第142話 二月十九日はプロレスの日

 一九五四(昭和二十九)年のこの日、日本初のプロレスの本格的な国際試合、力道山・木村組対シャープ兄弟の試合が開催された。



「ごめん。もう待つことに疲れちゃった。お互い今年で三十歳よ。答えが出ないなら別れるしか無いわ」


 同棲してる香織にそう言われても、俺は何も言えなかった。


「分かった。さよなら」


 しばらく待って俺が引き留めないと判断したのか、香織は涙を浮かべながらそう言うと、荷物をまとめて出て行った。俺は黙って見ているだけで、止めることは出来なかった。

 香織の言うことは正しい。

 ここ数年、俺は立ち止まったままただ淡々と毎日を過ごしているだけだった。

 クソみたいな会社で、クソみたいな上司にこき使われ、クソ面白くも無い仕事を続けている。転職してもっとやり甲斐のある仕事に転職すれば良いのだが、高卒で出来る仕事なんて今と変わりは無いだろう。そう思うと何もする気が起きず、めんどくさくなるのだ。

 そうやって、不満を溜めながらも俺は動かず、ただ時間だけが過ぎて行った。

 香織とはもう五年も付き合っている。そろそろ結婚を考えないといけないし、香織からもそれを匂わされていた。なのに俺は気付かない振りをして放置してきた。それで逃げられたんだから自業自得だ。香織のことはまだ愛している。でも、俺みたいな駄目な奴より、もっとマシな人と付き合った方が香織も幸せになれるだろう。



 香織が出て行った後のアパートで過ごす日々は、無人島で暮らしているようだ。誰とも会話が無い。誰も俺の存在を意識しない。ただ会社に行って、上司に理不尽なことで怒られ、心を殺してやり過ごす毎日だった。

 ある日の会社帰り、俺はふと思い立ち、パチンコ屋に入ってみた。もう何でも良かった。無色無臭の日々に何か変化が欲しかったのだ。

 初めてのことで良く分からないから、とりあえず一番手前にあった台に座った。どうやらプロレスラーのアントニオ猪木をモチーフにしたパチンコ台のようだ。

 打ち始めると、派手な映像と音が鳴り響いて驚いた。液晶モニターの中でアントニオ猪木が様々な演出を繰り広げる。中にはアントニオ猪木の名言なんてものも出て来た。


「元気があれば何でもできる!」


 元気があれば何でもできる、か……。

 俺が何も動かないのは元気が無いからだろうか?

 なぜ俺は元気が無いんだ? 何の病気もしていないし、どこも怪我をしていない。元気が出せない筈はないのに……。

 ビギナーズラックか、訳が分からないまま結構勝ってしまった。

 パチンコを打っている最中は、ずっとアントニオ猪木だらけだったので、彼に興味が湧いてしまった。俺はアパートに帰って、パソコンでアントニオ猪木を検索した。結構凄い人みたいだ。プロレス界のカリスマだったんだ。

 俺はまた「元気があれば何でもできる」の名言を思い出した。

 俺も元気を出せば何でも出来るんだろうか? でもどうやって元気を出すんだ?

 考えれば考えるほど、今の生活を続けていて元気が出せる筈ないと思った。体の問題じゃ無い。俺は心が疲れ切っていて、元気を出せなくなっていたんだ。



 翌日、俺は出社するなり、上司の席に向かった。


「今日限りで辞めさせてもらいます!」


 俺は上司の机の上に辞表を叩きつけた。


「何を馬鹿なこと言ってるんだ! そんな無責任なこと出来る訳ないだろ!」

「元気があれば何でもできる! 未だにサービス残業を強要したり、自分のミスを部下に押し付ける会社に義理立てする必要なし! ダー!」


 俺はこぶしを高く上げて叫んだ。

 驚いて何にも言い返せない上司に背を向け、俺は会社を後にした。

 会社を出てすぐ、俺は香織に電話を掛けた。香織の仕事はいつも午後から出勤する。仕事が変わって無ければ出る筈だ。


(久しぶり……電話なんてどうしたの?)


 電話に出た香織の声は戸惑っているように感じた。


「香織、何も動かなかった俺が悪かった。仕事辞めて来た、結婚しよう」

(仕事辞めて来たって……それに結婚? 今まで散々無視してきたのに、今更どうして結婚しようなんて言うのよ!)


 香織は怒ったようだ。


「今の俺は元気だから何でもできるんだ! すぐに仕事を見つける。俺には香織が必要なんだ。戻って来て欲しい」


 俺がそう言っても、しばらく返事が返って来ない。


「香織?」

(ホント馬鹿ね。今晩行くから。ちゃんと話し合おう)

「ありがとう! 待ってるよ」


 俺は今、会社を辞めて無職になった。香織も戻って来てくれるか分からない。でも、今の俺は元気だ! 自由に動けて何でもできる。

 気付かせてくれてありがとう。アントニオ猪木さん。


「1、2、3、……」


 俺は周りの目も気にせず、腕を上げて、一本、二本、三本と指でカウントを始めた。


「ダー!!」


 俺はこぶしを高く突き上げて、アントニオ猪木に届けと大きな声で天に向かって叫んだ。 

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