第61話 十一月三十日はシルバーラブの日(月間ベスト作品)
一九四八(昭和二十三)年のこの日、歌人の川田順が弟子の大学教授夫人とともに家出した。当時、川田順は六十八歳で、三年前から続いていた教授夫人との恋の行く末を悲観して、死を覚悟しての行動だったが、養子に連れ戻された。その後二人は結婚した。
川田が詠んだ「墓場に近き老いらくの恋は恐るる何もなし」から「老いらくの恋」が流行語になった。
「じゃあ、行ってきます」
日曜の朝、私が起きたのと入れ違いで、お婆ちゃんがジャージ姿で出て行った。
「お婆ちゃんどこ行ったの?」
私はダイニングに行き、お母さんに聞いた。
「公園でゲートボールをしに行ったのよ」
「へえ、こんな朝早くから?」
「早くなんかないわよ。あなたが起きて来るのが遅いだけよ」
確かに十時前だから早くもないか。
「お婆ちゃん、この頃よく楽しそうに出て行くね」
私がそう言うと、お母さんは楽しそうに顔を近付けてきた。
「実はね、お婆ちゃん好きな人が出来たみたいよ」
「ええっ! お婆ちゃんが?」
私はお母さんの言葉を聞いてショックを受けた。おじいちゃんが死んで、まだ三年しか経っていないのにと。
お爺ちゃんとお婆ちゃんは凄く仲が良くて、私の理想の夫婦だった。私も好きな人が出来て将来結婚したら、二人みたいに老人になっても仲良く一緒に居たいと思っていた。だからお爺ちゃんが死んでしまったとは言え、他の人を好きになったお婆ちゃんにショックを受けたのだ。
「お婆ちゃんって、もういい歳じゃない。それにお爺ちゃんが死んで、まだ三年しか経ってないのに、他の人を好きになるなんて……なんだか嫌だ」
「
お母さんにそう言われても、私は何も言い返さなかった。
「ちょっと行って来る」
「えっ? どこに行くのよ」
「公園」
私は急いで朝食を食べると着替えて家を出た。
ゲートボール場がある公園までは、歩いて5分ぐらい。私が到着した時は、すでに何人かの老人がプレイしていた。
私はお婆ちゃんに見つからないように、物陰から隠れて様子を窺う。
しばらく見ていると、お婆ちゃんの好きな相手が分かった。二人でよく話をしたり、ゲートボールのアドバイスをし合ったりしていたから。少し距離があるので、相手の男の人がどんな人か分からない。でも私はこれ以上我慢して見ていることが出来なかった。
「お婆ちゃん!」
私はゲートボール場のそばまで行き、お婆ちゃんを呼んだ。
「美紀ちゃん、どうしたの?」
驚いたお婆ちゃんにそう聞かれたけど、我慢ならずに声を掛けてしまったので、私は答えに詰まる。
「あの……そうだ、お婆ちゃんと一緒に家でゲームをしたかったの。だから私と一緒に帰ろう」
私は無理やり理由を作って、お婆ちゃんを連れて帰ろうとした。
「でも……」
「いいよ、行ってあげなよ。孫に一緒に遊ぼうって言われるなんて、羨ましいね」
その場にいた別のお婆さんがフォローしてくれた。
こうして私は無理やりお婆ちゃんを連れて帰った。途中でお婆ちゃんは何回か話し掛けてきたが、私が生返事をしたので、それ以上は何も言って来なかった。
「ただいま!」
「お帰り! あっ、お義母さん!」
家に帰った私とお婆ちゃんを見て、お母さんは驚く。
「さあ、お婆ちゃん、ゲームしよう」
私はお母さんを無視してリビングに向かう。
「すみません、お義母さん」
「ううん、美紀ちゃんとゲームが出来るなんて嬉しいわ」
お婆ちゃんはそう言って、私の後ろに付いて来てくれた。
「美紀、話があるんだが、入って良いか」
夜になり、お父さんが私の部屋をノックしてきた。
「うん、どうぞ」
お父さんが部屋に入って来た。ベッドに寝転んで、スマホを見ていた私は、体を起こして座る。
昼間のお婆ちゃんの件で怒られるのかと思っていたが、お父さんはそんな様子もなく、困ったような顔をしている。
部屋に入ったお父さんは、私の学習机の椅子に座った。
