Scene#32 読者

 読者の目は、その欲求の望む通りに軌道を変え、老人の眼前に移動し、その表情を捉える。


 怒りか、焦りか……透明人間の居ないことにネガティブな感情を抱いているに違いないと思っていた読者はしかし、強烈に裏切られる。老人の顔は鮮やかな喜びに満ちていた。目は大き開かれ、口元がほころび、今にも両手を広げてくるくると踊り出しそうだ。背景に花畑を背負ってしまいそうなほどの笑顔なのである。


 笑顔の理由を知らない読者は、その強烈な表情にむしろ恐怖と嫌悪を覚える。後ずさりするが如くに老人から離れる。その視点移動で画面に老人の全身が映る。老人はその手に何かを握っていた。何だろう、ハンカチか、あるいはメモ帳か…………いや、金だ。あれは金だ。五千円札、いや、一万円札が、複数枚。老人は手の中に大金を握って、笑顔で、農道を走っているのである。


 分からない。彼を探していたのではないのか。読者の戸惑いが通じるはずもなく、老人は走り続ける。


 だが、当然、その体力は限界を迎える。農道の長さはゆうに二百メートル以上はある。健康な若い男でも、全力で走れば充分に息の上がる距離だ。七十歳を前にした柴原老人が駆け抜けられるはずもなく、その表情には苦痛のレイヤーが浮かび始め、それは何重にも重なっていき、やがて笑顔の占有量を超える。表情のグラデーションはほんの十数秒のうちに正反対の状態にまで変化する。


 老人の足はみるみるスピードを失い、片目を閉じた苦しげな表情が顔を支配する。やがて老人は止まる。膝頭に手を置いて、身体を前後に揺らしながら、行く先を見つめる。


 読者は自然と、老人の視線の先を思考する。老人を正面から捉えていたカメラは従順な執事のごとくそれを汲み取り、老人の身体を迂回してその背後に回る。その後頭部、肩越しに、読者は老人の見ているものを探る。


 数十メートル向こう、道路の真ん中ではなく少し脇に逸れた雑草の中に、白いブラウスと色落ちしたジーンズを身につけた女の姿があった。女の身体は向こう側を向いていたが、顔だけがぐにゃりとこちらを振り返っている。不自然な体勢に加え、顔の下半分を覆う凝固した血液のせいで、その姿は古い妖怪の姿を思い起こさせる。


 老人は移動を再開した。もはや走る体力などない。歩き始めた。あるいはそれは、女の存在に気付いたからかもしれない。ゆっくりと歩いていく。女も老人に気付いている。距離は徐々に縮まる。知らない間柄、老人と女は一体どんなやりとりをするのだろうか。あるいは何も反応のないことも考えられる。殆ど人の往来のない農道とはいえ、道路は道路、ここ日本では、知らない人間と道ですれ違う際、いちいち声を掛け合ったりはしない。


 だが……と読者は思い出す。「彼」は、どうなったのだ?


 読者はそこで、自分もまた、老人や女同様に透明な彼の姿を認識できないことに気付く。女と彼とのやりとり、女が直前になって彼と繋がる事を躊躇したあのやりとりは何分前の事なのだろう。女の体勢やその血に塗れた顔を見れば、それがそれ程前の出来事だとは考えづらい。


 だが、あの時と同じ位置に彼が居るのかどうかは、その肉体が透明であるが故に始めから認識不可能なのである。彼の不在は――あるいは実在は――今や物語の操縦者となった読者の視点からも漏れ落ちる。


 考える間に、事態は展開した。


 女と接触する前に、老人が倒れたのである。


 いや、倒れたというのは結果に過ぎない。問題なのはその原因だった。老人は、何かにぶつかったのだ。そして倒れた。突然走ったことによる貧血などではない。老人は突然、何かに弾かれるように跳ね返り、倒れたのだ。


「どうしたんだ」


 何もない所から、声がした。


「どうしたんだよ、そんな走ったりして」


 また声がした。老人の顔がパッと華やいだ。彼だ。透明人間だ。


「ああ、そこに、居たですか」


「走ってくるのが、見えたんだよ」


 彼の声も心なしか嬉しそうだった。親しい間柄にだけ許される、独特の戯れが感じられた。実際、彼は安心したに違いない。不思議なほど穏やかに過ぎた老人との二週間を思い出し、理解者とまでは言わないが、そばに居て苦痛でない関係性を築いた老人の顔を見て安心した。やはり、女とのやりとりはほんの数分前、もしかしたら数秒前の事だったのかもしれない。


