第186話 四月四日はあんぱんの日
一八七五(明治八)年のこの日、明治天皇が水戸邸の下屋敷を訪れる際に、木村屋のあんぱんが出された。
木村屋の木村安兵衛が当時の侍従・山岡鉄舟に「これまでは京都の和菓子をお出しすることが多かったが、純日本製のパンをお出ししたらどうか」ともちかけられた。木村安兵衛は、それまでのあんぱんに工夫をこらし、日本を代表する花である八重桜の塩漬をいれた桜あんぱんを開発した。
俺は、あんパンは絶対にこしあん派だ。
皮が無い分、滑らかでクリーミーな舌触り。甘さも粒あんと比べてまろやかだ。だからあんパンを買う時には、必ずこしあんかどうかを確認している。
「お腹空いたーもう死にそう。何か食べる物ない?」
仕事が終わってアパートに帰ったら、同棲している杏奈が泣き付いて来た。杏奈は在宅仕事で、今日はずっとアパートに居たみたいだ。
「ずっと部屋に居たんだから、何か作って食べたら良かったのに」
「十時間ぶっ通しで、今やっと終わったところなのよ。もう何も作る元気ないわ」
そう言えば、今日は締め切り日で大変だと言っていたのを思い出した。
「ちょうど良かった。明日の朝食べようと思っていたあんパンがあるよ」
俺はパン屋の袋を杏奈に渡した。
「ありがとう! あっ……」
喜んで袋を受け取った杏奈は、中を見て動きが止まる。
「これ全部こしあんじゃないの!」
「なんだよ! 文句が有るなら食べなきゃ良いだろ」
「四個も買って来てるのに、全部こしあんってどういうことよ。私は粒あん派って知ってるでしょ? ホント嫌がらせとしか思えないわ」
そう言えば、杏奈は粒あん好きなの忘れてた。
「自分の分を買って来たのに、どうして好きなの買ったら駄目なんだよ! お前も欲しいなら自分で買ってくれば良いだろ!」
俺は忘れていたことを言い出せずに、売り言葉に買い言葉で、どんどん声が大きくなり、言葉が荒くなる。
「もう良い! 外で食べて来るから!」
「勝手にしろよ!」
杏奈は上着を羽織って、出て行ってしまった。俺も腹が立ったので追い駆けることもせず、カップラーメンを食べて風呂に入ってさっさと寝てしまった。
翌朝、目が覚めたら杏奈は帰って来ていた。だが、寝ているのでそのまま起こさず、俺はこしあんのあんパンを食べて家を出た。結局、喧嘩したままで話すらせずに、出勤したのだ。
「はあ……」
昼休みに社員食堂で食事中、俺は杏奈との喧嘩を思い出してため息を吐いた。
「どうしたんだよ。ため息なんか吐いて」
一緒に昼飯を食べていた同期の吉竹が聞いて来た。
「彼女と喧嘩したんだよ」
「あのいつも明るい彼女とか? 何が原因で喧嘩したんだ?」
吉竹は何度か杏奈と会っている。機嫌の良い時しか知らないので、喧嘩が意外だったのだろう。
「実はな……」
俺は昨晩の喧嘩の成り行きを話した。
「くだらねえ理由だな」
「うっ……」
確かに思い返すと、自分でもくだらないと思うので、言葉が出ない。
「彼女の好みを忘れて、全部こしあん買って行ったお前が悪いんだろ。さっさと謝っちまえよ。こんなことで別れる気は無いんだろ?」
「うん、まあな……」
確かにこんなことで別れたくはない。
「今日は粒あんのを買って帰れば良いんじゃないか」
「ええっ……俺のプライドが……」
「こしあんに何のプライドがあるんだよ。仲直りするにはそれしか無いだろ。病気の時に付きっ切りで看病してくれた彼女を、そんな馬鹿な理由で失うつもりか?」
去年、俺が新型コロナに罹った時に、杏奈は自分の身も顧みずに看病してくれた。お陰でどれだけ心強かったか。
「そうだな。粒あんを買って帰るよ。アドバイスありがとな」
俺は吉竹のアドバイスに従うことにした。
「ただいま……」
俺は帰りに袋一杯の粒あんのあんパンを買って帰った。まだ杏奈が怒っているかも知れないので、ゆっくりとドアを開け、恐る恐る帰宅の挨拶をした。
「お帰り」
奥から出て来た杏奈は、ぎこちない笑顔で迎えてくれた。その表情からは、まだ怒っているのかどうか分からない。
「昨日は全部こしあん買って来た俺が悪かったよ。ごめんな」
俺は素直に頭を下げた。
「ううん、私が短気を起こしたのが悪かったの。私の方こそごめんね」
杏奈も頭を下げてくれた。ホッとして緊張していた体の力が抜けた。
「これ、買って来たんだ」
俺は杏奈にパン屋の袋を差し出す。
「これ、粒あんの……」
杏奈は袋の中を見て驚く。
「こっちに来てみて」
杏奈は俺の手を引いてダイニングに連れて行った。
「ああっ、これは……」
ダイニングテーブルにはこしあんのあんパンが一杯並んでいた。
「実は私も買って来たの……」
申し訳なさそうに、そう言う杏奈の顔を見ていると、可笑しくて噴き出してしまった。
「もう買って来るなら言ってくれれば良いのに」
杏奈は照れ隠しのように、笑いながら文句を言う。
「杏奈こそ言ってくれれば良いだろ」
俺も笑いながら文句を言った。
「今日の晩御飯はあんパンね」
「仕方ないな。こしあんと粒あん、平等に食べるか」
「うん!」
杏奈は笑顔で頷いた。
十年以上ぶりに食べた粒あんは意外に美味しかった。杏奈もこしあんを美味しそうに食べている。
こんなくだらないことで、大切な人を失わなくて良かったと、杏奈の笑顔を見て思った。
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