Scene#29 あなた

 画面には二つの場面がある。


 彼の上で突然我に返った私と、家の居間の真ん中でひとり立ち尽くす老人の姿だ。

 どちらも止まっている。


 田畑の中に伸びる農道で透明人間の身体にまたがり、その性器を自分の性器に押し当てている「私」と、先に帰ったはずの彼が居ないことに気付いて、そのボロ屋の居間で静かに発狂した柴原老人。


 この二つの画面からカメラはさらにズームアウトする。


 そこに、「第三の画面」が現れる。そこに映っているのは―――


 「私」という視点から物語を見ていた「読者」である。


 これまで「私」という乗り物に乗って移動してきたこの物語の読者は、今、物語ごと凍結された。


 批評家ビンセント・キャンビーがと表した「第四の壁」は、この物語においては、早い段階から意図的に侵食され続けてはいた。


 本来、物語の中で読者の存在が意識されることはない。だがこの物語の語り手は読者に何度も語りかけ、単なる場面転換――小説ならば普通触れられることはないし、劇場で行われる演劇の場合でも、それは暗転したステージの中で密やかに行われる――までを事細かに描写してきた。


 だが今や、それは侵食されるに留まらず、物語はで機能を停止した。


 彼らは、氷の中に閉じ込められた化石のようなものだ。ひとつの演劇場を想像して欲しい。舞台と観客席、役者と観客。いま、演劇場全体は瞬間凍結され、語り手である私――これをこれまでの語り手である「私」だと考えるかどうかは自由だ――の手の中にある。


 さて、ここで当然の疑問が浮かぶだろう。


 「いまこれを読んでいるのは誰なのか」という疑問だ。


 この物語はつまり、いまこれを読む「あなた」という「新たな読者」を獲得したのである。


 夢の中の話だと断れば、人はどんな物語も受け入れる。


 そう、これは夢の話であった。


 夢の中であれば、どんな突飛な出来事も起こり得る。


 私はいま、この凍結された物語の停止を解くよう、「新たな読者」から期待されているのだろうか。「私」が「彼」とどうなり、柴原老人がどういう行動に出るのか、その顛末を語る責任があるのだろうか。新たな読者もやはり、物語とは「何が語られるのか」が重要だと考えるのだろうか。


 もちろん、私はその考えを否定する者ではない。


 だが、忘れてはいけないこともある。


 読者は強力な「第四の壁」によって、通常ならば透明な状態を保たれている。だが、それは見えないだけで、無存在の証などではないのである。その存在が目視できないとしても、この文章を読んでいる「読者」は現実に存在しており、役者たちがその手を伸ばしさえすれば、無意識に、あるいは意識的に、読者の身体に触れてしまうことはあり得るのだ。


 目の前には、かつて読者「だった」者たちの停止した姿が見えるだろう。いまこれを読んでいる「あなた」も彼らのように、突然にその透明性を失って、物語の中に、舞台の上に引きずり出される可能性があるということ。


 物語の停止を解くのは、「あなた」だ。あなたが先を読み進める事が、停止の解除を意味する。


 ……

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