お父さんは座った後も、すぐには話し出さずに私の顔を見ている。私は緊張していつものようにリラックス出来ない。
「お母さんから聞いたんだけど、お婆ちゃんをゲートボールから連れて帰ったそうだな」
お父さんは落ち着いた声で、ゆっくりと話す。
「ゲームがしたかったの」
私は表向きの理由で答えた。
「ホントにそうか? お母さんお前に話したことを後悔してたぞ」
そう言われると、これ以上嘘を吐き続けるのが辛くなった。
「だって、お爺ちゃんとお婆ちゃんはあんなに仲が良かったんだよ。だのにお婆ちゃんが別の人を好きになるなんて、お爺ちゃんが可哀想だよ」
「そうか……」
お父さんは私の言葉を聞いて、呟くようにそう言った。
「まだお父さんがお母さんと結婚する前、徹叔父さんや美咲叔母さんもお爺ちゃんの家で一緒に暮らしていた時の話だけど……お酒を飲んで酔っぱらったお爺ちゃんが、お父さんたちに『もし俺がお母さんより先に死んだら、お母さんには誰か好きな人を作って再婚して欲しいんだ』って言ってたんだよ」
私はそう言われても、考えがまとまらず、何も言えなかった。
「まあ、酔っていたからな。どこまで本気か分からないけど……でも、お爺ちゃんはお婆ちゃんのことを本当に好きだったから、自分が死んだ後もお婆ちゃんに幸せに暮らして欲しいと思っていたんじゃないかな」
お父さんは私が理解出来るように、ゆっくりと話す。
「じゃあ……じゃあ、お父さんも、もしお母さんより先に死んだら、お母さんに再婚して欲しいの?」
お父さんは一瞬驚いた顔をして、すぐに難しい顔で考え出す。
「もし、お母さんが相手のことを、本当に好きで幸せになれるんだったら、再婚して欲しいと思うよ」
「そうなんだ……」
「あっ、でも一つだけ条件がある」
お父さんは慌ててそう言った。
「どんな条件なの?」
「優しい男にして欲しい。別に金持ちじゃなくても、男前じゃなくても良い。優しい男じゃないと駄目だ」
「優しい男か……」
「そうだ、優しい男だ。お母さんが悲しい目に遭わないように、優しい男じゃなきゃ駄目なんだ。
もし、お父さんが先に死んで、お母さんに好きな人が出来たら、そいつが優しい男かどうか、美紀が判断して欲しい。恋は盲目って言うからな。お前が冷静な目で判断するんだぞ」
お父さんは冗談を言っている目じゃなく、真剣だった。
「うん、分かった。約束するよ」
いつの間にか、お父さんとお母さんの話になっていた。でも、お父さんがお母さんのことを本当に好きだと分かって、なんだか嬉しかった。お爺ちゃんもきっと同じように思っていたんだろう。それが今、理解出来た。
数日後、お婆ちゃんがゲートボールに行くと言うので、私は付いて行った。
私はゲートボール場に着くと、お婆ちゃんの好きな人の前に立った。凄くドキドキして勇気がいるけど、絶対に言わなきゃいけないと思っていた。
「あの……もしお婆ちゃんと付き合うことになったら、絶対に優しく大切にしてあげてください!」
相手のお爺ちゃんは驚いた顔をして、周りの人も固まっていたようだ。
「お婆ちゃんは、お爺ちゃんが大好きだった人で、凄く大切にしていた人なんです。だから、お爺ちゃんと同じように、優しく大切にしてあげてください!」
足は震えているし、興奮して顔が熱い。でも、なんとか最後まで言い切った。
「あなたは本当に優しい娘さんだね。もしそんなことになったとしたら、優しく大切にすると約束するよ」
相手のお爺ちゃんは、凄く優しそうな笑顔でそう言ってくれた。
「美紀ちゃん、ありがとう」
お婆ちゃんは私の手を取り、お礼を言ってくれた。
人を愛するって難しい。私も好きな人が出来たら、自分より相手の幸せを願うことが出来るんだろうか? それほど好きになれる相手が現れると良いな。
今回のことで、私は少し大人になれた気がした。
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