19 タイマンは分が悪い

 カラン、とアイスティーの氷が溶けて崩れた音で私は我に返る。

 同時にぶわりと脳内が大混乱の渦に陥った。

 えっ、あ、え??? 何この状況。アルバートが上にいる!? あいいえええなんで?何でなの? というか結構不意打ちだったのに頭も背中も全然痛くないんだけど、あそっかアルバートが手を頭の後ろにまわして調整してくれたのかーそっかそっか流石だなあってつまり抱きしめられてるも同然なのでは!? うわあああ近いまつげ長いやべえ顔が良い!

 人は混乱すると一切の論理的な思考ができなくなるのだ。


「あっ、え、どどどどう……? ひぃっ!?」


マジうろたえの私がそれでもどうにか理由を問おうとしたけど、アルバートが私の頬をなぞってきてそれも止まる。

黒い手袋越しの微かな感触なのに、背筋にぞくぞくとしびれのような感触が這い上がってきた。

 その仕草は、有り体に言うんなら恐ろしく意図的だ。

 けれどそれをしているアルバートの顔から、なんの感情も読み取れなかった。


「彼らのためなら……つまり推しのためならなんでもする。と言いましたね」

「い、言ったけど」


普段から割と言っていることなのになんで急に確認するんだ?

 内心首をかしげながらもアルバートから感じる妙な威圧感に余計なことも言えずにいると、彼が紫の目をすう、と細める。


「俺が望めば、なんでもする?」

「それこそもちろん?」


 するりとこぼしてしまったとたん、ぶつん、とボタンが弾け、胸元が外気にさらされる。

 引きちぎられたのだ、と一拍遅れて気付いた。

 あらわになった首筋に、真っ赤になった私がとっさに服を寄せようとしたら、その手は強く握りこまれて阻まれた。

 それだけ強引にことを進めたアルバートは、にもかかわらず淡々と告げるのだ。


「喉が渇きました」


 ようやく、気づいた。

 彼の瞳に揺らぐのは、ほの暗い感情。

 アルバートは怒っているのだ。


 私が何かを言う前に、首筋に牙を立てた。

 普段、アルバートは私が許可をする前に口をつけることはない。

 ぶつりと、牙が肌を突き破るのと同時に灼熱の痛みが襲いかかる。

 いつもならアルバートは極力痛くないように催眠をかけながら、徐々に牙を深くしていく。それを一気に食事ができる深さにまで突き立てたのだ。


「痛い、アルっ……!?」


 私から漏れた抗議の声を、アルバートは無視した。

 反射的に足をばたつかせても、器用に体勢を変えて押さえ込まれてしまう。かえって胴を彼の太ももで挟むように、動きを封じられた。

 のし掛かられる体重も、身動きのできない閉塞感にも混乱する。

 急にどうしたの? 何があったの!? ああしかも、こんなときでも痛みの中に感じるしびれがあるのだ。

 

「ひ、あ」


 いつもと違う。私が悲鳴だけは押し殺していると、不意に牙が引き抜かれる。

 私にまたがって押さえつけたまま、顔を上げたアルバートには、確かに嗜虐の喜びがあった。


「その顔、一度見てみたかったんです。苦痛にゆがんで混乱している、あなたの表情」


 愉悦を含んだ微笑を浮かべる彼は、主張する犬歯をちろりとなめる。酷く横暴で即物的な色気を帯びた仕草に、私の心臓が不自然に脈打った。

アルバートは感情の色が薄いにも関わらず、低くかすれた声でささやいた。

 

「とても、そそる」


首筋の傷がじんじんと主張する中、アルバートは私の左手を手にとると、見せつけるように手首の内側、柔らかいところにかみついた。

ぶつん、また痛みが来るかと全身が強ばる。けれど来たのは甘いしびれで、私はますます混乱する。

アルバートの牙が突き立った箇所から、私の血が腕を伝って流れていく。


「……ああ、もったいない」


まるで今気づいたみたいに、アルバートはその赤い筋を薄い唇でたどる。でも、その仕草が私に見せつけて煽るものなのだと、こちらに流される紫の瞳が語っていた。

アルバートは、私の血で赤く染まった唇をゆがめた。


「無性に、思うんですよ。俺が特別なのだと言うのなら、俺だけに翻弄されていれば良い」

「なに、を」

「俺が、望んでいるんです。ねえ、あなたが痛みをこらえるその姿、見せてくださいよ」


 そう言うと、アルバートはまた腕に牙を食い込ませる。

 穿たれる痛みが指先までしびれさせた。体が勝手に強ばった。

 私が痛みにうめく声さえ楽しげに、彼は痛みとそうでない吸血を繰り返す。

 いいや食事なんかじゃない。アルバートは遊んでいるのだ。


 これもまた、アルバートの一面だと知っていた。

仕事はきっちりとやるし、常に冷静だ。けれど、興が乗ると時々、吸血鬼特有の加虐的な面が覗くことがある。いつもきれいに押し隠しているけれど、自分の懐に入れたもの以外の存在には酷く無機質なのだ。

