Scene #25 私? 透明になった男、そして私

 思考は思考で、感情は感情で、別の何物にも置き換え不可能である。当然、文章化する事もできない。どれだけ緻密に書き記そうと努めても、文字になった時点であらゆる思考はフィクションになる。


 小説とは抽象である、とある作家は言った。実際に所有された思考や感情を、あるいはその時の情景を、出来事を、実際の通りに文章化することはできない。まして端から「夢の話」だと断って開始された物語である。


 いま読者の見る、鬼の形相で倉庫を出、通りを行く老人の背中を見つけるやいなや足を早めた「あの女」。透明人間などという不確かなものを信じ、その超自然的な存在との邂逅を果たしたと勇んで追跡を開始したあの女をこの物語の語り手だと信じているとしたら、この物語があの女の思考をなぞったもの、少なくともそれを試みたものだと信じているのだとしたら、それは物語への信頼が過ぎると言わざるを得ない。


 物語とはもっと自由で、不定形なものである。


 だが、「いまこれを書いている私」は敢えて、「この物語を書いてきたと思わせてきたあの女」をこれまで同様「私」と表現しよう。そんな頑なさもまた、物語の自由さに収まるものだ。


 もっとも、「いまこれを書いている私」が、「この物語を書いてきたと思わせてきたあの女」と言い切るつもりも毛頭ない。物語の中では、私は私を私として扱うことも、私を他人のように扱うことも、他人を私のように扱うことも可能なのである。


 これは「視点」についても同様のことが言える。小説は、塔に当たったいくつかのスポットライトである。だが、その塔の側に読者がいないとなぜ言い切れるのか。


 読者は塔を見ながら、同時に塔の読者たちからも「見られて」もいるのかもしれない。物語を読んでいるつもりが、視点が反転し、読者自身が物語としてことも、あり得るのだ。


 いまカメラは、その中心に捉えた「私」をズームアウトしていく。


 老人の言っていたカレー屋を含む雑多な通り全体が見渡せる。カメラは老人の後ろ姿を捕捉する。


 老人はカレー屋に入っていく。私はその間に、隣の売店で焼きそばと唐揚げとお茶を買った。「彼」はその姿を、向かい側の自動販売機の横から眺めていた。


 油断していた。


 倉庫に誰かがいる可能性など考えていなかった。「見つかった」という恐怖心がスパークして、彼は慌てて逃げ出した。


 倉庫の外に出ると、突然引きずられ驚く老人に、この場所にはこれ以上いる必要がないこと、すぐにカレーを買いに行って欲しいことを告げた。今日は人通りも多くて通行人にぶつからないとも限らないし、爺さんとの会話が聞こえてしまうかもしれない。だから俺は先に家に戻ってる。見つからないように、注意して帰るよ、だから爺さんはカレーを買って戻ってきてくれ。


 何を乗せるだ? と老人が聞いて、彼は一瞬何を言われているのか分からなかったが、それがカレーのトッピングの事だと気付くと、爺さんと一緒でいいと言って肩を押した。早く行きなよ、早くしないと、見つかってしまう。


 老人は戸惑いを浮かべた顔を何度か見せながら、それでも通りの人の流れに溶けていった。その直後、倉庫の扉が開いてが出てきた。


 予想していた通りだった。私は自分を追ってくるだろうと彼は考えていた。慌てた様子で小走りに彼の前を通り過ぎたが、ふと立ち止まって振り返り、彼の立つ位置に正確な視線を投げてきたので驚いた。


 まさか、見えているのか? 彼が自分の身体を見下ろし、その透明であるのを確認して再び視線を上げた時、そこには既に私の姿はなかった。


 私は通りに出、柴原老人の姿を見つけると、後ろから見てそうと分かる大きな深呼吸をして、早足に歩き始めた。


 他の通行人と接触せぬよう気をつけながらその後を追うのは簡単ではなかった。だが行き先は分かっている。彼の追う私が追っている老人は、ニブロックほど先にあるカレー屋に行くと分かっているのだ。彼は私の姿が人混みに紛れるのも気にせず、ゆっくり落ち着いて道の端を歩いた。そして今、老人がカレー屋から出てくるのを、売店の前に拵えられたプラスチック製のベンチに腰掛け、ペットボトル入りのお茶を飲みながら待っている私を見つけたのだ。


 私は何をするつもりなのだろうか。彼は倉庫で鉢合わせした瞬間のことを改めて思い出してみる。


 以前に女を押し倒した場所に、鞄があった。何だろうと思って近づいてみると、死角になった壁沿いに座る私と目が合った。目が合った? 無論、私から彼は見えてはいないはずで、視線が正確に正面衝突するなどという事はあり得ない。だが、声の位置から推測したのだろうか、目が合ったと錯覚するほど正確な位置に私は視線を刺してきた。


 私は立ち上がると突然衣服の裾を捲って下着を顕にした。不健康そうな紫ばった白肌につけられたさらに白いブラジャーが、薄暗い倉庫内に違和感ある白色の閃光をもたらした。


 私は目を見開き頬をひきつらせ、自らの行動に驚きながらも、それを撤回する気は一ミリもないというような顔をしていた。何かに似ていた。その顔は何かを連想させた。そう、かつて彼を通り過ぎていった女達だ。


 女が彼との関係に終わりの予感を覚えた時に見せたある種の発狂、一瞬で燃え上がった自らの感情に戸惑いながらも、その攻撃の意思を消すつもりはないというあの複雑な表情。それと同じものが私に宿っていた。


 私は熱く怒りながら、憎みながら、生温く濡れていた。卵型の輪郭は剥き出しの陰核を思わせた。それはぬらぬらと光って見えた。私は明らかに、性的な意味で昂っていた。考えてみれば、女達は彼を罵倒した後、必ず性行為を求めたのだった。


 老人が白いビニール袋を抱え、カレー屋から出てきた。私は素早く立ち上がり、お茶を鞄の中にしまうと、その後ろを追った。老人は農道へは向かわず直進し、やがてスーパーの中に入っていった。私は一瞬立ち止まったが、やはり後を追って中に入った。


 彼が二人を見つけたのは家電売場だった。老人は難しい顔をしてノートパソコンの一つに見入っていた。隣のレーンには万引捜査官のようにその姿を監視する私の姿がある。


 彼は老人や私ではなく他の客を気にしながら近づいた。容貌は失われたが身体は存在する。むしろ姿の見えぬことで接触の危険は高まるのだ。


 彼は客とぶつからないよう壁に張り付くようにしながら移動し老人の後ろに立った。値札には八万円程の金額が書かれてある。「分かんねえな……」老人の呟きが聞こえる。文字を打つだけだから一番安いやつでいいんだと言いたかったが、他の客や、そして一つ向こうのレーンからこちらを伺う私が居るのでそうもいかない。


 結局老人はもう一度「分かんねえな」と呟くと売場を離れ、立ち上るカレーの匂いに眉をしかめる客に注意を払うこともなく店を出て行った。

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