第16話 十月十六日はボスの日
アメリカのパトリシア・ベイ・ハロキスさんが、会社を経営していた父の為に一九五八年に提唱。
経営者と部下の関係を円滑にするための日。アメリカではボスを昼食に招待したりプレゼントを贈ったりしている。
日本では一九八八(昭和六十三)年からデパート業界が実施している。
十月十六日の朝、俺は社用車で会社に向かっていた。毎日の疲れが溜まっていて、何度もあくびしながらの運転だ。眠気覚ましに車内でラジオを聞いていると、DJの曲紹介が流れてくる。
(今日、十月十六日は『ボスの日」です。アメリカでは上司を昼食に招待したり、プレゼントを贈ったりするそうですよ。日本では馴染みのない日ですが、サプライズで上司に感謝の気持ちを贈ったらどうですか? それでは今日の一曲目はRCサクセションのボスしけてるぜ!)
「ボスの日」か……そんな日があったんだ。
実は、俺は自分を含めて社員が五人という小さな会社を経営している。会社社長と言っても人数も少ないので、営業から発注から事務までなんでもやらなきゃいけないレベルだ。
もしかして今日奴らからプレゼントを貰ったりしてな。いやいや、それは無いだろ。こんなマイナーな記念日誰も知らないだろうしな。
いや待てよ。そう言えば新人の権田(ごんだ)は「今日は〇〇の日だ」ってよく言ってたな。こういう記念日が好きだと聞いたことがある。あいつなら今日が「ボスの日」だと知っていたかも。
まあ、知っていたからと言って、俺に何かしてくれるとは限らないしな。そこまでみんなが慕ってくれているかどうかも分からないし。
そんなことを考えながら俺は出社した。
始業時間となり、いつも通りの仕事が始まる。特に変わった様子もなく、俺も「ボスの日」のことを忘れかけていたその時。
まだ誰も営業に出掛けていない全員が事務所に揃っていた中で、半年前に入社した空気の読めない権田が、大きな声で一番年齢の近い先輩の吉村(よしむら)に話し掛けた。
「吉村さん、今日が『ボスの日』ですよね。しかし日本なのに『ボスの日』って笑いますよね」
大声だったので、俺と雑談をしていた残りの二人も思わず話を止めて権田の方を見た。
一瞬事務所の空気が固まり、その後すぐ申し合わせたように、権田以外の社員が俺を見たが、俺と目が合うと慌てて目を逸らした。
「おま……営業に行くぞ、権田!」
吉村は権田の発言に対して何も言わずに、慌てて二人で外回りに行ってしまう。
権田は仕事が合わずに何度も転職していたが、やる気は人一倍ありそうなので採用した奴だ。吉村は出来る奴で、権田の良さを引き出し、良い教育係になってくれている。
吉村たちが出て行くと、他の二人も先を争うように俺も俺もと営業に出掛けてしまった。俺は残務整理の予定だったので、一人事務所にポツンと残される。午後になってパートの事務員さんが来るまでは一人だ。
何だったんだ今の空気は? 権田の話を聞いた途端にみんな逃げるように出て行ってしまったよ。権田が「今日はボスの日」って言った所為か?
まさか、奴ら本当に今日俺に何かしてくれようと計画してて、権田が思わず「ボスの日」のことを言ってしまったとか?
いやいやいや、それは都合の良いように考え過ぎだろ。「ボスの日」なんて日本じゃ定着していないし、わざわざそんな企画考える筈はない。それに変な空気だったって俺の思い過ごしかも知れんしな。今日はみんな外回りの予定だったし、普通に出て行っただけだ。
最近疲れているから、いろいろ考えすぎてしまうんだ。
俺はそう結論付けて、自分の仕事に取り掛かった。
今日はなんだか仕事に集中できない。別に、部下たちに何かして欲しいと思っている訳じゃない。ただみんな俺のことをどう思っているのか気になってしまった。
自分で言うのもなんだが、俺は社長として頑張っていると思う。嫌な仕事も自分が率先してやってるし、部下のミスもカバーしている。飯もよくみんなと食べに行ったりして、少ない人数だがチームワークも良いと思う。
俺は不器用な人間だから、上手く言葉で教育したり、モチベーションを上げたりは出来ない。人一倍働いて背中を見せることしか出来ない。こんな俺でも、みんな信頼して付いて来てくれているんだろうか?
別に誰かに褒めて貰いたい訳じゃない。自分の会社が上手く回るように俺は頑張っているだけだから。ただ、たまにはみんなが信頼してくれているという実感が欲しい。
今日に限って、定時になっても誰も帰って来ない。みんな出先から直帰させて欲しいと連絡があったので、全て許可した。これはよくあることだから問題ない。
「ボスの日」と言っても、結局何も変わらない一日だった。まあ、当然なんだがな。
「『ボスの日』か……良い上司ってどういうことなんだろうな……」
俺も自分の仕事が終わったので、帰ることにした。
家に帰って玄関ドアを開けると、妻と高校生の娘が「おかえり!」と凄い勢いで出迎えてくれた。
「二人ともどうしたんだよ」
「良いから良いから」
娘が俺の腕を掴んで奥に引っ張っていく。
「社長! いつもありがとうございます!」
奥に行くと社員四人が揃っていて、みんなで俺に頭を下げていた。
みんなが居るダイニングには、いつも使っていないテーブルまで出してきて、豪華な食事の準備が出来ている。
「みんな、どうして……」
「吉村さんが企画してくれて、この料理もみんなで用意してくれたのよ。いつもお世話になっている社長に感謝の気持ちを表したいって」
横にいる妻が教えてくれた。
「サプライズしたくて企画したのに、権田が大きな声で『ボスの日』って言った時にはバレるかと心配しましたよ」
「すみません。俺ってそんなに声が大きかったんですね。でも社長には本当に感謝してます。俺でも社会人としてやっていける自信が付きましたから」
吉村と権田が笑顔でそう言った。
「みんな……俺の方こそ……」
俺はそこまで言ったところで、感情が抑えきれずに号泣してしまう。娘も居るのに恥ずかしいと感じることも出来なかった。俺は自分で思っているより、余裕が無くなっていたんだと気付いた。
その日は遅くまで、みんなで飲んで食べて楽しく過ごした。
これでまた俺は進んで行ける。みんなと一緒に頑張って行けるんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます