Scene#31 読者
なんだ?
今、何が起こったのか。
……
「読者」は記憶の途切れを覚える。
いつの間に転換が行われたのだろうか。
画面は上空からの俯瞰写真に占められている。
……
……
なんだ、何の写真だ……。
先ほどまで、農道の上で淫らな行為に及ぶ、透明人間と女の様子を見ていたはずだった。
女は直前になって怯えた。その性器を体内に取り込む直前になって、透明人間の透明な容貌に、蔑むべき男子生徒のそれを重ねてしまった。馬鹿な女だ、そう誰もが思うだろうという自信を持って、読者はこう考える。
「使えない女だ。本当に透明になるのかどうか、確かめればいいものを」
読書中、読者の倫理観は独特に機能する。仕事をしている時や、家族といる時、あるいは恋人といる時とも違う、読書の時にだけ実現可能な特有の配合比をもって、読者の考えは決定される。
作品中の世界観に完全に浸かる事もなく、かといって普段の自分のいる世界とは明らかに違う、まるで現実と夢の間のような空間で、読者は思うのだ。この馬鹿女め、なんでそこで躊躇するのだ。お前は読者を楽しませるために登場した、それだけの為に用意された、作中の人物だ。便宜上ひとりの人間として描かれてはいるが、実際には、物語全体を構成するひとつの部品に過ぎぬ。奇妙で不快な物語にここまで付き合ってきた読者の為に、その身を捧げ透明人間と交わって…………
………
……
そうだ、確かにそこで一瞬、何かが途切れた記憶がある。
いや、気のせいかもしれない。突然場面が転換したので、そう感じるだけかもしれない。そもそも、目の前で舞台装置の変更される演劇などでもなければ、映画でも小説でも場面転換は突然起こるものであり、そこには毎回、このような記憶の断絶感とも呼ぶべき感覚が多少なりとも存在する。
いずれ女の姿はそこになく、画面は俯瞰写真に取って代わっている。俯瞰写真というより、航空写真と言った方がいいかもしれない。それは上空から垂直に地面を見下ろす形で撮影された、正方形に近い形の写真である。右端から左に四分の三ほどは深緑や朽葉色に染まり、残りの四分の一は青白く見えるビル群が、大都市に比べれば随分余裕のある配置で並んでいる。
ああ、と読者は思う。これは他でもない、物語の舞台ではないか。
「彼」の一人暮らししていたワンルームマンションを除けば、物語はこの正方形の中だけで展開されている。山と、田畑と、商業地。そう、山の中には柴原老人の家や公衆浴場を備えた集会所があり、左側の商業施設の中にあるカレー屋で老人はカレーを買った。そしてつまり、枯れた海のごとき田畑の中心を針のように貫いているのが、先ほど透明人間と女が白昼堂々絡み合っていたあの農道なのだ。
その農道の上を、小さな、ほんの小さな点が、滑るように移動している。なるほどこれは写真ではないのだ。言うまでもなく写真は静止画であり、切り取られた一瞬は、色彩やプリントされた紙の経年劣化を別とすれば、その中に変化の起こるはずもない。小さな点であろうとも、動くものがあればそれは即ち写真ではなく、録画された映像か、あるいは現実の世界であることを意味する。
読者の目はその「点」に集中する。読者を乗せた視線は読者の意図を汲み取り、まるで未来の乗り物のごときスムースな動きで点に近づいていく。読者はいま自らが視点を操作、いや操縦している事に微かな違和感を覚えつつ、だが、これはよしと移動を早め、農道の上を移動する点が徐々に大きくなる様を、観察する。
点は、あるいはそれを囲む田畑は、虫眼鏡で拡大した蚊のように複雑な具体を獲得し、各自は活き活きと動き始める。植わった野菜の葉、一枚一枚が、風に揺れているのが見える。農道は沸騰する黒い水の如きアスファルトの表面を徐々に顕にし、やがて移動する点は人の形になる。白い頭髪、見慣れたその姿に、読者は答えを投げつける。
柴原老人だ。しかも、走っている。
老人は、間違いなく走っていた。二週間前、力なく側溝に転げ落ち、自力で這い出ることすらできなかった柴原老人が今、農道の上を駆けていた。
「私」という語り手の存在を凌駕し、自らその「操縦者」となった読者の目が、老人の全力疾走という迫力ある風景を捉える。視点は既に、老人の上空数メートルの所まで接近し、残像となって過ぎていく道路と雑草――いやそれはスピードをまとって、もはや微妙な煌めきをまとう灰色と緑の帯にしか見えない――の中を走る老人を追う。真上から見下ろしているので顔は見えない。
それにしても、どうしたというのだろうか。老人に何が起こったのだろう。老人がこれほど身体を酷使せねばならぬ状況とは一体どれほどのものだろうか。
何かが起きた、何かが起きたのだ。
この退屈だった物語はついに動き出す。老人はカレーを買って家に戻った。読者は努めて冷静に記憶を探る。そうだ、家の居間で立ち尽くし複雑な表情を浮かべた老人の顔を見た。それは一瞬の映像だった。視界を航空写真の覆う前に一瞬流れただけだったが、覚えている。
なるほど老人は、透明人間が戻っていない事に気付いたのだ。そして心乱され、思わず家を飛び出した。そうに違いない。以前も、飛び出しこそしなかったが彼を求めて玄関の外まで出てきた老人を見た。柴原老人は彼を求めて今、農道を全力で駆けている。進む先には彼と女がいる。老人にとっては見知らぬ女。他に脇道のない一本道、老人と女は必然的に出会うだろう。ドラマの発生は目に見えている。
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