第3話 十月三日は交通戦争一日休戦の日

 一九七一(昭和四六)年、東京都八王子市で毎月水曜日に自家用車の利用自粛・公共交通機関の利用を呼びかける「ノーカー運動」が実施された。日本初の「ノーカーデー」であった。

 その時のスローガンが「交通戦争一日休戦の日」だった。



「明日は『交通戦争一日休戦の日』なのでノーカーデーなのだ。だから、うちも車通勤を禁止する。明日は絶対に車で来ないように!」



 どこで聞いて来たのか、昨日朝礼で我が社のワンマン社長が、嬉しそうに社員全員にそう訓示した。

 うちの会社は社員が十人にも満たない零細企業だが、事務所の横に倉庫を持っていて、敷地に余裕があるので、みんな通勤車用の駐車場にしている。社員で電車通勤している人はいない。なぜなら、会社は超ブラックで残業が多く、終電に間に合わない日が多いからだ。

 知らない人からすれば、社長が電車通勤しろと指示したのだから、明日は当然早く帰らせてくれる筈と思うかも知れないが、社員でそう考えている人は居ないだろう。みんなが陰で暴君と呼んでいるあの社長が、そんな甘い人間だとは考えていないのだ。



 一夜明けた今日、俺は会社に向かう電車に乗っている。自宅アパートから会社までは車で三十分ほどの距離なのだが、電車で通勤すると一時間半以上掛かる。田舎町なので電車の便が悪く、大回りしないと会社に行けないのだ。

 仕事のし過ぎで疲れた体を、今朝は無理やりいつもより一時間も早く起こした。通勤ラッシュと言うほど電車内は混み合ってはいないが、座ることは出来ない。一時間早く起きたことも相まって、朝から疲れが倍増だ。

 立っているので眠ることも出来ず、出入口のドアに体を預けてぼうっと外を眺めていた。

 車通勤では目に入らなかった、のどかな風景が目に映る。俺は疲れや眠気も忘れて、別世界のような外の風景を眺めていた。

 友達に今の会社の現状を話したら、みんな辞めるべきだと心配してくれた。でも俺は辞められないよと首を振る。中には、辞められないんじゃなくて辞めないだけだろ、ときついことを言ってくる友達もいた。そいつなりに心配してくれているんだろう。そしてその言葉は正しい。

 俺はいつもは目を向ける余裕もない、電車から見える景色を眺めながら、ずっと友達の言葉を心の中で繰り返していた。



 会社の最寄り駅に着き、俺は改札を出て券売機の前に立った。路線図を見上げ、行ったことの無い駅を目で追う。


「おはよう。どうしたんだ? 会社に行かないのか?」


 声の方を見ると、二歳年上の先輩である藤岡さんが不思議そうなを顔して立っていた。


「おはようございます」


 俺は藤岡さんに挨拶を返す。


「ああ、おはよう。遅れるぞ、早く行こうぜ」

「あの、藤岡さん、海に行きませんか?」

「はあ? お前海って……もう十月だぞ。それに会社どうするんだ?」


 藤岡さんは俺の唐突な言葉にあきれたような声を漏らす。


「良いじゃないですか。海ですよ、海! 会社休んで海に行きましょうよ!」

「ええっ! 会社休むって……」

「おはようございます! 良いですね、海。私も連れて行ってくださいよ!」


 驚く藤岡さんの後ろで、一つ下の後輩、坂木さんが立っている。彼女はいつもの疲れた表情ではなく、見たことのないような笑顔だ。


「お前らなあ……」


 藤岡さんはそこまで呟いて考える。


「海か……よし、行くか! じゃあ、ここは先輩の俺が海までの電車代を出してやろう」


 藤岡さんはそう言うと、券売機まで勇んで歩き出す。俺と坂木さんは顔を見合わせて笑い合い、藤岡さんの背中に「ありがとうございます!」とお礼を言った。

 そうこうしている間に、俺も私もとその場に来た他の社員も合流する。

 途中でお弁当とビールを買って海で宴会するか。今日は特別なノーカーデーだったけど、俺達は明日からもノーカーデーだ。

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