第195話 四月十三日は喫茶店の日

 一八八八年のこの日、東京・上野に日本初の喫茶店「可否茶館」が開業した。

 一階がビリヤード場、二階が喫茶室の2階建て洋館で、一杯二銭の牛乳よりも安い一銭五厘で提供していたが、五年で閉店した。


 私は今、桜元駅前商店街の入り口にある「スイッチ」という喫茶店で店番をしている。


 「スイッチ」は駅前広場に面していて、商店街の中でも最高の立地だ。店内には四人掛けテーブルが窓際に二台、内側に二台の計四台、カウンターは十二席の客席がある。有線放送のオルゴールメロディが流れ、木目調で統一され、落ち着いた良い雰囲気の店だと私は思っている。


 だが、平日の午後二時の今は店内にお客さんも居らず、一人で店番をしている私はカウンターの中に居て、外から見えないようにスマホでネットサーフィンに勤しんでいた。この時間はいつも暇なので、マスターの休憩時間になっているのだ。


 私は藤本春菜(ふじもとはるな)、二十八歳独身。職業は「スイッチ」のアルバイトで所謂フリーターである。彼氏いない歴は、もう何年経ったか忘れた。妹がすでに結婚しているので親はうるさく言わないのが救いだ。


 こんな不安定な現状だが、焦りはない。なぜなら私には夢があるからだ!


 私の夢、それは作家になること。私には想像力(友達は皆、妄想力と言うが)と言う強力な武器があるのだ。私の常人離れした想像力を持ってすれば、人気作家になるなど容易いことである。


 実はこの仕事を選んだのも、自分の武器を磨く為。私は仕事中、店に訪れるお客様の人生模様を想像して、力を鍛えているのだ。



 カランコロンとドアベルの軽い音色が響き、四十代ぐらいの男女二人が店に入って来た。グレイのスーツの恰幅の良い男性と、ベージュのパンツスーツの地味な女性だ。


「いらっしゃいませ!」


 私はスマホをカウンターの下に置き、二人に向かって挨拶をする。二人は私を一瞥すると、すぐに客席に視線を移し、窓際の奥側にあるテーブル席に座った。私はすぐにお冷を用意して席に運ぶ。


「いらっしゃいませ、ご注文が決まりましたら、お呼びください」


 私がお冷を二つテーブルに置くと、女性が小さな声で「ありがとうございます」と返事をしてくれた。


「俺はホットブレンドで」

「私はミルクティーをお願いします」


 私が立ち去ろうとする前に、二人ともオーダーしてくれた。


「ありがとうございます。しばらくお待ちください」


 私はカウンターに戻ると、オーダーの品を作り始める。


 二人とも左手の薬指に指輪をはめていたけど、違うリングだった。夫婦じゃないのは確実ね。じゃあ、二人の関係は? 普通に考えれば会社の同僚。上司と部下も考えられる。でも、それじゃ面白くないわね。


 私はホットブレンドとミルクティーをお盆に乗せ、二人のテーブルへと運ぶ。


「約束が違うじゃない!」


 カウンターを出て、テーブルに向かう途中、私に背を向けている女性が興奮した様子で叫ぶ。男性が私に気付き、困ったような表情を浮かべる。


「お待たせしました」


 私がホットブレンドとミルクティーをテーブルに置くと、二人は気まずそうな表情を浮かべて押し黙った。


 私はまたカウンターの中に戻ると、二人の様子をそっと観察し始める。


 二人は無言で目の前の飲み物を口に運ぶ。会話は無いが、二人の間に緊張した空気を感じる。話を再開する切っ掛けを窺っているのだろう。


 社内不倫の関係? 外回りの仕事の合い間に逢瀬を繰り返してる?


 女はお互い離婚して二人で添い遂げようと覚悟を決めているが、男は遊びなので話に乗って来ない。誘ってきたのは男の方なのに。妻とは別れる、お互いに離婚して一緒になろうとベッドで囁いてくれたのに。『約束が違うじゃない!』はそういう意味か。


 うーん、可能性的には無くはないけど、普通過ぎる。いやいや、W不倫カップルなんて実際には見たことないけどね。


 女は凄腕の殺し屋とかどう?


 二人は孤児で同じ施設で育った幼馴染。闇の組織に引き取られて、殺し屋として教育されるの。


 辛い訓練も二人は励まし合って乗り越えていく。やがてその友情は愛情へと変わっていくが、お互い気持ちは伝えられずに過ごすの。


 そのうち、女の殺し屋としての才能が開花する。そう、漫画の『あずみ』みたいにね。


 いや、ちょっと待ってよ。あのおばさんがあずみは無いか。うーん、脳内でおばさんを上戸彩に変換してっと。


 時が経ち、男は組織のエージェントとして、女は一流の殺し屋として世の中に出て行く。普段は普通の市民として溶け込むために、二人とも別の人と偽装結婚するの。お互いの恋愛感情を隠してね。


 普通の生活を送りながら、組織から降りてくる殺人の指令をこなしていく日々。男は女を陰ながら支えていく。


 そんな二人の関係に変化が起こる。女が夫を愛し始めてしまうの。人畜無害のように感じていた夫の、意外な優しさや強さ。二人の男の間で揺れ動く女の気持ち。


 男は、女の夫への愛情に気付き始める。愛する女が夫へ心を奪われていく様子を見て、嫉妬心を抑えられない。関係がギクシャクし始める男と女。そんな時、男の妻が浮気を疑い始める。もちろん、一流の殺し屋とエージェントの二人は尻尾を掴まれるようなへまはしない。だが、妻は女の勘で、男には別に愛している人が居ると気付くの。


 二組の夫婦の感情がもつれ合う。


 女は夫と幸せに暮らすために、組織に許される筈の無い引退を決意する。だが、男は二人で逃げようと女を説得する。初めて男の口から、自分への想いを聞かされる女。ずっと自分を守ってくれていた男に、女の想いも揺れる。


「遺産は自分で、介護は私なんて、兄さんは勝手過ぎるわ!」


 私が妄想にふけっていたその時、女性客の方が、大きな声で男性客に怒りながら席を立った。


「仕方ないだろ。長男の俺が親父の後を継ぐ。それは生まれた時から決まっていたことだ。お前が考えている以上に辛いことだってあるんだぞ!」


 今度は男性客の方が怒鳴りながら席を立った。


 二人は言い争いを続けながら、出口に向かって歩いてくる。


 険しい表情の男性客が、レジで伝票をトレイに置く。


「お会計、八百円です」


 男性客は一瞬女性客の方を見たが、何も動く様子が無かったので、財布から千円札を取り出し、トレイに置く。


「自分の分ぐらい出さんのか」

「儲かってるんでしょ。それぐらい出してよ」


 兄妹の不毛なやりとりが続く。


「二百円のお返し出です」


 私が二百円のお釣りを手渡すと、二人はまたぐちぐちと口喧嘩しながら、店を出て行った。


 なんだ、中年兄妹の介護や遺産をめぐる争いか。まあ、現実はそんなもんでしょ。


 でも、良いアイデアが浮かんだわ。メモしとこう。いろいろ味付けしたら、作品に出来るかもね。


 こうして私は、日々小説家として精進しているのだ。

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