第201話 四月十九日は養育費の日

 母子家庭などの支援を行っているNPO・Winkが制定。

 二〇〇四年のこの日、民事執行法が改正され、それまでは養育費の支払いが遅れるたびに裁判所に給与等の差押えの強制執行を申立てなければならなかったのが、一度の手続きだけで将来に渡って差押えが出来るようになった。



 今日は第一土曜日。元妻の紗英さえに養育費を手渡して、娘の芽衣めいと面会できる日だ。

 なんだかお金と交換で娘と面会するようで複雑な気持ちもあったが、芽衣の目の前でお金を渡し、ちゃんと父親としての責任を果たしている姿を見せられるので、俺の希望で手渡しにしている。

 面会日にはいつもどこか遊びに連れて行っているので、芽衣も楽しみにしていてくれる。今日は遊園地に連れて行く約束をしていた。


「はい、今月分の養育費」

「毎月ありがとう」


 俺は元々住んでいたマンションまで芽衣を迎えに行き、養育費を紗英に手渡した。


「じゃあ、行こうか」


 俺は玄関にいる芽衣に声を掛けた。


「ねえ、今日はお母さんも一緒に行って良い?」

「ええっ?」


 俺は芽衣の頼みに驚いた。すぐに紗英の顔を見ると、彼女も驚いている。どうやら芽衣が思いついたことを突然言ったらしい。


「お母さんも急に言われたら困るだろ」


 俺は紗英の気持ちを考えて、芽衣を諭そうとした。


「ねえ、お母さん良いでしょ? もうすぐ私の誕生日だし、プレゼントはいらないから」

「でも……お父さんは芽衣と二人の方が良いんじゃない?」


 紗英はやはり戸惑っている。どうやって芽衣を傷付けずに諦めさせられるか考えているようだ。


「お父さんも三人の方が楽しいよね!」


 芽衣にそう言われると、俺は何も言えなかった。三人で行って楽しいのは芽衣自身だろう。芽衣からそんな楽しみを奪ってしまったのは俺だから、申し訳なさ過ぎて諦めさせる言葉が見つからない。


「紗英さえ良ければ、どうだろうか? 一緒に……」


 紗英は少し考えた後に「分かった。用意するから車で待ってて」と言った。


「やったー!」


 喜んでいる芽衣と一緒に車に向かった。

 俺が車の鍵を開けると、芽衣は後部座席に乗り込もうとする。


「助手席に乗るんじゃないのか?」

「三人で乗る時には、お母さんが助手席でしょ。私は後ろで良いよ」


 そう言って、紗英は後部座席に乗り込んだ。

 しばらくして、紗英がやって来た。彼女は一瞬、空いている助手席を見て戸惑う。だがすぐに諦めた表情で、助手席に乗り込んで来た。


「しゅっぱーつ!」


 芽衣の号令で、俺達はマンションを発って、遊園地に向かった。



 行きの車内では、芽衣がハイテンションで俺や紗英に話し掛けていた。芽衣なりに、楽しい雰囲気にしようと頑張っているのだろう。その健気な気持ちを考えると、涙が出そうになる。でも、暗い顔していると芽衣が悲しむだろうから、努めて明るく会話を返していた。きっと紗英も同じ気持ちだったんだろう。離婚話が出る前のように、彼女も明るく会話をしている。

 遊園地までの一時間半。俺達は昔に戻ったように、明るい家族の芝居を続けた。



 遊園地で遊び始めてからも、芽衣ははしゃぎ続けた。アトラクション間を移動する時には、芽衣は俺と紗英の間に入り、三人で手を繋いで歩いた。

 芽衣の目的は明らかだった。遊園地に来て、俺と紗英の仲を修復したいと考えているのだ。


「最後は私が一人で乗って来るから、お父さんとお母さんはベンチに座って待ってて」


 芽衣は俺達をベンチに座らせると、アトラクションに向かって歩いて行った。

 俺達は言いつけ通り、二人してベンチに座ったが、芽衣が居なくなると会話が出て来ない。言いたいことは沢山あるのだが、口を開く勇気が出ない。


「今日は悪かったな。無理やり付き合わせて……」


 沈黙に耐えかねて、俺はようやくそれだけを呟いた。


「あなたが悪い訳じゃ無いわ。もちろん芽衣も悪くない……どうしても嫌なら断ることも出来たのに、来たのは私の判断だから」

「ありがとう」


 紗英にそう言って貰えると、助かった気持ちになる。俺は今日一緒に来れて嬉しかったから。芽衣の気持ちを利用した面はあったから。


「芽衣には離婚の理由は話してあるの?」


 三年前に離婚した時には、まだ小学生だった芽衣に離婚理由は話さなかった。


「中学生になったから、話して聞かせたわ。ごめんね。あの子から何回も聞かれてたからね」

「謝る必要は無いよ。全て俺が悪いんだから」


 俺がそう言うと、紗英は肯定も否定もせず、何も言わなかった。



 俺達が離婚した原因は、俺の浮気だった。

 三年前の同窓会で、俺は元カノと久しぶりに会って会話が弾んだ。元カノも結婚していたが、夫に不満を抱いていた。話を聞くうちに、俺は元カノに同情してしまい、後はよくある浮気のパターンだ。

