第172話 三月二十一日は催眠術の日

 催眠術をかける時のかけ声「三、二、一」から。



「お母さん、サイミンジュツかけても良い?」


 リビングで本を読んでいた小二の娘の愛理が、キッチンで夕飯の準備をしようとしていた私のところにやって来てそう言った。


「えっ、催眠術? そんなの出来るの?」

「うん、本を読んで出来るようになったから、お母さんにかけさせて」

「駄目よ。催眠術なんてやめてよ。絶対に駄目」

「ええっ……」


 愛理は泣きそうなくらいガッカリする。


「もー、じゃあお母さんに試しても良いけど、他の人には絶対にかけちゃ駄目よ。約束できる?」

「うん!」


 愛理は途端に笑顔になった。

 催眠術をかけられるとは思わないが、今は何かと文句を言ってくる人もいるから、注意しなきゃね。


 愛理は私から五円玉を借りて準備を始める。

 準備が終わったら、愛理は私を正座させて目の前に立った。


「さあ、この五円玉を見てください」


 愛理はそう言うと、私の目の前で五円玉を左右に揺らす。


「あなたはだんだんまぶたが重くなる……」


 真剣な愛理が可愛いので、私は瞼が重くて目を開けていられないって感じの演技をした。

 それを見た愛理は小さな声で「やった」と呟く。


「はい、まぶたがドンドン重くなって目が開けられなくなります……」


 私は言われた通り、目をつぶった。


「じゃあ、三、二、一と言ったら、ゆっくりと目を開けてください。三、二、一、はい」


 催眠術に掛かった振りをして、目をゆっくり開ける。目の前では愛理が目をキラキラさせて私を見ていた。


「えーと、あなたがいちばん好きな人はだれですか?」


 あら、可愛い質問。


「オ母サンガ好キナ人ハ、愛理デス」


 私がロボットのような口調でそう答えると、愛理は凄く嬉しそうな表情を浮かべる。


「あっ、お父さんは? お父さんはどうですか?」


 急にお父さんの存在を思い出したのか、愛理は慌てて聞いて来る。


「オ父サンハ、愛理ノ次ニ好キデス」


 私がそう答えると、愛理はホッとしたような顔になった。


「じゃあ、これから愛理は毎日テレビを二時間みても良いですか?」

「ソレハ駄目デス。愛理ガ本ヲ読ンダリ、オ勉強スル時間ガ無クナッタリスルト困ルカラ駄目デス」

「ええっ……」


 この子は催眠術に何を期待してたんだろうか?


「じゃあ、これからはご飯のおかずに、ニンジンを入れないでください」

「ソレモ駄目デス。お母さんは愛理ノコトガ大大大好キナノデ、愛理ガ健康デ元気ナ大人ニナレルヨウニ、ニンジンハコレカラモ入レマス」

「そうか……」


 愛理は悲し気な表情になる。

 ガッカリしたかも知れないけど、良いよね。何でも催眠術で上手く行くと勘違いさせても駄目だろうから。


「じゃあ、三、二、一と言ったら、サイミンジュツはなくなります。三、二、一、はい!」

「あっ、私どうしちゃったんだろ? 催眠術かかってた?」


 私はお芝居して愛理に尋ねた。


「うん……」

「どうしたの?」


 愛理は何か言いたそうな顔をしてる。


「お母さんは愛理に健康な大人になってほしいの?」

「うん、そうだよ。お母さん愛理が大好きだからね」

「じゃあ……これからはニンジンも食べます」

「ありがとう。愛理は本当に良い子ね」


 私は愛理を抱きしめた。


「愛理もお母さんが大好きだよ」

「うんうん」


 私は愛理の頭を優しく撫でた。

 可愛いな。愛理は本当に可愛いな。これからもずっと可愛い愛理でいてね。

 私は愛理を抱きしめながら、そう願った。

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