Scene #27 私

 想いなど伝わらない。感情は言葉には変換不可能だ。他者の感情が肉体を超え、何も足さず何も失わず、それそのものとして自分の中に移動してくる、あるいはその反対の動きで、自分の感情が他者にそのまま移動するなどという事はない。


あるのは判断だ。言葉や表情や態度をもとに感情を推測し、人間は反応の方向性を自ら判断する。今、彼は彼の責任で、全財産に等しい金を差し出しパソコンを購入すると訴える私をする。


 そして彼の力が緩んだ。私は彼の身体をよじ登るようにして首筋に絡まった。唇を押し付けた。自分の鼻血が彼に付着し、宙に浮いたまま静止した。彼を穢してしまったと私は舌先でそれを舐めとった。他人にはまだ一度も暴かれた事のない私の幼い傷口を、今すぐ透明な彼のもので深く貫いて欲しいと考えた。その為になら何を差し出しても構わない。一つだけ気になっていたことを聞いた。


「セックスをすれば私も透明になるの?」


 彼は答えなかった。だが、答えがどうであれ私の気持ちは変わらない。この一週間、透明の身体の細部までを想像した。砂曼荼羅は不必要となり、破壊された。私は彼の股間部分を探り、そこに既に硬くなったものがあるのを確認して、彼の判断を知った。彼は私を受け入れたのだ。喜びよりも先に安堵があり、安堵は既に微かな倦怠を孕んでいた。少しでも油断すれば出来事は死後硬直を始める。関係性は常に刷新されねばならない。能動的な変化が必要だった。気持ちを奮い立たせ、彼のものをあらためて掴んだ。彼のは継続し、私の到来を求めていた。


 私は処女である。男の性器をこんな風に掴んだ経験がないので、その感触が一般人のそれとどう違っているのかは分からない。それは独特の手触りを持っていて、首や胸などと同様、有機的な皮膚とは違うどこか人工繊維的な物を連想させたが、強く握ればその芯は充分な硬度を持っており、私への侵入は問題なく果たせそうだった。


 私は、王子様とは張形はりかたなのだと考えた自分を恥じた。否。張形だと考えた自分を。現実の彼は紛うことなき「人間」であった。そして彼の性器は、活き活きと脈打ち、暴力的に発熱し、収まる場所を求めていた。自らを圧迫し、摩擦し、高めてくれる狭い部屋を求めていた。


 彼は身体をくねらせたが、表面的な抵抗はもはや何の意味も持たない。私はそう判断した。いや、もはや彼の顔や手足は、けやきの幹に残るセミの抜け殻ほどの意味しかない。彼の本体はこの十五センチ程の棒に移管され、火傷する程の高熱によって自家発電を行っているのである。


 私の傷口は涎を滴らせ始めた。湯の沸騰するように、自分の性器から漏れ出た体液がぶくぶくと泡立っているのが分かった。彼の身体を滑り降り熱いものを――彼自身を――口に含んだ。微かに感じられる汗と垢の臭いが嬉しくて堪らず、彼がやはり張形などではなく正真正銘の人間だという確信を得る。


 彼の容貌を持たないこと、姿の見えないことに価値を感じるのは間違っているのかもしれない。彼は自分好みの容貌を投影できる変幻自在な王子様ではなく、むしろ唯一の人間なのだ。彼の価値は容貌のないことではなく、透明な容貌を持っていること。一見同じ事の裏表に見えて、その実価値内容には大きな差があると私には思われる。


 私は夢中になって彼を頬張り、口内の粘膜でその存在を味わう。初めてのフェラチオはまさに口腔性交と呼ぶに相応しいものだった。私は昂り、摩擦される口内の細胞により肉体的な快感すら味わった。性行為による絶頂が自慰によるそれとどのように違っているのかは分からない。だが、このまま彼を咥え続け、擦り続けていれば、遠からずその境地へと達することができると私は思った。だが一方で、やはり経験のない私のやり方は拙いのだろう、「彼の」絶頂は徐々に遠ざかっていくようにも思え、その証拠に、彼は時々苛立ったような呻き声を漏らすのだった。


「ごめんなさい、私、頑張るから。これから一生懸命、頑張るから」


 私は謝った。自分の未熟さが恥ずかしかった。腹の下に手を差し入れてジーンズのボタンを外した。スカートを履いて来ればよかったと後悔しながらジッパーを下げ、尻を振るようにして脱ごうとすると、傷口から垂れた涎がショーツだけでなくジーンズにまで染み出しているのが分かった。


 ひどく暑い。背中を汗が滑り落ちる。肌に張り付いた衣服ははうまく脱げず、その焦りはすぐに投げやりな気分を呼び込んでしまう。彼との関係性、その末端で、早くも壊疽が始まっているのを感じさせる。私は目を見張ってそのイメージを振り払う。


 既成事実が必要だった。太陽光に照らされて煌めく雑草に見守られ、固いアスファルトについた膝に角張った痛みを感じながら、白シャツを血で紅く染めて、透明な容貌を持つ彼の性器を体内に侵入させる。

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