 別に元カノと寄りを戻したかった訳じゃない。紗英を愛していたし、芽衣は命より大事だと思っていた。お酒の力と元カノという懐かしさと気安さ。安易に間違いを犯してしまった。

 関係はその一度きりだった。お互い無かったことにしようと話していたのに、元カノは罪悪感で夫に話してしまった。夫が俺に連絡してきて、ことが大きくなり紗英にも話さざるを得ない状況になった。

 俺が浮気を告白すると、紗英は怒りよりも、魂が抜けたように呆然としていた。俺は心から謝ったが、紗英の気持ちは戻らず、俺達は離婚となってしまった。

 紗英の両親は父親の浮気で離婚していた。一度の過ちだからと言っても、俺の浮気を許せなかったのだろう。



「お待たせ!」


 芽衣がアトラクションから帰って来た。彼女は何か変化があったかを探るように、俺達の顔を見る。


「じゃあ、帰ろうか」


 俺達の微妙な空気を読み取ったのか、芽衣は少しがっかりとした表情を浮かべたが、素直に俺の言葉に従った。

 帰りの車でも、芽衣は明るく俺達に話し掛けていた。今日の遊園地の出来事を嬉しそうに話す芽衣に心が痛む。

 途中でレストランに寄って夕食を食べた。家族三人で昔のように笑顔で話をしながらの楽しい夕食だった。


「ねえ、お父さん今日は泊まってってよ。明日は日曜日だし大丈夫でしょ? お母さんも良いよね」


 もうすぐマンションに着くところで、芽衣は突然驚くことを言い出した。


「それは駄目だよ。お母さんにも都合があるから、今日はここまでにしような」


 俺はそこまで甘える訳にはいかないと、芽衣をなだめた。


「明日は何か用事が有るの?」


 紗英の意外な質問に、俺は驚いた。


「いや、何も無いけど……」

「じゃあ、芽衣が頼んでいるんだから、泊まって行けば?」


 紗英の言葉には感情がこもってなく、どんな気持ちなのか判断がつかない。


「ありがとう、お母さん! お父さん、泊まってくよね!」

「ああ、そうだな……」


 俺は紗英の気持ちが分からず戸惑う。だが、この流れでは断ることも出来ず、また俺自身も泊まりたい気持ちがあった。



 マンションには、ちゃんと俺の着替えがあった。離婚した後、紗英が捨てようとしたのを、芽衣が止めて持っていたようだ。

 俺は部屋の中でどんな顔をして良いのか分からず、リビングのソファに座り、芽衣の話し相手になっていた。


「さあ、あなたからお風呂どうぞ」


 昔と同じように、俺からお風呂に入った。何度も入っている風呂なのに、なんだか他人の家の物ようで落ち着かなかった。風呂を上がってからも同じで、どこに居るべきか分からず、リビングのソファに座って、二人が順番にお風呂に入るのを待っていた。


「今日は三人で一緒に寝ようか」


 みんなお風呂を済ませ、寝ようかという段階になって、芽衣が俺と紗英にそう言った。


「それは駄目だよ。お父さんはリビングのソファで寝るから、二人はいつものように寝てくれれば良いよ」


 離婚前も三人で一緒に寝るようなことは無かったのに。それぐらい、芽衣は俺達を元に戻したいのだろう。でも、いくら何でも、紗英の気持ちを考えると了解は出来ない。


「ええっ……」


 俺が断ると、芽衣は不満そうな声を漏らす。


「じゃあ、今日は三人で寝ようか。芽衣を真ん中にして川の字になって」


 俺は紗英の言葉に、自分の耳を疑った。紗英が嫌がると思ったから、俺が率先して断ったのに。


「ありがとう、お母さん!」

「良いのか?」

「今日は最後まで芽衣の希望を叶えてあげましょうよ」


 紗英は無理してる風でもなくそう言った。

 離婚前に俺達夫婦の寝室にしていた部屋に、布団を三組敷いた。紗英の言った通り、芽衣を真ん中にして川の字になって布団に入る。

 芽衣ははしゃいで、昔の思い出をいろいろ話していたが、いつの間にか寝てしまった。俺は気持ちが高ぶって眠れなかった。

 しばらく目をつぶって寝ようとしたが眠れず、喉が渇いたので、水でも飲もうと布団から抜け出した。

 寝室は玄関すぐ横にあり、俺は廊下を奥に進んでダイニングに向かう。二人が寝ているので、音を立てないように気を遣った。


「眠れないの?」


 キッチンで水を飲んでいると、不意に声を掛けられた。


「紗英……ごめん、起こしてしまった?」

「ううん、私も眠れなかったの」


 紗英はそう言うと、自分もコップを持って来て水を飲んだ。


「今日は付き合ってくれてありがとう。俺と二人の時より、芽衣は喜んでいたよ」

「うん……あの子があんなに楽しそうにしているのを久しぶりに見たわ」


 紗英がダイニングテーブルの席に座ったので、俺も向かいの席に座る。


「私ね、一年ほど交際していた人が居たの」


 紗英が突然、俺の顔を真っすぐに見てそう言った。

 ショックだった。離婚して三年。当然そんなこともあるだろうけど、どこかに紗英は自分以外と恋愛しないと言う思い込みが有ったのだ。だが、俺に何かを言う権利など無い。何も言えずに、紗英の顔を見ていた。


