第141話 二月十八日は嫌煙運動の日

 一九七八年(昭和五十三年)のこの日、東京・四谷で「嫌煙権確立をめざす人々の会」が設立され、日本でも本格的な嫌煙運動がスタートしたことに由来する。

 当時は嫌煙権という言葉も耳新しく、多くのマスコミがこの集会を報道、一気に嫌煙運動が盛り上がっていった。



 ブーとフロア内に、十時の休憩時間を告げるブザーが鳴った。俺は椅子に掛けていた背広の上着から、煙草とライターを取り出して喫煙ブースに向かう。

 俺のフロアから一階下りて、三階の階段前にある自動販売機の横に喫煙ブースがある。五階建て自社ビルの中に、喫煙場所はここ一つだけだ。喫煙ブースは電話ボックスのように外部から遮断されていて、換気も万全なので煙も外に出て来ない。

 俺は周りに人が居ないのを確認して、扉を開けて中に入った。喫煙ブースは周りに人が居ないのを確認して、出入りするように決められている。


「おう、俺も使わせて貰うよ」


 俺が中に入って煙草に火を点けた時に、片岡部長が入って来た。


「どうぞ、どうぞ」


 俺は隅に寄ってスペースを空ける。

 喫煙ブースは狭くて、座ることさえ出来ない。大人が立った状態でやっと三人入れるぐらいだ。


「しかし、煙草を吸うだけなのに、一々ここまで来るのは面倒ですね」

「全くだ。煙草なんて合法的な嗜好品なのに、隔離されてるみたいだからな。犯罪者でも無いのに」

「今や吸う権利なんて全く認められませんからね」


 俺と片岡部長がぼやいていたその時、ドアが開いて村田が顔を出した。


「あっ、満員ですね。じゃあ、遠慮します」

「いや、まだ入れるぞ。遠慮せず、入って来いよ」


 部長が村田を引き留める。


「良いんですか?」

「良いに決まってるだろ。俺達は喫煙仲間なんだから」


 俺も村田をフォローして、ブースの中に入れてあげた。

 村田は三つ年下の部署違いの後輩だ。このブース内で良く会うことがあるので、部署が違っても顔なじみだ。


「さすがに三人も入ると狭いですね」

「ホントだな、もう少しこのブースも広くして欲しいよな」

「いや、このブースはこれ以上広げる必要は無いんだよ」


 片岡部長が、俺と村田の会話に入って来た。


「どう言うことですか?」


 俺は部長に真意を尋ねる。


「君達は外回りに行くから知らないかもしれんが、もう、この会社の喫煙者は俺達三人しか居ないんだよ」

「ええっ!」


 部長の言葉に、俺と村田は同時に声を上げた。


「いや、でも社長と常務は煙草吸うでしょ? しかもかなりのヘビースモーカーですよ」


 俺は信じられずに尋ねた。


「二人とも煙草を辞めたよ。社長が、もう会社員として煙草を吸うなんて時代遅れだって言い始めたら、常務は何も反論せずに禁煙したよ。俺も散々二人に禁煙を勧められたが、断固としてやめなかったよ」

「さすが部長! 漢ですね」


 俺は部長の心意気が嬉しくてヨイショした。


「あっ、総務の佐藤君はどうですか? あいつは筋の通った漢だからやめないでしょ」

「佐藤君か……」


 村田の質問に、部長は辛そうな表情を浮かべる。


「あいつもずっと抵抗してたんだが、内勤でずっと嫌煙者の目に晒されるのが辛かったんだろうな。最近禁煙を始めたよ」

「そうなんですか……」


 なんだか喫煙ブースが重い空気に包まれた。


「まあ、良いじゃないですか。俺達三人はどんなことがあっても、喫煙し続けましょう!」


 俺は空気を変えようと、明るく言った。

 だが、二人は俺の言葉を聞いても、暗い表情のままで乗って来ない。


「どうしたんだよ、村田?」


 俺は村田に尋ねた。


「実は、最近、妻が妊娠したんです……」

「そうなのか? めでたいじゃないか。おめでとう!」


 俺は暗い村田の表情の意味も考えずに、素直に祝福した。


「それで昨日、妻に泣かれましてね……妊婦に煙草の煙は毒だ。子供にも煙草の煙を吸わせたくない。この機会に禁煙してくれって……」


 俺と部長は何も声を掛けられなかった。


「今日、この箱を最後にして禁煙しようと思ってたんです」

「ええっ! ちょっと待てよ。それじゃあ、社内に喫煙者は俺と部長だけになるじゃないか。会社内だけでも吸ってくれよ」

「川辺君。実は喫煙者は君と私だけになるんじゃ無いんだよ」

「どういう意味ですか?」


 部長の言葉の意味が分からず、俺は尋ねる。


「実は俺も娘に臭いと言われてね……」

「いや、そんなの年頃の娘さんなら、どこでもそうでしょ」

「違うんだよ。娘はパパっ子でね。いつもパパ、パパって懐いてくれていたんだが、最近煙草の匂いが嫌いになったらしくてね。想像してくれよ。可愛い娘に、臭いって言われる気持ちを……」


 そう言われると、何も言えなかった。


「川辺さん! もうあなただけなんです。喫煙者として最後まで頑張ってください!」

「ええっ!!」

「川辺君、俺からも頼む。喫煙者の砦を守るのは君しか居ないんだ!」


 部長と村田が、俺の手を取らんばかりに頼んでくる。


「勝手に俺を喫煙者の最後の希望みたいに言わないでくださいよ! 俺もやめますよ。一人で吸い続けるほどメンタル強くないですから!」


 こうして、俺達三人は同時に禁煙を始めた。三人で意識し合っているので、半年経った今も続いている。喫煙ブースは利用者が居ないので、二か月前に撤去された。結局喫煙者の砦を守れなかったのだ。

 喫煙者最後の希望にはなれなかったが、煙草をやめたことで妻と子供も喜んでいるし、これで良いかと思い始めている。

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