第112話 一月二十日は玉の輿の日
一九〇四年(明治三十七年)の一月二十日、アメリカのモルガン財閥の創始者の甥、ジョージモルガンと京都の芸奴お雪が結婚した。
モルガンが支払った、お雪の身請け金は四万円。現在の八億円相当だった。二人は横浜で結婚し、お雪は「日本のシンデレラ」と呼ばれた。
「実はね、今年度の新入社員の中に、会長の孫が居るらしいわよ」
私は同期で人事課の有紀ちゃんと、ハンバーガーショップでランチを食べている。有紀ちゃんからビックニュースと言われて、聞かされたのがこれだ。
「ホントに?」
うちは超一流企業とは言えないけど、業界では名の通った会社だ。会長が創業者で、その息子が社長だ。会長の孫と言えば、次期社長候補になるんだろう。
「ホント、ホント。ソースは明かせないけど、信頼できる情報よ」
「で、誰が孫なの?」
「そこまでは分からないのよ。本当に上層部にしか知らされてないみたいでさ」
「でも社長の子供でしょ? 苗字で分かるんじゃないの?」
私は今年度の新入社員を全員は把握していない。有紀ちゃんなら人事なので分かる筈だ。
「それが社長の子供じゃ無いみたいなの。妹の息子だそうよ。だから苗字が違うのよ」
「そうなのか……」
「で、ここからが本題なんだけど。私は長谷川君がそうじゃないかと睨んでいるの」
「ええっ! 長谷川君が?」
長谷川君は私の所属している営業部に配属された今年度の新入社員だ。しかも私は彼の教育係をしている。
「そう。目元なんて社長や会長に似てると思わない?」
「そうかなあ……」
そんな風に意識したこと無かったので、急に言われても良く分からない。似ていると言われれば、そうなのかなと思う程度だ。
「ねえ、桜子ちゃんは長谷川君のことをどう思ってるの?」
「どうって、ただの後輩としか思ってないわよ」
「それは良かった! もしあなたが興味ないなら、私に紹介してよ。こんな玉の輿に乗るチャンスを見逃したくないから」
「いや、目元が似てるってだけの薄い根拠で、そこまで突っ走って大丈夫? 会長の孫と違った時はどうするつもりなの?」
「そうよね……」
有紀ちゃんは少し冷静になったのか、考え始めた。
「じゃあ、桜子ちゃんから長谷川君が会長の孫か、それとなく調べてみてよ」
「ええ……私が?」
「お願い。優先順位は桜子ちゃんで良いからさ。その代わりもし上手く行ったら、彼のセレブ友達を紹介してくれるってことで良いから」
相手のことなんて全然考えないで、全て上手く行く前提で話してくるんだからなあ。
「まあ、考えておくわ。でも調べたからって、どんな結果になっても私は関知しないからね」
「ありがとう。桜子ちゃん!」
有紀ちゃんは、もう上手く行ったかのように、笑顔で感謝していた。
ランチが終わって会社に戻って来た私は、有紀ちゃんの情報に戸惑っていた。実はただの後輩としか思っていないと言うのは、少し正確じゃない。ほんの少しだけ、素直な良い子だなと思っていたのだ。恋人にしたいとかそんな気持ちまでは行ってないけど、ただの後輩とは言えないぐらいの気持ちは持っている。
「原田さん、外回りの準備が出来ましたよ」
自分のデスクで座っていた私に、長谷川君が声を掛けて来た。昼から彼と営業に出掛ける予定だったのだ。
「ああ、そうだったね……」
「どうしたんですか? なんか、考え事ですか?」
有紀ちゃんの情報で意識過剰になり、長谷川君をまともに見れない。そんな私を心配してくれる彼の言葉が嬉しく感じてしまう。
「ううん、何でもないの。行こうか」
私は今まで通りの態度にしなくちゃと気持ちを切り替えようと思った。
営業車に乗り、長谷川君の運転で会社を出発した。いつもなら、世間話や仕事の話などで楽しい雰囲気なのに、今日は何だか口が重い。長谷川君が振ってくれた話に相槌を打つだけだ。
こんなモヤモヤした気持ちで仕事を続けるのも辛い。いっそのこと、思い切って会長の孫なのか聞いてみるか? でもストレートに聞くのもなあ……。
「長谷川君って、目元が社長や会長に似てるね」
「ええっ!」
長谷川君は私の言葉に驚き、こっちを見る。
「ああっ! 前を見て、赤信号だよ!」
「あっ! すみません!」
長谷川君は慌てて急ブレーキを踏んだ。いつもは会話してても、前はちゃんと見ているのに。
「ど、どうしてそう思うんですか?」
「あっ、いや、なんとなく似てるかなって。ごめん、嫌だった? あの二人が嫌いだとか?」
「ああ、イヤイヤ、そう言うことじゃなくて、急に言われて驚いただけです!」
こんなに取り乱す長谷川君を初めて見た。やっぱり有紀ちゃんの言う通り、長谷川君が会長の孫なんだろうか? 長谷川君の態度から、その疑いを持ってしまう。
私はそれ以上追及はせず、そのまま今日の仕事を終えた。
「あの、今日はこの後、予定ありますか? 空いてたらご飯でも食べに行きませんか?」