こういう面を私は何度も見たことがあるし、なんなら向けられたことがある。

けれど、私の意思など関係ないとばかりに物のように扱われて、痛くて息苦しいくらい体の奥が張り詰めて引き絞られる。

 振り払えないほどの強い力で腕をソファに固定されて、足をばたつかせてもアルバートはやめてくれない。

 痛い、くるしい。そうだ。これは蹂躙される行為だと言うことを、否応なしに思い出した。

 アルバートの顔がまた首に近づいてきて、ひ、く、喉から勝手に嗚咽が漏れる。

 一度決壊すると駄目だった。

 ぼろぼろと堰を切ったように涙があふれ出してくる。


「アルバートぉ……怖いぃ……」


 その瞬間、ぱっと、あっけなく手首の拘束がほどけた。

 あふれ出す涙はそうそう止まらず、もはや顔はぐっちゃぐちゃで見せられた物じゃないのは判っている。

 でも顔を隠したいのをこらえて、私はいまだに私を見下ろすアルバートを見上げた。

だって彼は、まるで自分が傷ついているような泣きそうな表情をしてるんだもの。

 アルバートは私にそっと右手を伸ばす。

 反射的にひるんでしまうと、彼は指先を躊躇わせたものの、そのまま私のびしょびしょの頬を包んだ。

 

「……ほら。あなただって、俺ですらされて嫌なことはあるんですよ」


 あの空間を支配するような無機質さが霧散し、いつもよりもどこか柔らかい声音でそう言った。

 嫌なこと、というのがよくわからずしゃくり上げながら見上げると、アルバートが続けた。


「俺だってあなたを大事にしないこういう楽しみ方は嫌です。欲は満たされても心は満たされない。なのに、あなたはあなた自身をおざなりにするでしょう。それが俺には……俺達は嫌なんですよ。いくら俺達や推しのためでもどうなっても良いだなんて言わないでください」

「それで、怒ってたの」

「……ええ。あなたは俺と違って、真性の悪になれないんです。なのにあれだけ慕っている存在から『嫌われて本望』なんて。ねえ、思えるはずないでしょう」


アルバートは私の頬をなでながら、こちらをなだめるような低く柔らかい声で促す。


「嫌なら嫌と言ってくださいよ。わざわざ自分が傷つくことを選ばないで」


アルバートの顔を見た瞬間、またじわっと涙があふれて絶叫した。


「推しに嫌われるのは嫌に決まってるじゃないかあぁ!!!」


 ほんとは仲良くしたかったよ。私に被虐趣味なんかないもの。遠くから安心して愛でたかったし良いなあかわいいなあってによによしたかったしおおっぴらに貢ぎたかった。でもエルディアじゃできなかったし、やっちゃ駄目だったんだ。

 

「さげ、すみの目で見られることや蛇蝎のごとき扱いを受けるのがご褒美の推しだっているけど、アンソンは、ちがうものっ。ぐずっ。できれば、壁のままでっいたかった……!」

「かべ」

「あるいは床。無機物でいたかったです」


アルバートが珍妙な声音で復唱したので、私はずびっと鼻水を啜りながら肯定した。

推しに認知されるなんてそんな不遜なこと許されると思っているのか。まず顔が良すぎて魂が召される。

 まあアルバートも若干慣れた物で、ふうと息をついた彼は私の髪をくしゃくしゃとすいてきた。


「なら、今回余計に悪徳姫が出るのは駄目でしょう」

「で、でもそうしないと」

「俺を幸せにしてくれるんでしょう。ならあなたはあなた自身も大事にしてください」


きっとアルバートは余裕を見せながら、私の心をほぐそうとしているつもりなんだろう。自分が泣きそうなことなんて気づかずに。自分のほうが痛そうな顔をして。

なのに普段通りの声音で、アルバートは言うんだ。


「俺に心なんて自覚させたんですから。それくらいのわがまま、聞いてくださいますよね」

「……あい」


そうしたら、うなずくしかなかった。

だって、だってだよ。アルバートの幸せの中に私が入っているなんて言われたら申し訳ないし、さっきのことも忘れてめちゃくちゃ心が高揚してしまう。アルバートが私を思いやってくれることに嬉しさと今の今までの出来事との落差に心がぐっちゃぐちゃだ。

 

私がゆっくり体を起こしながら、涙をぬぐおうとして、腕に噛み跡がないことに気づいた。

はっそういえば、うずくのは首筋だけだ。

いくら吸血鬼の傷が治りやすくても、ここまで短時間できれいに治るはずがない。


「……さっきの幻覚だったの?」

「こんなことであなたを傷つけるなんて俺のプライドにかかわりますので」


 澄ました様子で、アルバートはそっと立ち上がる。

 なんだよもう、かけられたことすら気づかなかった流石だな!

 私は完全降伏するしかない。けれども。 


「でも、悪徳姫じゃなきゃ、インパクトないでしょ、あの子達が疑う余地なく信じてくれる方法なんて……」

「むしろそこまで劇薬を使う必要がないんですよ。だって彼らは正義の味方なんですから、魔族さえ出てくればかならず来ます」


ああ、そうだ。彼らは見ず知らずの人が困っているだけで助けに入ってくれるんだ。勇者も聖女も、騎士であるアンソンも正義の味方だ。


「嫌われ役は、思い入れのない俺に任せれば良いんですよ」

「え、アル。魔族ってまさか」

「俺の体内にあるもの、なにか覚えているでしょう?」


 アルバートの言いたいことがわかって私がぽかんとしているあいだに、彼はからかうように続けた。


「むしろ、あなたは俺達のボスなんですから、裏でどんと構えていた方が悪の親玉らしいでしょう?」

「そう、いわれて見るとそうかも」


 良いのだろうか、と悩む私も彼は織り込み済みだ。あっさりと先回りして納得させちゃうんだから。

もうわかっているとはいえ、アルバートには一生頭が上がらないなあ。


「こちらはどうにでもなりますが、問題はどうやってフランシスを止めるかですよ。さあ、あなたの考えを聞かせてください」

「うん、その。殺されて困るひとを先に確保すればいいかなあって」

「……確保、と言いますと」


眉を寄せるアルバートをそっと見上げてぼそぼそと言った。


「ちょっと誘拐しません? オウジサマ」

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