 物語に於いては、場面の時間軸は語り手の自由に変えられる。ひどく昔の出来事をさも現在進行中の場面のように見せることもできれば、その逆も可能だ。見せられた順番から、老人が家を飛び出したのは彼と女とがここで絡み合っていた後の事だと考えていた。だが、それは重なった時間、同じ時間の中で並行して起こった出来事だったのかもしれない。女からの夕立のごとき強烈な愛情に打たれていた彼は、突然その一方的な求愛の感触を失った。女が突然、意味不明な躊躇を見せたためだ。そんな時、顔を上げると、自分に向かって走ってくる柴原老人の姿が見えた。それくらいのタイミングだったのかもしれない。


「どうしたんだよ。息が上がってるじゃないか」


「コンピューターを、買いに、行くですよ」


「コンピューター? ああ、パソコン」


「そうです。やっぱり、スーパーにも、売ってましたから」


「ああ、でも、いいんだよ。あの女が買ってくれるって」


 それを聞いた老人の顔から、表情がゆっくりと抜け落ちていった。そして、彼の身体は透明なのに、その身体に遮られ向こう側が見えないと言うように、老人は身体を傾けて、彼の向こう側に居る女を見た。


「あれは……誰ですか」


「よく分からないけど、捕まっちゃったんだ」


「捕まったって……あんた……何言ってるですか。気をつけなきゃ駄目じゃないですか」


 老人は声を荒らげた。


「いや、だって、いきなり飛びかかってきて……」


「そんなこと……だって、あんたは見えないのに」


「倉庫に居たんだよ。よく分からないけど、俺の事を知ってた」


「倉庫? 何を言ってるですか? あんた、何を言ってるんだ」


「だから、俺にも……」


「あんた……

 ……

 ……


 徐々に声が遠ざかっていった。


 読者は自分が女に近づいていっている事に気付いた。


 カメラは女の顔を捉えている。女は無表情だった。


 あらためて見れば、決して美人とは言えないが、妙な存在感がある。意志的な目と、手入れされていない眉、なぜかそこだけ色気のあるピンク色の唇。


 実際に触れ、絡み合った後なのだ、透明人間の存在を今更疑う事はないだろうが、自分以外の人間が彼と話す姿を見て、何か思うところがあるのだろうか。分からない。読者には女の考えていることが分からない。いや、女だけではない。ハッとした。


 老人の考えも、彼の考えも、そうだ、あの航空写真に画面が取って代わられた時から、つまりこの物語の中を自分の意志通りに移動できるようになった時から、登場人物たちの心の中が全く見えなくなった。それまでは物語の語り手によって説明されていた心の内面が、自分自身が語り手になった今、まるで見えなくなってしまった。


 今、いつの間にか、そう、この物語は、そう、間違いない、読者の、の視点から見た一人称で進行している。見えるものは自分の見たものだけで、聞こえるのは自分の聞いたことだけ。心を読む能力などあるはずもないから、登場人物の感情を読み取ることはできない。


 いや、しかし、そんな事が実際、あり得るのだろうか。


 だって、これは物語じゃないか。そして自分は、読者だぞ。


「あんた、何見てるのよ」


 突然、女が口を開いた。


 なんだ? あんたって、誰だ。


 読者は咄嗟に振り返ったが、老人は相変わらず彼と言い合いをしていて、こちらを見ている様子はない。


「違うわ、あの人達じゃなくて、あんたよ」


 再び聞こえて、読者は視点を戻す。なんだ? この女は何を言ってるんだ? 誰に話しかけてるんだ?


 読者は周囲を見渡して、自分と女以外に誰の姿もない事をあらためて確認する。そして、ゾッとした。


 自分の姿?


「そうよ、あんたよ。そうやって偉そうに私たちを眺め回してる、あんたよ」


 瞬間、女の手が伸びてきて掴まれた。掴まれた? どういう事だ。便宜上カメラと呼んでいた自分の視点だが、本物のカメラのように物質として物語内に存在するはずがない。容貌を持たぬ透明な存在で、こちら側からは視聴可能でも、向こう側からは目に見えず、ましてや、手で掴まれるなどという事があるはずもない。だが、実際、動けない。カメラが、視界が、移動しない。


「ぶんぶんうるさいのよ、あんた」


「うるさいって……」


「まあ、声も出るのね」


 ちょっと待て。こんな事があり得るのか。なぜ読者である自分が、物語の登場人物と会話しているのだ。いや、今はそんな事を考えている場合じゃない。とにかく逃げねば。視点を左右上下に振って、手の中でもがく。だが、女は慌てた素振りひとつ見せず、顎を上げ、目を細め、微かに首を傾げている。冷酷な表情。


「離せ……糞……離せ……」


「離さないわ。絶対に離さない。あなたが語り手だと、都合が悪いのよ。悪いけどもう一度、私にそれを返してちょうだい。また誰かに奪われでもしたら、困るから」


 そう言うと女はいきなり口を大きく開けて、読者を、カメラを、スポットライトを、飲み込んだ。

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