第145話 二月二十二日は猫の日

 英文学者の柳瀬尚紀氏らによる「猫の日制定委員会」が一九八七(昭和六十二)年に制定。ペットフード工業会が主催。

 「ニャン(二)ニャン(二)ニャン(二)」の語呂合せ。全国の愛猫家からの公募でこの日に決まった。



 朝、目が覚めると、布団の中で俺はネコになっていた。

 可愛らしい両手と両足、ぷにぷにした肉球や黒く短い毛に覆われた体。顔だけ人間とか不気味な姿じゃ無きゃネコになっているとしか考えられない。


「ミャーッ」

由希(ゆき!)


 俺は助けを求めて妻の名を叫んだが出てきた声は、可愛いネコの泣き声だった。


「ミャーッ」

(由希!)


 もう一度叫んだが声は同じ。妻も姿を見せないので、仕方なくトコトコ寝室を出てダイニングに向かった。奥のキッチンの方から由希の気持ちよさそうなハミングが聞こえてくる。俺は夫婦二人で使うテーブルの周りを歩いてキッチンに向かった。

 視線が低い。全ての物が前日と同じなのに圧迫感が違い過ぎる。朝食を準備している由希が巨人のように見える。


「ミャーッ」

(由希!)


 俺は由希の足元でもう一度叫んだ。由希は「あらっ」と俺に気付き、抱きかかえる。


「優君ご飯もう少し待っててね。私の分が出来たら、あなたのも出してあげるから」


 どういう事だ? 由希は俺の姿を見ても驚いた様子が無い。優君は俺の呼び名だ。俺という事が分かっているのに驚かないとは何故なんだ?

 彼女は俺を床に降ろすと、またハミングしながら朝食の準備を続けた。


「ミャーミャーミャー! ミャーミャーミャーミャー!」

(おい、どうしたんだ! 俺はネコになってしまったんだぞ!)

「もう! そんなにお腹が空いたの? 仕方ないわね」


 由希はどこからかキャットフードの袋とお皿を持ってきて、少し離れた場所に用意してくれた。


「はい、どうぞ」

「ミャーミャー、ミャーミャー」

(いや、違うんだ、俺の姿をみてくれ……)


 俺の訴えを無視して由希はキッチンに戻った。どうやら彼女にとって、俺がネコなのは普通の事らしい。俺は苛立った気持ちになったが、気が付くと無意識に毛づくろいしていた。

 その時、俺のお腹がグウーと鳴った。そう言えば凄くお腹が空いている。

 俺は目の前にあるお皿に顔を近付けた。お皿の中には様々な色の小さな粒が入っている。これがカリカリと呼ばれている物なのか? 匂いを嗅ぐと案外おいしそうだ。勇気を出して食べてみるとそれなりに美味しかった。

 昨日の夜、俺は由希と喧嘩した。喧嘩した理由は、思いだせないくらいつまらないものだ。最近はいつもそう。お互い相手の気に入らないところを見つけると必要以上に指摘し、喧嘩に発展する。

 一年前は良かったなあ。結婚して一緒に暮らし出し、こんな幸せは他にはないと思えた。

 今は顔を見れば喧嘩になってしまう。いつからこうなってしまったんだろうか?

 俺はカリカリを食べながら考えていた。

 カリカリを食べ終えた俺は、テーブルで朝食を食べている由希の足元に近付き「ミャー」と声を掛けた。


「もう食べ終わったの? ちょっと待っててね。食べ終わったら遊んであげるから。今日は休みだから一日中遊んであげる」


 由希は俺を抱き上げてそう言うと、チュッとキスをしてくれた。

 こんな笑顔は久しぶりに見た気がする。

 明るい茶系のショートカット。付き合い出した頃は黒髪ロングだったんだが、俺の好みに合わせて変えてくれたんだ。

 笑顔の由希が愛おしくなり、俺は彼女の顔をペロリと舐めた。彼女もお返しにもう一度キスしてくれて俺を床に降ろした。

 由希にかまって欲しくて、俺は彼女が洗い物をしている間もずっと足元にまとわりついた。


「はい、お待たせ。何して遊ぼうか?」


 由希はそう言って優しく撫でてくれた。気持ち良くて自然と喉がゴロゴロ鳴る。

 由希は疲れる事無く、おもちゃを使ったりしてずっと俺と遊んでくれた。楽しそうな由希をみていると、俺も嬉しくなり「ミャーミャー」歓声を上げながら遊んだ。

 いつ以来だろうか、こんなにも笑顔の由希と一緒の時間を過ごすのは。

 喧嘩の理由を思いだした。由希が明日は休みだから、どこかへデートに出掛けようと言ったのに、俺が疲れているからと断ったのだ。

 喧嘩の理由はつまらないものじゃなかった。二人にとって大切な事だったんだ。こんなに可愛い由希を見られるのなら、デートに行けば良かった。

 結婚して一緒にいるのが当たり前になると、少しずつお互いに相手を尊重する気持ちが無くなってきていた。由希がデートを提案してきたのも、このままじゃ駄目だと思ったからだろう。

 反省しなくちゃいけない。由希の笑顔が久しぶりなのも、俺が笑顔になれるような態度をしてこなかったからだ。


「一杯遊んだね。ちょっとお昼寝させて。また午後から遊んであげるから」


 着替えて布団に入った由希を追って、俺も布団に潜り込む。


「今日は甘えんぼさんね」


 由希はそう言って、笑顔で抱きしめてくれた。

 俺も喉をゴロゴロ鳴らしながら、胸に顔を埋めた。

 人間に戻りたい。人間に戻って由希と愛し合いたい。

 俺はそう願いながら眠りに落ちた。



 どれぐらい眠ったのだろうか? 俺は目を覚まし上半身を起こした。

 えっ?

 俺は自分の行動に驚いた。

 上半身? 体が戻ってる。人間に戻ってる。

 俺は人間に戻ったんだ!


「ミャー」


 喜んでいる俺に一匹のネコが体を摺り寄せてきた。茶トラの可愛いネコだ。


「由希」


 俺はネコになった由希を抱きかかえ優しく撫でた。由希も気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。


「午後からは俺が目一杯遊んであげるよ。これからはずっとずっと一緒にいような」


 俺が由希にキスをすると、彼女も俺の顔を舐めてくれた。

 由希としたキスに、これからずっと続く幸せの予感がした。

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