第171話 三月二十日は電卓の日

 日本事務機械工業会(現 ビジネス機械・情報システム産業協会)が一九七四(昭和四十九)年に、日本の電卓生産数が世界一になったことを記念して制定。

 一九六四(昭和三十九)年三月十八日にシャープが国産初の電卓を発売したことを記念し、記念日は覚えやすいように三月二十日とした。



 お母さんと一緒に家の中を整理していたら、リビングの引き出しから古そうな電卓が出てきた。割と大き目な物で、四則演算機能だけのシンプルな電卓だ。


「お母さん、こんな電卓出てきたよ。使って無いなら捨てる?」


 私はお母さんに電卓を見せて、捨てるかどうか聞いた。


「ああ……そうねえ……」


 お母さんはいつもはハッキリとした物言いする人なのに、なぜか歯切れが悪い。


「何? 捨てたくないの?」

「これ、私がOL時代に使ってた思い出のある電卓なの」

「電卓が思い出なの?」

「お母さん、こう見えても社内で一番電卓が早くて正確って言われてたのよ」

「ホントに? 凄いじゃない。やって見せてよ」


 平凡な専業主婦と思っていたお母さんの、働いていた頃のことに私は興味を覚えた。


「ええっ……」

「お願い。お母さんの働いてた時のことを知りたいの」

「分かったわ。でももう長い間電卓を触ってないから、上手に出来ないかもよ」

「それでも良いから」


 気が進まない様子のお母さんを説得して、電卓の実力を見せて貰うことになった。



 私が紙に四桁の数字を十個書き出し、お母さんに計算して貰うことにした。問題は事前にエクセルに入力して答えは分かっている。


「じゃあ、行くわよ」

「お願いします」


 お母さんは一番最初の数字に左手の人差し指を当てたかと思うと、右手の電卓は見もせず、ブラインドタッチで入力して行く。一つの数字の入力が終われば人差し指は次の数字に移るのだが、その指が止まることが無い。右手の入力スピードが早いので、左手の人差し指はスライドしているだけなのだ。


「はい、四万八千五百九十一」

「正解! 凄いよお母さん!」


 私は素直に、お母さんを凄いと思った。


「まあ、全盛期ほどでは無いけどね」


 お母さんは得意げにそう言った。


「じゃあ次は五桁で二十個の数字を計算してよ」

「ええっ……ボロが出る前にやめさせてよ」

「じゃあ、これで最後で」


 難易度を上げてもう一度試して貰ったが、結果は同じ。お母さんはアッという間に計算してしまった。


「結婚前ね、同じ会社だったお父さんは、電卓が苦手だってよく計算を頼んで来たのよ。それでお礼をするって、食事を奢ってくれたりしてね。計算をして貰いたかったのか、一緒に食事をしたかったのかは、分からないけどね」


 お母さんは少し照れながら、笑顔でそう言う。


「お父さんもやるね!」

「あっ、お父さんには内緒にしてよ」

「はいはい、分かってるって」


 今日はなんだかお母さんが凄く近くに感じる。


「この電卓は残しておく方が良いんじゃない」

「そうね。そうするわ」


 そう言った、お母さんの顔は幸せそうだった。きっとお母さんはまだお父さんと恋愛中なんだ。そんな両親を、私は誇らしく思った。

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