第143話 二月二十日はアレルギーの日
日本アレルギー協会が一九九五(平成七)年に制定。
一九六六(昭和四十一)年のこの日、免疫学者の石坂公成・照子夫妻が、ブタクサによる花粉症の研究からアレルギーを起こす原因となる免疫グロブリンE(lgE)を発見したことを発表した。
ああっ、今年も来やがった、と俺は思った。
鼻がムズムズして、俺は大きなくしゃみをしてしまう。今年もやっぱり花粉症が来てしまったのだ。
一度出ると鼻が触発されるのか、俺は二度三度とくしゃみを連発してしまった。
「今年も花粉症ですか? 大変ですね~」
隣の席に座る田所がニヤニヤしながら、からかい半分でそう言って来る。奴は花粉症を発症しておらず、毎年こんな風に冷やかしやがるんだ。
「毎年なんで慣れてるよ」
「慣れたって言ってる割には苦しそうですね。ねえ、紗耶香ちゃん」
田所が俺の向かいに座る藤村紗耶香さんに声を掛けた瞬間、彼女は「クシュン」と可愛いくしゃみをした。
「私も花粉症になったかも知れません。今朝から鼻がムズムズして、くしゃみを何回もしているんですよ」
「ええっ! 紗耶香ちゃんも花粉症になっちゃったの?」
田所は藤村さんの言葉に驚く。彼女も花粉症になった為か、田所はそれ以上何も言わなかった。
俺は所員が六名の小さな営業所で働いている。規模は小さな営業所だが、本社管轄なので、藤村さんを除く他の五人は本社に籍を置いている。藤村さんだけは営業所で採用した契約社員だ。
藤村さんは営業所で一番年下の紅一点で、いつも元気で明るく、見ているだけで癒される。田所も営業所に転勤してからは、都落ちだとしょげていたが、藤村さんが入ってからは元気を取り戻した。きっと田所は彼女を狙っているのだと思う。何度も食事に誘っている場面を見たことがあるから。
そう言う俺も、内心藤村さんに好意を抱いている。だが、三十歳の現在まで、彼女いない歴イコール年齢の俺は、田所のように積極的に彼女に話し掛けたり、食事に誘ったり出来なかった。
仕事が終わり、俺は花粉症の薬を買いに、駅前のドラッグストアに行った。会社の最寄り駅の前にあるドラッグストアは、帰宅前に寄れるので毎年ここで薬を買っていた。
店内に入ると、入り口すぐの特設コーナーに藤村さんが立っていた。
藤村さんの姿を見て、俺は一瞬立ち止まってしまう。声を掛けるべきか迷ったからだ。ここで話し掛けないのは逆に不自然だろう。でも、何と言って声を掛ければ良いんだ?
俺はふと、藤村さんが立っているのは花粉症対策商品の特設コーナーだと気付いた。
「お疲れさん。花粉症の薬を探しているのかい?」
「えっ!」
藤村さんは急に声を掛けられたからか、驚いた声を上げた。
「あっ、ごめん、驚かすつもりは無かったんだ」
「いえ、急に声を掛けられたから驚いちゃって。お疲れ様です!」
藤村さんは俺だと分かると、笑顔で挨拶してくれた。本当に明るい良い娘だ。
「花粉症の薬を探してるの?」
「そうなんですよ。今年初めて花粉症になったんで、どの薬が良いのか分からなくて」
「そうか……」
俺は自分が使っている薬を手に取った。
「この薬は一日二回服用って書いてあるけど、仕事前に一回飲めばその日は大丈夫だよ。後は……」
俺はあると助かる薬やグッズを二、三選んで、藤村さんに勧めた。
「ありがとうございます。やっぱり川田さんは仕事でも花粉症でも頼りになりますね」
藤村さんは笑顔でお礼を言ってくれた。たぶん、社交辞令なんだろうけど、嬉しかった。
「何でも分からないことがあれば相談してよ」
「ありがとうございます!」
この出来事が切っ掛けとなり、俺は藤村さんと気安く話が出来るようになった。
そんなある日、帰宅しようと駅に向かっていると、藤村さんが個人経営の食堂の前で中を覗いていた。その食堂は俺も行ったことがある。安くて美味しいのだが、若い女性が一人で食事する雰囲気の店ではない。
「藤村さん」
「えっ!」
十分に声を落として話し掛けたつもりだったが、また驚かせてしまった。
「この店に入るの?」
「あっ、いや……」
藤村さんは気まずそうな表情を浮かべる。
「ここ、安くて美味しいよね」
「川田さん、ここで食べたことがあるんですか?」
「うん、何度か。藤村さんはここで食べたことが無いの?」
「ええ、まあ……」
「じゃあ、今から入ってみる? 俺も腹が減ってるし、今日は外食でも構わないかなって思ってたから」
「良いんですか? ありがとうございます! 一度入ってみたかったんですが、一人では勇気が出なくて」
藤村さんは俺の言葉を聞いた途端に、パッと表情が明るくなった。
「それは良かった。じゃあ、入ろう」
やった! 念願だった藤村さんとの食事だ。
店はカウンターのみで、俺達は並んで座る。藤村さんは俺が勧めた定食を食べて満足したようだ。
会計は俺が誘ったんだからと、割り勘にしてくださいと言う彼女を説き伏せて俺が払った。
「この後まだ時間がありますか? 食事のお礼に、カフェでお茶をごちそうさせて下さいよ」
ここは彼女の顔を立てて、奢って貰うことにした。
駅前のカフェに入り、食後のコーヒーを頼んだ。
「川田さんも、本社に戻りたいんですか?」
川田さんも、の「も」の部分が気になった。他に誰が戻りたいと言っているのか? 俺はそれが誰か分かっている。きっと田所だろう。あいつは事ある毎に、俺は本社に戻ると宣言しているから。
「俺は本社に戻りたいって希望は無いかな……。ここは都会ほど便利じゃ無いけど、のどかで気に入ってるんだ。良い町だと思ってるよ」
「そうですか。良かった……」
何が良かったか聞いてみたい気がしたが、それ以上を聞く勇気が無かった。でも、肯定的な言葉だよな。
その日以降、俺達はラインを登録して、プライベートの連絡を取り合うようになった。休日にはデートをしたり、これはもう付き合っていると言えるんじゃないかと思い始めた。
「すみません、ちょっと話したいことがあるんです」
ある日の昼休み。俺は田所に頼まれ、会社近くのカフェに行った。
「あの……大変言いにくいんですが、紗耶香に付きまとうのをやめて貰えませんか?」
「ええっ、付きまとうって……」
俺は田所の言葉に驚いた。
「彼女、会社の先輩だから断れないって泣いてるんですよ。八方美人的な性格してるから前から心配だったんですよね。これ以上彼女にちょっかい出すなら、ストーカーで訴えますよ」
「ちょっと待って。どうして俺と藤村さんのことをお前が知ってるんだ?」
「だって、紗耶香は俺の彼女だからですよ」
「えっ……」
俺は驚きすぎて絶句した。体が小刻みに震えている。
「警告しましたよ。もう彼女に連絡しないでくださいね」
田所はこう言って、席を立った。残された俺は、絶望で立ち上がることが出来なかった。彼女が泣くほど嫌だったんだと思うと、消えてしまいたくなった。
確かに藤村さんは、誰にも明るく接している。それを俺が勘違いしてしまったのか。
その後、藤村さんからラインで連絡が入って来たりしたが、既読無視し続けた。そうしたら、その内連絡が入って来なくなった。事務所内で会っても、業務連絡しか話さなくなった。
田所と話をした二週間後、仕事を終えて駅に向かうと、藤村さんが前に一緒に入った食堂の前で立っていた。俺と目が合っても何も言わず、ただじっと見つめ続けて来る。
どう見ても、俺を待っていたようにしか思えない。どうするべきか迷った。
「お疲れ様」
俺は藤村さんに近付いて挨拶した。
「あの、またこの店に、一緒に入って貰えませんか?」
いつも明るい彼女が緊張して、顔が強張っている。
どうして俺を誘うんだろうか?
「田所が心配して、俺に警告してきたんだ。もう君と連絡を取るなってね?」
「えっ、田所さんが?」
俺の言葉が意外だったのか、彼女は驚く。
「あいつと付き合っているんだろ? 俺がデートに誘ったのも断ることが出来ずに、君が困っているって言ってたぞ」
「まさか……私は田所さんとは付き合っていません。田所さんからのお誘いはみんな断っていたのに……」
「ホントに? あいつ、俺を騙したんだな」
まさかこんな卑劣な嘘をついてまで、俺と藤村さんとの仲を邪魔するとは思わなかった。
「あいつ、まだ会社に居たな。話をしてくる」
「私も行きます!」
俺達はまた事務所に向かった。
事務所の前に着くと、ちょうど田所が中から出て来たところだった。
「田所! お前、俺に嘘吐いたな!」
俺は田所の胸倉を掴んだ。
「やめてくださいよ! 警察を呼びますよ!」
田所は焦って、そう叫ぶ。
とその時、バチンと高い音が鳴った。俺達が揉めてる間を縫って、藤村さんが田所に平手打ちしたのだ。
「何をするんだ! 暴行罪だぞ!」
「私は全て会社に話します! あなたが執拗に私を誘って来たこと。ラインやメールが残っていますから、セクハラで訴えます!」
藤村さんは見たことが無いくらい怖い顔して叫んだ。
「どうしてだよ! こんなオヤジより、俺の方が出世出来るし、見た目も良いだろ?」
「川田さんは人に嫌味を言ったりはしません。いつも相手のことを考えて、優しい気持ちで接してくれます。それに私の生まれ育った場所を馬鹿にしたり嫌ったりしませんから。のどかな良い町だと言ってくれたんです」
こんな状況なのに、藤村さんは俺のことをちゃんと見ていてくれたんだと感激した。
「だから私は川田さんのことを好きになったんです!」
この告白には驚いた。彼女が俺を好きだったなんて。
誰かが呼んだのか、警察がやって来て事情を聞かれた。三人とも面倒なことにしたくは無かったから、仲間内のいざこざと説明して帰って貰った。もう、藤村さんの告白で、俺と田所は争う気持ちも抜けててしまって、それ以上揉める気持ちも無くなっていた。
「ありがとう。俺も藤村さんのことが好きだよ」
俺は藤村さんと駅に向かう途中で、彼女に気持ちを打ち明けた。
その後、俺達は付き合いだした。彼女とは五つも歳の差があるが、それを感じないくらい幸せだった。
そして、また春が来た。
「へっくしょん!」
俺はまた花粉症になり、大きなくしゃみをした。
「くしゅん」
その横で、もうすぐ俺の妻になる藤村さんも可愛いくしゃみをする。
俺達はお互いの顔を見て笑い合う。
また花粉症を発症してしまったが、嫌な気はしなかった。だって、この花粉症が二人を結び付けてくれたのだから。
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