第178話 三月二十七日はさくらの日
日本さくらの会が、一九九二年(平成四年)に制定した日で、日本を代表する花である桜への関心を高め、花と緑の豊かな国土を作ろうというのがその目的。
七十二候の中に「桜始開」とある時期であり、「咲く」の語呂合わせ三×九=二十七であることから三月二十七日となった。
「綺麗ね……」
桜を見上げてそう呟いた
俺は妻の紗英と一緒に、桜を観に公園まで来ている。交際期間が一年、結婚して三年になるが、毎年の恒例となっている行事だ。
俺達の花見は、桜の木の下でお弁当を食べてと言うような一般的なものでは無い。三十分位、公園内の桜の木を観ながらゆっくりと歩いて回るだけ。その間はいつもより会話も少なく、それぞれがある人を想いながら回っている。俺達にとってお墓参りのような行事なのだ。
紗英は前夫と死に別れ、俺とは再婚となる。前夫の
俺と亨は中学の野球部仲間で、同じ高校に進学した。高校でも一緒に野球部に入り、共に汗を流した仲だ。
紗英はその野球部のマネージャーで、俺達は入部した時に初めて出会った。いつも真面目に一生懸命マネージャーとしてサポートしてくれる紗英を、俺はすぐに好きになった。だが、それまで女子と付き合ったことの無かった俺は、すぐに気持ちを伝えることが出来なかった。
そんなある日。
「俺、マネージャーのことが好きなんだ」
部活の帰り道に、亨から打ち明けられた。
「そうなのか!」
俺は驚いたが、照れながら気持ちを打ち明けてくれた亨の顔を見ていると、自分の気持ちが打ち明けられない。結局、俺は亨を応援することになり、ほどなくして二人は付き合い始めた。
亨と紗英は相性が良かったのか、凄く仲の良いカップルになった。部内でも公認で、みんなに祝福されていた。俺も内心は辛かったが、二人の前では気持ちを隠し続けた。
高校を卒業して大学に進学しても、俺達の関係は変わらなかった。相変わらず亨と紗英は仲の良い恋人同士だったし、俺は二人の親友として付き合い続けた。時々、彼女のいない俺を心配して、紗英の友達を紹介してくれたが、俺はその気になれなかった。まだずっと紗英のことを想い続けていたのだ。
亨が桜が好きだったこともあり、俺達は毎年花見に出掛けた。遠慮して二人で行けと俺は毎回言っていたのに、この花見だけは亨の希望で必ず三人で行っていた。花見は人数が多い方が楽しいかららしい。
亨と紗英は、大学を卒業して就職したらすぐに結婚した。俺はまだ紗英が好きだったけど、二人の結婚を心から祝福した。もう自分の想いに決着を付けたかったのだ。二人が結婚して子供も出来て、自分の手の届かないくらい幸せになって欲しい。俺の想いなど消えてなくなるぐらい二人に幸せになって欲しかった。
俺の願いは叶うかと思われた。だが、二人が結婚して一年目の冬の日、三人にとって忘れられない出来事が起こってしまった。亨が交通事故で死んでしまったのだ。
俺は人生で初めて、人の死で泣いた。たった一つだけは打ち明けられないことがあったが、それ以外は何でも相談出来る心からの親友だった。
俺は失意のどん底に落ちていたが、それ以上に紗英は自分を失っていた。彼女は亨の死を受け入れられず、悲しむことすら出来ずに魂が抜けてしまったようだった。呆然としたまま生気の無い顔で立っているだけ、喪主を務めることも出来ず、感情を露わにしたのは、亨の棺桶の蓋を閉める時だけ。その時だけは狂ったかのように取り乱して、蓋をするのを阻もうとしていた。
葬式も終わり、数日経っても紗英の状況は変わらなかった。心配した両親が実家に住まわせ、様子を見ていても改善する様子が無かった。俺も暇が有ったら紗英の実家に顔を出した。だが、紗英が笑顔になることは無かった。
春になり、俺は思い切って紗英を桜の花見に誘った。かなり強引だったが、紗英の両親の後押しもあり、何とか連れ出すことに成功した。
「桜が綺麗だね」
隣で歩く紗英に俺が話し掛けると、彼女は夫の死後初めてかも知れない様子で上を向いた。
「綺麗……」
上を向いて桜の花を見ている紗英の瞳から涙の雫が落ちる。
「亨もきっと観ていると思うよ」
俺がそう言うと、紗英は涙を拭って頷いた。