会社に戻り、雑務を片付けて帰ろうとした時に、長谷川君に誘われた。今まで何度か二人でご飯には行っているので、別に特別な意味は無いだろうと思い了解した。
何回か行ったことのある居酒屋に入り、ビールを飲みながら食事を楽しんだ。
やはり仕事仲間なので、話の内容は自然に仕事メインになる。前向きな話が多いんだけど、愚痴や不満を言うにしても、長谷川君は話が上手くて嫌な気持ちにならない。楽しい雰囲気を壊さないのだ。
「あの、実は真面目な話があるんですけど」
長谷川君が急に改まって、そう言った。
「な、何?」
「あの、俺、配属になって以来、原田さんに仕事を教えて貰って、凄く素敵な女性だと思っていたんです。こ、こんなこと言うと告ハラだと思われるかも知れないけど、好きになってしまったんです。俺と付き合って貰えませんか?」
「ええっ!」
急な告白で驚いた。お互い先輩と後輩の良い関係だと思ってたのに、そんな風に思ってくれてたなんて。少し嬉しく感じた。
「あっ、あの、急に恋人みたいになってくれなんて、言うんじゃないんです。あの、休日とかに暇があれば、どこかにデートして貰えるとか、その、会社の後輩じゃなく、もう少し、男として見て貰えないかと……」
ど、どうしよう。急に好きになれってことじゃないなら、オッケーしても良いんだけど、会長の孫かも知れないって聞いた後だからなあ。ここでオッケー出すと、玉の輿目当てみたいで……。
「やっぱり俺じゃあ無理ですか?」
「あっ、そう言う訳じゃないの。急な話で戸惑ってしまって……」
玉の輿狙っているみたいに思われるのが嫌だからって理由で断るのは、長谷川君が可哀想かな。私自身も長谷川君に好感を持っているから、そういう意味ではもったいないし……。
「今はまだ恋愛感情までは持ってないよ」
「はい、それは分かってます」
「じゃあ、まだ付き合うことは誰にも内緒で、会社でも態度を変えないこと。それが守れないなら、即別れるでも良い?」
まず、今の段階では有紀ちゃんには知られたくない。決して玉の輿を横取りする気は無いけど、恨まれるかも知れないし。あーなんでこんなことで悩まないといけないんだろう。
「はい、それで十分です。それでも嬉しいです!」
そういう約束をして、私たちはとりあえず付き合うことになった。
翌日からも、会社では普段通りに過ごした。
告白されて付き合いだしたと言っても、急に恋心が芽生える筈もなく、最初は先輩後輩の関係が抜けなかった。でも、デートを重ねるに連れ、私も長谷川君に男性として惹かれ始めた。年下なのに結構引っ張ってくれるし、それでいて年上の私を立ててくれる。何だか頼り甲斐があって、長谷川君の方が年上みたいに感じることもあった。
もし長谷川君が会長の孫だったら、このまま行けば玉の輿に乗れるかも。デートしていて、ふとした瞬間にそんな思いが頭をよぎることがあった。別に彼が何者でも関係ない筈なのに、そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。思い切って聞いてみようかと思うこともあったが、もし本当ならもっと自分が醜い考えに侵されそうで聞けなかった。
そんな時、有紀ちゃんから、またニュースがあると昼食時に言われた。
「実はね、会長の孫が入社しているってガセネタだったの」
「ええっ、ホントに?」
「うん、社長の妹には子供が居ないらしいの」
「ええっ! そうなんだ。それは良かった……」
私は自分の口から良かったと自然に出て来たのに驚いた。
「何よ、良かったって?」
有紀ちゃんに聞かれて改めて考える。私はどうして良かったって思ったんだろう。答えは簡単に分かった。
「あのね。隠してて悪かったけど、私、長谷川君と付き合っているの」
「ええっ!」
有紀ちゃんは驚いて声を上げる。
「でも、私は長谷川君に対する気持ちに自信が無かったの。私は長谷川君が会長の孫かも知れないから付き合っているんじゃないかって、自分を疑う気持ちが有ったの。でも、今有紀ちゃんからその話がガセネタだと聞いて嬉しいと思えたの」
「えっ、どういうとこよ?」
「私はね、彼が会長の孫でなくても、この会社の後継ぎじゃ無くても好きだってことよ。それに今気付いたの。これでこれからは自信を持って付き合って行けるわ」
そう、これでスッキリした。玉の輿なんていらない。私は長谷川君自身を好きになっていたんだ。
「でも、会長の孫じゃ無ければメリット無いでしょ。年下で、まだ出世出来るかどうかも分からないのに」
有紀ちゃんが酷いことを言ったが気にならなかった。長谷川君の良さは、私が一番良く分かっている。これからは、堂々と長谷川君と付き合って行こうと思った。
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