40 悪役令嬢は今日も従者にかなわない

 えっ!

 普段はほとんど衣服を緩めないアルバートがジャケットを脱いだことに私が硬直する。

 しかしシャツにベスト姿となったアルバートは追い打ちをかけるように片手でタイを緩める。

 めっちゃ器用では!? まって衿元が崩れるだけで色気が! が! 

 私の視線の先なんてわかってるだろうに彼は平然と言うのだ。


「もうすでに、業務時間外ですので」

「ええちょ、ひっ」


 思わず後ずさった私の肩を掴んだアルバートは、そのままぐいと引き寄せて来る。


「安堵に浸る時間が、あってもいいんじゃないですか」

「ッ……!」


 アルバートの胸板に脳内が大混乱する私だったが、耳に注ぎ込まれた低い声に、息を呑む。

 そのまま、大きな手がゆるりと頭を滑って、髪を撫でていく。

 手が滑る感触はひたすらに優しいもので、頬は勝手に赤らむのに、体からは力が抜けていった。


「あなたはウィリアムを褒めていましたがね。あなたこそ褒められるべきですよ」

「ある、ばーと」

「あなたはよく頑張っています。自分を悪役だと考えていようと、暗闘の上での功績を誰にも知られずとも。俺はすべて知っている」


 手袋をとった指先が、私の顔の輪郭をなぞり、頬を包み込むと上向かせてくる。

 そこには夢のように甘く微笑むアルバートがいた。


「勇者達はあなたがいなければ確実に死んでいた。あなたが暗躍していなければ、この世界はとっくのとうに滅びていたでしょう。……――何より、よくぞ俺の前に現れてくれた」


 絶対に緩まないはずの、冷たく整った白皙の美貌が和らぎ、紫の瞳には熱を帯びる。


「そろそろ、血だけじゃ足りないんです。だから、ねえ。なるべく早く観念して、俺の元に堕ちてきてくださいね」


 いきが、とまる。

 私が惚れ抜いて、推し続ける彼が、めまいのするような甘い表情で私を見つめている。

 なにより、私が今までしてきたことを、認めてねぎらって……あまつさえ、望んでくれているのだ。

 見返りは、推したちが生きていることだ。笑顔でいることだ。それで充分報われている。

 けれど、それでも彼に認めて貰えるのは格別だった。

 体温が勝手に上がり、多幸感が押し寄せてくる。


「もう、おちて、いるんですけど」

「それで、足りるとでも? あなたには俺と同じ特別を望んでいただきたいんですよ」


「分かっているでしょう」と私の耳元に低く声を落としてくるアルバートは、容赦がない。

 私はもうゆでだこのようになっているだろう。これ以上されたら、私はぐずぐずに溶け崩れて使い物にならなくなる。

 けれど、今は、今だけはなけなしの理性をかき集めて、呼びかけた。


「アル、バート」

「なんです?」

「あなた、から、言葉を、きいたことが、ないわ」


 虚を突かれたように目を見開くアルバートの、頬に添えられた手を、上から包む。

 そして、精一杯の思いを込めて見上げた。


「あなたが、すきよ」


 アルバートは行動で態度で示してくれる。けれども、明確に言葉ではまだ言われたことがない。

 それはアルバートなりの優しさなのだと思う。こうして私があらがえないときめきの海に沈めようとしてくれるのも、私が萌え転がってろくに反応できない状態にすることで、逃がしてくれる意図もあったのだろう。