その花見以降、紗英は少しずつ自分を取り戻して行った。俺も紗英の元に足繫く通い、自然な形で付き合いが始まった。
亨の死後二年が経った。俺達は一緒にお墓参りして、結婚の報告をした。
念願だった紗英との結婚だったが、俺は手放しには喜べなかった。心のどこかで亨に後ろめたい気持ちを持っていたのだ。それに、俺と紗英の間にはいつも亨の影があった。それを俺は排除する気も無かった。むしろ俺の方から話題にすることもあった。亨の存在を排除しないことで、彼に対する罪悪感を薄めようとしていたのかも知れない。
紗英と二人だけの花見をした夜、俺は夢を見た。夢に亨が出て来たのだ。
「久しぶり。今年も桜が綺麗だったな」
亨は生前と変わらぬ笑顔で俺に話し掛けてくれた。
「お前も一緒に居たのか?」
「ああ、と言うか、俺はいつも二人と一緒に居るよ」
「そうなのか!」
俺は亨の言葉を聞いて、押さえ付けていた罪悪感が心の底から湧いてきた。
「すまん、俺はお前を裏切って、紗英を自分の物にしてしまったんだ」
俺は頭を下げて謝った。
「いや、謝るのは俺の方だよ。実は俺はお前の気持ちに気付いていたんだ。でも紗英を諦めることが出来ずに、先に告白してお前を諦めさせようとしたんだ。事故で死んだのは罰が当たったんだよ」
「もしそうだったとしても、お前と付き合って紗英は幸せそうだった。俺が手を出せないくらいに。俺は心から、このまま二人が幸せであってくれと願ってたよ」
それは俺の本心だった。
「ありがとう。本当にお前には感謝してるよ。俺が死んでからも、紗英を立ち直らせてくれた。後はもう俺を忘れて二人で幸せになってくれ。俺の思い出と一緒に暮らすのではなく、二人の幸せを築いて欲しいんだ。俺ももう旅立って行くよ」
「何を言ってるんだよ。俺達がお前を忘れられる訳は無いだろ」
「でも、それが俺の願いなんだ」
「嫌だ! いくらお前の頼みでも、それは断る。お前は俺と紗英の家族なんだ。これから子供が生まれ、孫が出来たとしても、俺と紗英はお前を忘れはしない。永遠の友達なんだから」
俺は夢の中にも関わらず、今までで一番多くの涙を流していた。
「ありがとう。お前は本当に優しいな。俺にとっても、永遠の友達だよ……」
亨は笑顔でそう言うと、目の前から消えて行った。
目が覚めても、夢の興奮状態がすぐに戻らず、心臓がドキドキ高鳴っていた。
寝室を出て顔を洗い、ダイニングに行くと、紗英が朝食を用意してくれていた。
「おはよう」
「おはよう」
俺が挨拶すると、紗英も返してくれる。だが、その表情が暗い感じがして気になった。
席に座って一緒に朝食を食べ始めようとしても、紗英の表情は暗いままだ。
「どうかしたの?」
俺がそう言っても、紗英は言い出しにくいように、なかなか口を開かない。
「体調が悪いの?」
「ううん、違うの。ちょっと夢を見て……」
「夢?」
俺も自分が見た、亨の夢を思い出した。
「夢に亨君が出て来て、二人が幸せになってくれて嬉しい。後は俺のことを忘れてくれって言われたの」
「俺のことを忘れてくれって……」
俺に言ったことと同じだ。亨は紗英にも言っていたんだ。
「それで私、嫌だって答えたの。亨君を忘れることが出来ないって。ごめんなさい。もうあなたと結婚しているのに、亨君を忘れることが出来ないの」
紗英は泣き出した。俺に対する罪悪感で押し潰されそうなんだろう。
「謝らなくても良いよ。俺の夢にも亨が出て来たんだ」
「ええっ、あなたの夢にも?」
「ああ、亨は俺にも同じこと言ってたよ。俺のことを忘れて、二人で幸せになってくれってね」
俺の言葉を聞いて、紗英は驚いて声が出ない。
「俺も言ってやったんだ。お前を忘れることなんて出来ない。お前は俺と紗英の家族なんだって」
「家族って……あなたはそれで良いの?」
「良いに決まってるさ。亨は俺の親友だからな。これからも亨が見守ってくれているよ。三人で仲良く暮らして行こう」
「ありがとう!」
紗英は席を立って、俺に抱き着いて来た。
これからも桜の季節は巡ってくるだろう。次に行く時には、亨の思い出話をしながら、笑顔で花見をしようと思った。
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