きっと誰かの勇気になる筈だ。一八頭の優駿たち。怪我無く実力を出し尽くして走って欲しいと俺は願った。
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