第175話 三月二十四日は恩師の日(「仰げば尊し」の日)
京都府八幡市の山中宗一氏が制定。
学校時代の先生はもちろん、人生の中で師と仰ぎ「恩師」と呼べる人に、唱歌『仰げば尊し』の歌詞のような感謝の気持ちを込めて、お礼の手紙を書く日に。恩師への感謝の思いを忘れることなく生きて行こうとの願いが込められている。
日付はこの頃に卒業式が各学校などで行われることから三月二十四日とした。
卒業シーズンに仰げば尊しを聴くと思い出す、俺の高校時代の恩師の思い出。その恩師は柔道部の顧問だった。
高校に入学するまでの俺は最低の人間だった。根性が無く、少し苦しくなると投げ出して逃げる。仮病で学校を休むのは当たり前。何一つ続けているものは無かった。
高校で運動部に入るつもりは無かったのだが、同じ中学出身の先輩から声を掛けられ、つい入部してしまった。根気も根性も無いくせに、深く考えずにことを始めるのは俺の悪い癖だ。
指導を受けた顧問の宮田先生は厳しかった。公立高校だったので部員自体は特待生など居らず、みんな初心者程度の人間ばかりだった。だが、先生は柔道界ではエリートに分類される人間だったのだ。
先生の出身大学の柔道部はオリンピック選手を何名も輩出している名門校で、しかもそこのキャプテンだった。実際オリンピック経験者から「先輩」と呼ばれているのを見たことがある。そんな人がなぜうちの学校の顧問をしているか謎だったが、事実俺は指導を受けていた。
「お前たちは今のところ、県内で一番弱い。だが一年経ったら、それなりのチームに育ててやる」
先生の言葉に間違いは無かった。三年生は県内でも上位に入れるメンバーだったが、その先輩たちが引退した後に残った一、二年生は自分たちで言うのもなんだが、黒帯が一人しかいない、高校の柔道部とは思えない程レベルの低いメンバーだった。
高校の運動部の練習は、俺の想像以上に過酷だった。まだ一学期の間は良かった。俺にもまだやる気が有ったし、練習自体も体作りがメインだったから。だが夏休みに入って三年生が引退してからは、毎日逃げ出したくなるキツイ練習が続いた。
あまりに練習が辛いので、とうとう俺の弱い心が悲鳴を上げ、もう逃げ出すしかないと思った。
俺は練習前に体育教官室に居る宮田先生に、退部したいと申し出た。理由を何と言ったかは覚えていない。辛いとかじゃなく、家族のこととか適当な理由を言ったと思う。先生が何と答えたのかも覚えていない。ただ最後に言った言葉だけは三十年経った今も覚えている。
「お前は辞めたら絶対に人間として駄目になる。だから絶対に辞めさせない。辞めると言っても毎日お前の家に迎えに行くからな」
今から思えば、そんなことが出来る筈ないと分かるのだが、あの時は逃げられないと思った。辞めたい、逃げたい気持ちは変わらなかったが、それ以上に、これだけ言われてまだ「辞めます」と言う勇気が無かった。
結局、退部願いは撤回して、部に残った。その後も過酷な練習でしごかれ、毎日のように逃げたいと思っていたが、もう一度「辞めたい」と言い出せずに、結局引退の日まで続けてしまった。
最後の試合が終わった時には、同学年の仲間と一緒に泣いた。最後まで続けたことにより、心から気持ちを共感できる仲間が出来たのだ。あの時、もし先生がすんなりと退部を了承していたら、俺は高校の三年間をどう過ごしていただろうか? 想像するだけでも恐ろしい。きっと無駄な日々を過ごしていたと思う。
過酷な部活動だった。泣きたくなるほど辛かった。でも、一つ一つが大切な宝物のような思い出だ。
俺は途中で投げ出さなかったことにより、自信を持った。それがその後の生き方に、大きな影響を与えている。
宮田先生には感謝しかない。
あの時引き留めてくださって、ありがとうございます。三年間、才能も無い俺達を、三回戦までは勝ち残れるチームに育てて頂いてありがとうございます。
俺は辛いことがあったら、あの高校時代の暑苦しい柔道場を思い出しています。あの時に比べれば、今のピンチなんて全然大したこと無いと思えるからです。
先生、いつまでもお体に気を付けて、後輩のご指導をお願いいたします。
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