 私は彼が本来、何も語らず態度で示すタイプなことを知っている。彼の想いならいくらでも察してみせよう。

 そんな彼は、恋人らしい事をしなくとも、言葉がなくとも、アルバートはずっと待ってくれている。

 でも、それが、寂しいという気持ちもあったのだ。


 なけなしの勇気を振り絞って紡いだ言葉は、通じただろうか。

 今更、推し続けた上の滾りで連発した好意の言葉を後悔した。言葉を尽くしてもつたわる気がしない。

 一気に不安になった私は、にじみかける涙をこらえる。


 潤んだ視界の中で、沈黙していたアルバートの頬が、赤く染まった。


 ぶわりと、そんな表現をしたくなるような速度で、しろい首筋から頬、耳先まで一気に色づく。

 肩をつかまれ、引きはなされた。


「あ、」


 それも反射的なようで、やってから初めて気がついたといわんばかりに紫の瞳を狼狽えさせている。


「すみません、ですが……その」


 明らかにアルバートは動揺していた。そして、なにより照れていた。

 そのゲームでも見たことがない姿に、私も釘付けになる。

 一言で言うなら、たいそうかわいい。何より私でそこまで動揺してくれたということは、意図がつたわったのだ。それが、たまらなく嬉しい。

 今、私の顔は締まりなく緩んでいることだろう。

 そんな中でなんとか呼吸を整えたアルバートは、眉を寄せて詰問してくる。


「どういう、心境の変化。ですか」

「アルバート、悪は強欲なんだって、いったじゃない。私が、ここにいても、いいんなら。悪役らしく、手を伸ばしても良いのかと。思いまして」

「……っ!」

「わかっては、いるのですけど、言葉が欲しいな、と、おもいまし……んぅ!?」


 こちらも必死で、たどたどしい、言葉は、アルバートの唇の中に飲み込まれた。

 そのまま引き寄せられるなり、腕の中に閉じ込められる。

 すべて注いで暴き立ててくるような口づけに、私は翻弄された。

 完全に息が上がり、ぐったりした頃になってようやく離されると、悔しそうにそれでも溢れるような熱の灯った紫の瞳に射貫かれた。


「愛しているに、決まっているだろう……っ!」


 アルバートの、取り繕わない、絞り出すような本音だった。

 めまいがするほどの喜びがこみ上げてきて、涙として溢れてくる。

 それをアルバートの唇にぬぐわれて、また嬉しさにどうにかなりそうだ。

 心臓が壊れないのが不思議なくらいだった。

 この人を手に入れられて嬉しいと、思ってしまうくらいには、もう引き返せない場所にいたのだ。私は。


「……ああは言いましたが、あなたの目標が達成されるまでは待つつもりだったんですよ」

「優しいね」

「単に、そうでもしないと自制が効かなくなりそうだと思っただけです。本当に自分の物にするのなら、ほかの奴らに目を奪われていないあなたがいい」

「ほんと、いつも、ごめんなさい」

「本当ですよ。俺も人並みの欲はあるんです」


 真顔で語るアルバートは、私をどれだけ萌え殺せば済むのだろうか。溢してくれた簡素な言葉はそれは全て、私を求めてくれるものばかりで。


「……今更だけど、言葉が乱れたアルバートがめっちゃ嬉しい」


 クソッと、悪態をついたアルバートだったが、私を腕から出そうとはしなかった。

 そんな所もやばい萌え殺されるのか私は、と思うけれども、アルバートの体温が心地よくて、いつもの言葉が消えた。


「あなたの、本当の名前はなんと言うんですか」


 もう情緒崩していいかな……。と時間差で追いかけてきた衝動に屈しかけていたところで、アルバートから質問される。

 ん? と見上げると、彼が少し気まずそうながら続けた。


「……前の、世界では『エルア・ホワード』ではなかったのでしょう? エルディアの愛称から名付けたんですから」

「アルバートが、過去の私に興味を持ってくれるなんて、幸せすぎて私明日死ぬんじゃない」

「エルア様」


 アルバートに睨まれたあげく、ぎゅ、と抱きしめられる腕に力を込められてひょっとなった。慌ててちゃんとこたえる。


「その、ね。確かに違ったんだけど。実はエルアも間違いじゃないのよ」


 ちょっとアルバートの耳に寄せて、もう記憶の底に沈ませていた名前を語る。

 それを聞いた彼は、エルアも間違いじゃないというのが分からなかったのだろう、訝しそうに眉を寄せた。


「まったく、かすりもしませんが」

「アナグラムみたいなものなの。『エルア』って言うのは、私がゲームに登録した名前でね。自分の名前の音をローマ字で解体して、読み方を変えただけなんだ。なにより、ゲームのあなたにはずっとそう呼ばれていたの」


 それに、このハンドルネームはヲタクになった初期から使い続けているから、画面上では本名よりもずっと呼ばれ続けていてなじんでしまってるのよね。


「ホワードも元の名字をもじった奴だから。『エルア・ホワード』も確かに私なのよ」


 そう締めくくると、アルバートはわずかにだが、安堵に表情を緩めた。


「ならば、これからも変わらず?」

「うんそうして。それはそれとして、名前を知っていてくれるのは嬉しい」


 たぶん、それがきっとここに居続ける決心を本当にした瞬間なのだろう。

 ここにいる以上、私はエルアなのだ。そして心から、エルアでいたいと思った。

 だから、やっぱり私は推しがいて、何よりアルバートがいるここが生きる場所なのだ。

 暗躍いっぱい頑張ろう。

 そう決意していると、アルバートの手が不穏な動きをし始める。

 お、およ?


 私が若干の冷や汗を感じながら見上げると、アルバートはずいぶんと愉快げで楽しげな色を帯びていた。


「あの、あるばーと、さん?」

「あまり実感はなかったのですが。そういえばあなた、俺よりも年上なんですよね?」

「う゛っ」


 その言葉が心に刺さった。た、確かに。そうなんですよ。私今の精神年齢めっちゃ考えたくないのですが、その部分を考えると、アルバートと私逆転しちゃうんですよね。


「ってえっ……あのっ」

「少し、考え直したんですよ。あなたが不純物のない状態になるのを待つよりも、何よりも俺を選ぶようにしてしまえばいいわけで」

「んひっ!」


 首筋を撫でられた私が変な声を上げると、アルバートが愉悦に笑んだ。


「あなたが中身だけでも成人女性である以上、とっとと進んでしまうのもありだと思うのです。いかがでしょう?」

「いかがと聞きつつ止まる気ありませんよねえ!?」


 私が声を上擦らせてもなお、アルバートは私を離そうとしない。


「逃げてくださっても良いんですが、俺の望みを叶えるの嬉しくありません?」


 牙をのぞかせながら、小首をかしげるアルバートの膝に乗せられた私は、うっと言葉に詰まった。

 この体勢なら、逃げられる。押し倒されてもいないし、押さえつけられてもいないんだから。今は腰に手を添えられているだけ。


 でも、でも。


 私の手はさまよったあげく、アルバートの肩に乗る。

 この人が幸せが、私の幸せなのだ。

 腕に囚われる事を選んだ私を、アルバートは心底嬉しげに熱い瞳でみつめる。


「俺の腕が届く場所にいてください……エルア」


 囁かれた呼び捨ては、正直気を失いそうでした。

 私の最推しには、今も、これからも勝てなさそうですが。

 きっとこれが私の幸せの形だった。



3章了

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