第30話 十月三十日は初恋の日

 島崎藤村ゆかりの宿である長野県小諸市の中棚荘が制定。

 一八九六(明治二十九)年のこの日、島崎藤村が『文学界』46号に『こひぐさ』の一編として初恋の詩を発表した。

 毎年、初恋をテーマとした「初恋はがき大賞」等のイベントを行っている。



「じゃあ、そろそろ行くよ」


 俺は妻にそう言うと、玄関に向かおうとした。

「ちょっと待って」


 妻は俺を引き止め、スーツの乱れがないかチェックする。


「いいよ、そんなに気を遣わなくても。飲み会みたいなものだし。大体こんなスーツまで着ていく必要も無いんだよ」

「そうはいかないわよ。変な格好で行くと私まで笑われるのよ」


 俺はこれから小学校時代の同窓会に出掛ける。まあ、同窓会と言って有志が気まぐれに開催する飲み会だし、参加者も半分程度、二十人弱のようだ。


「よし、オッケー。じゃあ行ってらっしゃい」


 妻の許しが出て、俺は同窓会の会場に向かって家を出た。

 妻には飲み会みたいなものと言っていたが、この同窓会は俺にとって特別な意味があった。俺の初恋の人、白川恭子(しらかわきょうこ)ちゃんが来るのだ。



 恭子ちゃんは六年生だった時の同級生で、同じ放送委員となったことで仲が良くなった。明るくハキハキとした笑顔が可愛い女の子。性別を感じさせず、最初から気安く話が出来たんだ。

 当番が回って来た日には、一緒に昼休みの放送を担当した。どんな曲を流すか事前に相談したりして、本当に楽しい時間を過ごした。音楽の趣味も似ていて話も良く合い、俺は一学期の半ばには恭子ちゃんのことを好きになっていたんだ。

 ただ、初めて人を好きになった俺は、その気持ちをどうして良いか分からなかった。告白なんて恥ずかしくて考えられない。かと言って今の状態では満足できず、もっと親しくなりたいと思っていた。

 そんな楽しくももどかしい日々を過ごしていた、二学期の終わりごろ。俺は恭子ちゃんから衝撃的な話を聞かされる。彼女は地元の中学に進学せず、家も引っ越すと言うのだ。

 話を聞かされた夜、俺は布団の中で泣いた。凄く悲しかったが、子供の俺に出来ることは無く、最後に告白する勇気すらなく、俺たちは小学校を卒業して離れ離れになった。

 今は三十五歳。あれから恭子ちゃんとは一度も会っていない。だが俺の心の中には初恋の人として彼女がずっと住み続けている。


 男は元カノを別ファイルで保存し続けると言う。俺の場合、他の元カノは「思い出」と言う名のフォルダ内に保存できているのに、恭子ちゃんだけはデスクトップに残り続けている。それだけ特別な存在になってしまっているのだ。

 俺はこの同窓会での恭子ちゃんとの再会に期待している。また会えると思うだけで、緊張して胸がドキドキする。

 だが、決してやましい気持ちからではない。俺は妻を愛しているし、五歳の息子も三歳の娘も溺愛している。この幸せな家庭を手放す気は全くない。ただ恭子ちゃんと再会して、今だに残る自分の気持ちにケリを付けたかったのだ。

 俺はきっと幻想を抱いているんだ。小さいころ大通りだと思っていた道が、大人になって通ってみると凄く狭かったことに気付く。それと同じように、叶わなかった初恋の記憶を美化させて、恭子ちゃんを神格化させてしまっているのだ。再会すればきっとその幻想に気付く。そうなれば、恭子ちゃんのファイルを「思い出」フォルダに移せる筈だ。



 集合時間の少し前に店に到着した。もうすでに懐かしい顔が何人か集まっている。俺はその集団の中に入って行った。


「川村君!」


 俺は名前を呼ばれて振り返った。

 振り返った視線の先にたたずむ人を見て、俺は言葉を失った。


「やっぱり川村君ね。お久しぶり! ……あっ、もしかして私が誰だか分からない?」


 恭子ちゃんは俺の様子を見て心配そうな顔になる。


「いや……恭子ちゃんだろ。分からない訳ないよ。凄く久しぶりだね」


 そう分からない訳が無かった。俺の目の前に居る恭子ちゃんは、古い記憶のまま変わらず、笑顔の素敵な女性だったから。

 恭子ちゃんも三十五歳になっている。記憶の中と同じと言っても、もちろん年相応に変わってはいる。だがその変化は美少女がそのまま成長して美しい女性になっただけで、その本質は全然変わっていない。

 俺は古い記憶の幻想が壊れることを望んでいた筈なのに、幻想そのままの恭子ちゃんを見て嬉しかった。なぜなら、恭子ちゃんはとても幸せそうに見えたから。


「川村君も結婚してるんだ」


 恭子ちゃんは俺の指輪に気付いたのか、先に話を振って来た。


「ああ、もう二人も子供が居るよ。恭子ちゃんも結婚してるんだね」


 俺ももちろん恭子ちゃんの指輪に気付いていた。その指輪を恭子ちゃんに送った相手が、彼女をこれだけ輝かせているんだと思った。でも嫉妬の気持ちは驚くほどない。むしろ嬉しい気持ちだけしかなかった。


「私も一人やんちゃな息子が居るよ」


 彼女は幸せそうな笑顔でそう言った。


「川村君が幸せそうで、なんだか嬉しいな」


 また先に言われてしまった。


「ああ、凄く幸せだよ。恭子ちゃんも幸せそうだね。俺も嬉しいよ」


 俺たちは顔を見合わせて笑い合った。


 その後、店の中に入り、隣の席で語り合った。

 小学校を卒業してから今までのこと。長い間のブランクがあるので、話が尽きない。


「俺は小学校の頃、恭子ちゃんのことが好きだったんだよ」


 俺は恭子ちゃんだけに聞こえる声で、告白した。


「ありがとう。私もそうよ。あのころ川村君のことが好きだった」


 俺たちはまた顔を見合わせ笑い合った。

 その後も、会が終わるまで話し続けた。


「じゃあ、奥さんと子供たちによろしくね」

「ああ、恭子ちゃんも旦那さんによろしく」


 俺たちは連絡先を交換せずに、握手して別れた。


 俺は爽快な気分で、恭子ちゃんのファイルを「思い出」フォルダに移した。

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