「仕事で出会った人で、芽衣がいるから、焦らずゆっくりとした付き合いだったんだけど……三か月前に、結婚を前提に正式なお付き合いしたいと言われてたの」

「そうなのか……」


 結婚と言う言葉に動揺して、それしか言えなかった。


「私もそこまで本気ならと、芽衣と一緒に三人で食事や遊びに行ったりしたんだけど、二人が馴染めなくて……。それでも時間を掛けて仲良く出来ればと思っていたら、相手から『娘さんを父親に渡して、二人で暮らさないか』って言われて」

「なんだそれ、芽衣は物じゃないんだぞ!」


 俺は立場も忘れて、声を荒げてしまった。


「腹が立つよね。でも私はその相手より、自分自身に腹が立った。芽衣のことを一番に考えなきゃいけないのに、寂しいからってこんなことを言う男と付き合っていたなんて、私は最低な母親だって」

「いや、紗英は悪くない。そんな立場にさせた俺が悪いんだ……」


 紗英の悲しそうな顔に心が痛んだ。


「結局、私は申し出を断り、その人とはそれからすぐに別れてしまったわ。別れたことを知ってしまった芽衣は、自分の所為だと責任を感じて塞ぎ込んでしまって。私が芽衣の所為じゃないって言っても、元気にならなくて心配してたの。

 今日はありがとう。芽衣があんなに明るく元気な姿を見せてくれて、本当に安心したわ」


 紗英はそう言って、寂しげな笑顔を浮かべた。


「そんなことがあったのか……。俺の前では元気だったんで気付かなかったよ」

「芽衣は毎回あなたに会うのを楽しみにしているからね。やっぱり、あの子の父親はあなたしか居ないのね。それが分かってしまったから、私はあの子が巣立つまでは一人でいるわ」


 強がったように笑う紗英を抱きしめたくなる。俺が間違いを犯さなければ、こんな思いをさせずに済んだのに。


「俺ともう一度寄りを戻してくれないか?」


 俺がそう言うと、紗英の顔から笑顔が消える。


「まだ俺のことを許せないか?」


 俺がそう聞いても、紗英はすぐに答えない。


「……私にも分からないの。今はもう、離婚した時ほど憎んではいない。あなたはこの三年間、ずっと責任を果たしてくれた。芽衣が離婚の理由を聞いても態度が変わらなかったのは、あなたの反省を感じて許しているからだと思う。でも、私自身の気持ちが分からない。

 憎んでいないのが許したからなのか。離婚して距離を取ったから、気持ちが薄れてしまったのか。また一緒に暮らしたら、あの時の苦しい気持ちが甦るんかも知れない……」


 紗英の目から涙が落ちる。俺の言葉が彼女を苦しめていることに気付いた。


「ごめん。無理を言って困らせたね。さっきの言葉は忘れてくれ。でも養育費や芽衣の面会は続けさせて欲しい」


 俺は自分の頼みを取り下げた。今のままの距離が、紗英にとって最適なのだと思ったからだ。


「お母さん……」


 いつの間にか芽衣が起きていて、ダイニングに入って来た。


「お願い。私はもう一度お父さんと暮らしたいの」


 芽衣は紗英に近付いて、腕を掴んで頼む。


「芽衣、お母さんを苦しめちゃ駄目だ。悪いのはお父さんなんだ。お母さんは……」

「もう一度だけ、頑張ってみるわ」


 紗英は涙を拭いて、笑顔でそう言った。


「お母さん! ありがとう!」


 芽衣が喜んで、紗英にお礼を言う。


「紗英……」


 俺は紗英の気持ちを考えると、手放しで喜べなかった。


「芽衣、ずっと寂しい思いをさせてごめんね」


 紗英は芽衣の頭を撫でる。


「もしかしたら、凄く苦しむかも知れない。でも、今は三人で乗り越えたいって思うの」

「紗英、芽衣、俺はこれから、二人の為に生きる。三人で笑顔になれるように頑張るよ」


 こうして、俺達はまた三人で暮らすこととなったが、これはスタートだ。もしかしたら、養育費を払って、月一回面会している方が楽かも知れない。でも、紗英と芽衣が決心してくれたんだ。俺は二人がずっと笑顔で暮らせるよう、全力を尽くそう。

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