第99話 一月七日は千円札の日
一九五〇年のこの日、一九四五年の新円切替後初の千円紙幣が発行された。肖像画は聖徳太子であった。
初の千円札は一九四五年八月に流通開始した日本武尊の肖像のものであったが新円切替により一九四六年に失効していた。聖徳太子の千円札は、一九六五年に伊藤博文の千円札が発行されるまで十五年に渡り使用された。
孫が今年から小学生になるので、俺は自分が子供の頃に読んでいた世界名作全集を送ることにした。妻からは古いので新しいのを買ってあげたらと言われたのだが、息子の陽介にも読ませた思い出のある全集なので、是非孫にも引き継がせたいと思っていた。
陽介が成長して読まなくなった後は丁寧に段ボールに入れて保管している。俺は押入れから段ボール箱を取り出し、中から一冊手に取った。
「どう? 読めそう?」
俺の背中に妻が尋ねる。
「うーん」
俺は手の取った本を開いて、返事の代わりに唸った。
正直に言うと、思っていたより汚れや傷みが激しかった。読めない訳では無いけど、これを贈られても孫は嫌がるだろう。
「やっぱり無理でしょ。ちゃんと新品を買ってあげようよ」
「そうだな……」
残念だけどそうするしかなさそうだ。
「大事な物なら、綺麗にして本棚に入れたらどう? 捨てる気は無いんでしょ?」
「ああ、そうだな。とりあえず綺麗に拭いてみるよ」
俺は本を一冊ずつ布で拭くことにした。
表紙の汚れを拭き取っていくと、昔読んだストーリーを思い出して、ついページを開いてしまう。記憶の中にある、もう一度読みたいシーンを探して、数ページ読んでは次の本に移るを繰り返した。
何冊もそんなことをしていると、俺はある本で手が止まる。「八犬伝」と表紙に書かれた本だ。
「懐かしいな」
よく読んだこの全集の中でも、一番好きで何度読み返したか分からないくらい再読した本だ。
懐かしさの余り、一ページ一ページ開いて流し読みしていく。
「あっ!」
何ページか開いたところで、俺は驚きの声を上げた。そこには一枚の古い千円札が挟まっていたのだ。俺が子供の頃流通していた、伊藤博文の千円札だ。
「どうしたの?」
俺の声を聞いて、妻がやって来る。
「ほら、千円札が挟まってたんだ」
「ええっ、また凄く古い千円札ね。あなたが挟んだの?」
「ああ、中学生の頃にな。こうやってどこかに隠して忘れてしまえば、お金に困った時に思いだしたら嬉しいだろうと思ってね。お年玉貰った時に隠したんだよ。
この本を何度も読み返してたから、いつかは気付くと思ってね。でも中学に入ってからはこの全集を読まなくなったからそのままだったんだよ。陽介もこの本は読んで無かったんだな」
俺は千円札を掲げて透かしを確認しながら、妻に説明した。
「子供の頃の方が千円に重みがあっただろうに。今になって見つけたのは残念だったね」
「うん、そうだな……」
確かに妻の言う通り、今の俺が千円で何が出来るだろうか? 中学時代なら千円あればいろんなことが出来たのに。
「そうだ! この千円であの頃の夢を叶えてやれば良い」
俺は良いことを思い付いた。
「あの頃の夢って?」
「それは後のお楽しみ」
俺は答えを言わずに、微笑んだ。
次の休日。俺は本から出てきた千円札を握りしめて、ハンバーガーショップに向かう。子供の頃の俺の夢、それはハンバーガーを大人買いして、たらふく食べることだった。
ハンバーガーショップで、一番高い商品を五個買った。当然千円を超えたが、そこは夢を叶える為だと勝手な理屈を付けて誤魔化した。
古い千円札で精算しようとして、伊藤博文版を見たことの無いバイトが社員を呼ぶ羽目になったのは、忙しい時間に申し訳なかった。
「何よこれ?」
妻はテーブルの上のハンバーガーを見て、怒りと呆れが入り混じった様子で聞いてくる。
「これが俺の夢だったんだ。俺一人で食べるから、手出しするなよ」
「頼まれても食べないわ」
妻は呆れ返って、俺を置いてリビングに行ってしまった。
「さあ食べるぞ」
と張り切ってみたものの、勢いが良かったのは最初の一個だけで二個食べたら満腹になってしまった。もっと食べられると思ってたのに、考えが甘かった。まあ、孫が居るような歳なら二個食べただけでも十分か。
「どう? 全部食べられた?」
「無理だった」
「じゃあ、晩御飯もそれを頑張って食べてね」
妻は嬉しそうにそう言った。
少し悔しいが、まあ良い。子供の頃の俺も満足だろう。夢が一つ叶ったのだから。
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