Scene #26 透明になった男、そして私

 農道に入ると一気に視界が開ける。日曜の昼間、当然の如く老人と私以外に歩くものはいなかった。


 仮に老人が後ろを振り返れば、こんな昼間だ、嫌でも私の姿が目に入る。どうするのかと彼が見ていると、私もそれに気付いたのだろう、何度かきょろきょろして、やがて道の端にしゃがみ込んだ。長く伸びた雑草が身体を隠してくれるし、首を伸ばせば老人の位置も把握できる。農道は脇道のない一本道なので、多少目を離しても姿を見失うことはない。


 なぜ私は追ってきたのだろうか。


 老人が目印に過ぎない事は彼にも分かっている。私が追っているのは老人ではなく、彼だ。そして私は、彼の透明であることを受け入れている。それをとすら思える。


 そもそもあの倉庫で私は一体何をしていたのか。自ら服を捲りあげブラジャーを顕にするという奇妙な行動も、突如訪れた混乱によるものというより、既存イメージが咄嗟に表出したという感じだった。最初からああすることを考えていたのではないか。あの場所で女が乱暴されたのを知っていたのかもしれない。そしてその相手が、透明人間だったということを。


 まさか。そんなこと、誰が信じると言うのだろう。


 農道に入ったら、何らかの方法で、彼は私を止めるつもりだった。このままいけば、自分の住処が知れてしまう。暴かれれば、彼はまた新たな居場所を探さねばならなくなる。だが、追跡を妨害するにも、人通りの多い中ではできることは少ない。人目のないこの農道に入るまでは、手出しできなかったというのが実情だった。


 十メートル程向こうに、潜水艦の望遠鏡のごとく首を伸ばし、老人の後ろ姿を見失うまいとする私の姿があった。彼は振り返り、通りの側から誰も来ない事を確かめると、ゆっくりと私に近づいた。草木のにおいが一気に増す。田畑から舞い上がった土が、風に乗って鼻孔に入り込むようだ。山に近づけばより暴力性を増すこのにおいを感じながら彼は私の後ろに立つ。


 中肉中背の身体、服装にも特徴がなく、髪は黒い。足元はよく見るキャンバスのスニーカーだ。横顔は幼く、化粧っけがない。彼は改めて新鮮な驚きを感じる。ここにいるのは、彼の知っている女とは別の生き物のようだ。彼の知っている女たちと違い、私は服装や化粧やアクセサリーや香水で着飾ってはいなかった。


 彼は躊躇する。私を押し倒し強姦するならばあるいは、この間の倉庫のように恐れなく行動できたかもしれない。性行為は彼にとって、唯一選択可能なコミュニケーションの方法だからだ。だが、この見慣れぬ姿をした私を「止める」という事、性行為以外の方法でこの子供のように見える女に関与するという事が、彼を恐れさせた。


 植物や土のにおいに満ちた空気を彼の戸惑いが揺らした。石の投げ込まれた水面のように波紋は広がった。背中から吹く風に乗って彼の戸惑いは伝播した。空も田畑も風も、意地悪な観客の如くに粗暴な野次を飛ばした。


 私が突然振り返った。眉間にしわを寄せ、彼を見た。


 思わず彼は小さな悲鳴を上げた。次の瞬間、私は目を見開いて彼に飛びかかってきた。あまりの勢いに避ける事も叶わず、彼は深い雑草の中に押し倒された。


「捕まえた。捕まえたわ。ねえ、あなた、すごい、触れる。捕まえたわ、あなた、透明人間なんでしょう」


「糞……離せ……」


「まあ、声も」


「何だ……離せよ」


「離さない。絶対に離さない。安心して、私は味方よ。あなたを探していたの。お願いだから暴れないで頂戴」


 彼は心底震えが来て、恐怖から筋肉が硬直し、一方で私に対する印象が確定したことで怒りと憎しみを得、その硬直した腕を木刀のように振り回して私の頬を打った。私の顔は人形のように後方に向けてへしゃげ、間を置かず鼻血が吹き出て白シャツの襟元を赤くする。だが私の勢いは収まるどころかさらに高潮し、「大丈夫よ、大丈夫、怖がらなくていいわ、ねえ、私は味方よ」と、まるで殺気立つ捨て猫を説得するような言葉を吐きながら、彼の身体に強くすがりつく。その体温が生々しく彼に伝わる。私は全身に汗をかいている。頬が紅く染まって息が荒い、まるでセックスの最中のようだ。彼は身じろぎした。もう一度殴ろうとして、勢い良く流れ出る鼻血に躊躇し、髪を掴んで持ち上げる。彼の胸の上で私の顔が生首のように持ち上がる。私は笑った。


「あなた、ああ、そこに顔があるのね、大丈夫。私は全部知ってる。騒ぐつもりはないの。本当よ。怖がるのも無理ないわ、けど、怖がらないでいいの。大丈夫よ」


 全部知っている? 何のことだろうか。だが、透明である彼に驚かず、恐れず、掴みかかってくる時点で、私が一般的でない思考を持っていることは明らかで、彼は一瞬、柴原老人のようにこの女が自分の生活の一部に組み込まれる事を想像した。彼の書こうとしている文書の登場人物として、機能するかもしれない。


「全部知ってるって、何だ」彼は言った。私の顔が小爆発を起こした。嬉々として話しだす。


「あなたが透明人間だってこと。だけどこうして触れる」


「見えないだろ」


「見えない。でも、いいの」


 私は言った。心からの言葉だった。相手の身体が透明だという事は、様々な面で私に苦労を強いるだろう。だが、実際にこうして自分の手の中に彼を感じ、皮膚とも服とも言えぬ独特の質感を体験すれば、そのような心配は些細な事だと知れる。


 視界に彼の姿は映らない。だが、私はすぐ傍に彼の怯えた顔のあるのを感じた。恐怖のあまり私を殴り、乱暴に髪を掴んだ。無理もないことだ。倉庫で彼を待つ間、私は彼の事を考えた。一度は誰もが夢見る透明人間としての生活が、その実、多くの困難を伴うだろう事は容易に想像がつく。


 どんな経緯で、どんなきっかけで容貌を失ったのかは分からないが、彼は多くの助けを必要としているに違いなかった。そういえば、彼と行動を共にしていたあの老人は誰なのだろうか。鼻からの血が止まらない。余程うまく殴られたのだろう。経血以外に自分の血を見るのは殆ど初めてかもしれない。私はずっと、殻に閉じこもって生きてきたのだ。


「後をつけてたろ」


「あなたの助けになりたいの」


「お前、何なんだよ」


 再び殴られた。今度はこめかの辺りに衝撃が走った。殴られた場所ではなく首で痛みが発生する。顔を背けた拍子に掴まれていた髪がぶちぶちと千切れた。辛い。だが、彼はもっと辛いのだ。


 私達は一般的なカップルとは違う。何度も会う中で徐々に愛情を育んでいくなどという暇はない。出会いの瞬間、愛情はピークを迎えていなければならない。私は今日の一度で、彼の恋人にならなければならないのだ。


「パソコンを買ってあげるわ、パソコンが欲しいんでしょう?」


 咄嗟に言った。嘘ではなかった。先ほどスーパーで見たパソコンには十五万円程の値が付いていたが、貯金をかき集めれば買えないことはない。


「あなたの望む通りにするわ、だから話を聞いて」

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