第155話 三月四日はミシンの日
ミシン発明二百年を記念して日本家庭用ミシン工業会(現在は日本縫製機械工業会)が一九九〇(平成二)年に制定。
「ミ(三)シ(四)ン」の語呂合せ。
イギリスのトーマス・セイントが世界で初めてミシンの特許を取得したのは一七九〇(寛政二)年だった。
「ミシン」という名前は、 sewing machine(裁縫機械)のmachineがなまったものである。
私は幼い頃、深夜に母が掛けるミシンの音が嫌いだった。
うちは私が小学校に上がる前に両親が離婚して、母子家庭だった。母はパートを掛け持ちして私を育ててくれた。でも、私は小学校の中学年になる頃には、自分の家は貧乏なんだと自覚があった。友達が親から買って貰える物でも私は全然買って貰えなかったからだ。
洋服もそうだ。私はあまり新品の洋服を買って貰えなかった。母が誰かから貰ってきたお古の洋服をリメイクして、新たなスカートなどにして着せてくれていたからだ。私はそれらの服が凄く嫌だった。別にデザインや形がカッコ悪かった訳じゃない。お古のリメイクという事実がとても貧乏くさく感じたからだ。だから私は、洋服をリメイクしている母の掛けるミシンの音が嫌いだったのだ。
嫌いだからと言って、幼い私がその服を拒むことは出来ない。私は我慢して、それらを着て小学校に通っていた。
小学四年生になって、学校に香川と言う若い女性の先生が転勤して来て、私のクラスの担任になった。香川先生は美人で明るく、分け隔てなく優しく指導してくれて、すぐに児童の人気者になった。男子も女子も休み時間になると、先生が職員室に帰れないぐらい周りに集まり、話をするのに夢中だった。私もその輪の中に加わり、先生とお話がしたかったが出来なかった。自分の着ている服が惨めに感じて、話し掛ける勇気が出なかったからだ。
ある日の休み時間、廊下を歩いていると前から香川先生がやって来た。
「大下さん、そのスカートは手作りなの?」
先生は私の前に立ち止まると、そう聞いてきた。私は内心ドキッとした。香川先生にこの惨めなスカートのことで何か言われるのかと思ったからだ。
「は、はい……」
私は消え入りそうな声で答えた。
「そうなの! 凄く素敵なスカートね。お母さんが作ってくれたの?」
「は、はい、そうです……」
私は先生の言ってることの意味が良く分からなかった。褒められるとは思っても無かったので、すんなりと言葉の意味を受け取れなかったのだ。
「前から大下さんの着ている服はセンスが良いと思ってたの。そうか、お母さん服を作るのが凄く上手なんだね」
「あっ、でもこれお下がりで貰った服で作ったんです。だからその……」
「だから良いのよ。だってこのスカートは世界でたった一つしか無いのよ。大下さんだけが持っている素敵なスカートなの」
私は目からうろこが落ちる気がした。私が貧乏くさくて惨めだと思っていた服たちは、世界でたった一つしか無い、貴重な一品だったんだ。
「こんな素敵な服を作ってくれるお母さんに感謝しなくちゃね!」
「はい!」
私は心から嬉しくて、大きな声で答えた。
学校から帰宅して、お母さんが戻って来るまでがとても長く感じた。
「ただいま」
「お母さん、お帰り!」
夜になってやっと帰って来たお母さんに、私は駆け寄って出迎えた。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「今日ね! 香川先生が素敵なスカートだって褒めてくれたの!」
「そうなの。良かったね!」
私が喜んで報告すると、母も嬉しそうに応えてくれた。
「それから、今までの服も素敵だって。お母さんはセンスが良いって言ってくれたのよ!」
「お母さんそんなこと言われたの初めてよ。嬉しいわ」
「それから、あのね……いつも服を作ってくれてありがとう。これからもお願いします」
私はそう言って頭を下げた。
「もう……」
お母さんはそう言って、私を抱きしめた。
お母さんがそれ以上何も言わなかったのは、後になって思えば泣いていたのかも知れない。
その日以降、私は堂々とお母さんが作ってくれた服を着て学校に行った。負い目が無くなり明るくなったからか、友達も増えた。
あれからもお母さんは夜ミシンを掛けていたが、その音はもう嫌な音ではなく、むしろ楽しい音に感じた。
あれから二十年の月日が流れた。今、私は洋服のデザインに関わる仕事に就いている。あの日スカートを褒めてくれた香川先生と、仕事も大変だったのに服を作ってくれた母のお陰だ。二人には心から感謝している。
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