Scene #28 私

 こんな経験をした女が世の中に何人いるだろうか。


 ふと、彼を押し倒した時に道に投げ捨てられた鞄が視界に入った。その中に白い文庫本が見えた。『鬱』だ。『鬱』はじわじわと蠢いているように見えた。


 嫉妬。それは明らかに嫉妬であった。私の視線を長く独り占めしてきたあの長編小説が嫉妬している。


 そんな必要はないのに。むしろあなたは報われたのだ。私という存在の報われるのをいま見ているのだ。私の満足は目前に迫っている。精液ではなく性器そのものを根本から飲み込むつもりで激しく頭を上下させる。彼を達せられずとも、初めての、性交による絶頂を私に迎えさせて欲しい。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 口いっぱいの状態で話すからそれは言語障害の人の言葉のように響く。そんな自分を愛しく思う。瞬間、肉体的快楽に対する動機を私は見失った。自己肯定感。いや、それは優越感と言っていいものかもしれない。言いようのない優越感が私を包み込んでいた。


 それは所有した瞬間にあたたかなミルクのような状態に溶けて静かに浸透した。攻撃的な意思はそれと一緒に消え去って、それまで嫌いで仕方なかった色々なものに愛情を感じる。


 自己肯定感や優越感とは、留まることで効果を発揮するのではなく、むしろ様々な雑念とともに自らを消滅させる事で心を洗浄する。ネガティブな感情で満ちた部屋を家具ひとつ置かれていないまっさらな状態に戻してくれる。広々した空間には何でも置くことができる。嫌いだった美人のクラスメイトも、見てくればかりに囚われる馬鹿な男子生徒も、学校も、訳知り顔の書店員も。


 私は彼の股間で激しく頭を上下させながら尻を振り、ジーンズとショーツを下ろしていく。ひどく穏やかな気分だ。踵で反対の足のスニーカーを脱がせ、そこから片足だけジーンズとショーツから引き抜く。太陽に熱せられた風が私の濡れた性器をなぞって少し温度を下げる。性的興奮とは違う、知的好奇心でもない、プールの底を潜水して進みながら息が苦しくなり始めた時のあの感じに似た体内の乾きが私を急かす。彼と繋がっていない事に違和感を覚える。急がなければならない。


 透明な容貌を持つ彼は、荒ぶる熱は、私の足元に跪き命令に従うような安い存在ではない。私はいち早く私の「価値」を提示し、彼に求められる存在になければならない。


 口の中にはまだ彼の性器がある。何百回もの摩擦行為により頬の筋肉は痺れ、疲れ、唾液を媒介にして彼の皮膚と私の粘膜は同化してしまったように感じる。絶頂の予感は口内ではなく下半身に移動した。彼の脇腹辺りを優しく撫でながら、刺激せぬよう慎重に口を離し、まだ性器の硬度が健在なことを確認すると、ゆっくりとその先端を顕になった傷口に押し当て、深呼吸する。先ほど自分が何気なく発した言葉が思い出された。セックスをすれば私も透明になるのだろうか。彼の透明な熱源で貫けば、私自身も容貌を失うことになるのだろうか。透明な容貌を手に入れることができるのだろうか。


 いま腰を落とせば、彼は私の体内へと侵入する。性器に宿る彼の本体がすっかり体内へ取り込まれ、彼は外見の見えない体内から私を見定める。


 私はふと迷いを感じた。


 そんな――。


 彼が完全に私の体内に取り込まれた時、それは、私もまた一般的な意味での容貌を失ったことを意味するのではないか。


 彼の機能がすべて性器に移っているのだとしたら、体内に移動した彼からの目線では、私は最早人間の形状を留めていない。彼は熱源の先端に悠々と立ち、ピンク色や白や灰色をした私の内蔵を眺める。眼前にある子宮の入口を見て、彼はそれを私の容貌だと、だと認識するだろうか。あるいは自分で言った通り、彼と交わることで容貌を失う可能性もある。彼の目線に限らず、誰の目からも外見を認識されなくなるとしたら、私自身が彼と同じ透明人間になるのだとしたら。


 ちょっと待って――。


 それでもいいと思っていたはずだった。元より、誰からも愛されないこの容貌を私は憎んでいた。だから、彼の答えがイエスであれノーであれ、構わないと思っていた。捨てたい、こんな顔を、こんな身体を、捨てたい、私の容貌に価値はない、ずっとそう考えてきたのだ。


 だから私は『鬱』という小説にカバーを掛けられることを拒否し、容貌の代わりに、その小説を私の容貌として教室で晒した。だから私は透明な容貌を持つ彼に憧れた。憧れとは対象と同化する、あるいは距離を縮めようとする欲求を前提に含んでいる。


 私は彼になりたかった。彼と同じになりたかった。


 だけど――。


「なんだよ、どうしたんだよ」


 彼の声がして、私はハッとした。強気な内容とは裏腹に、彼の言葉には喉を彫刻刀で削るような痛みが篭っていた。見えない母親を探す子供のような声だった。いや、そこに迷い子の切実さはなかった。あるのは、早く性的な絶頂を迎えたい、自分の性器を女の中に埋めたいというごくありふれた欲求と、それが叶わない可能性に気付いた驚きだ。媚だ。甘えだ。情けなく、力のないヒステリーだ。


 瞬間、彼の透明な容貌に、教室の中で可愛い女子を盗み見る男子生徒のそれが張り付いた。彼はもはや透明ではなかった。ザーメン臭いニキビだらけの男子。女子の肌に触れる妄想で股間をふくらませる青臭い男子だ。自ら口で奉仕し服を脱ぎ股を開いた私に、安心しきっていたに違いない。


 混乱が訪れた。それは岩の間から滲み出るように、静かに、穏やかに、現れた。混乱は結果的に、私を現実に引き戻した。


 私は日曜の昼間、人気はなくとも屋外で、下半身を顕にし、何をしているのだろうか。


 何をしているのだろうか。


 何をして――――


 何を――――――


 画面がブレて、歪む。


 そして停止する。


 停止する直前、枠外から別の画面がはみ出し、そこに柴原老人の姿を映す。あの居間で呆然と一点を見つめる、老人の姿。


 画面は彩度を落とし、灰色になって止まる。

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