Scene #24 私

 次の日も朝から倉庫に行った。日曜の昼頃、コンビニにパンでも買いに行こうかと考えていた時、二十メートルほど向こうで音がした。


 私は音のした方を見た。扉が半分ほど開いて、小柄な老人が顔を出した。目が悪いのだろうか、老人は私の存在に気づいていない様子で、倉庫内をぼんやりと見ていたが、やがて後ろを振り返り、何かを言った。


 私は音を立てぬよう、死角になる壁際まで移動した。がしゃんと音がして、扉が閉まったのが分かった。「何もないですなあ」と老人は言った。


 内容が聞き取れるということは、老人が接近してきたということだ。話し方からすると他にも誰か居るらしい。


 私は途端に怖くなった。老人一人ならまだしも、二人がかりでは抵抗のしようがない。抵抗? そう、抵抗。老人は私を犯すに違いない。抵抗すれば殴られるかもしれない。老人は臭いだろう。あるいは一緒にいるのは、この倉庫の持ち主か不動産会社の人間かもしれない。無断で入り込んでいる私を警察に突き出すのかもしれない。そうなったら私は高校を辞める事になるのだろうか。


 何日も何日も待っていたはずなのに、この時の私は透明人間のことを考えてはいなかった。静かで穏やかなこの場所が、突然の災害に襲われたようなものだった。


「その女、さぞかし不思議がったことでしょうな」と老人が言った。「何しろ、見えねえんだから」


 私は緊張した。「見えねえ」という言葉に心当たりを感じたからだ。黙った。いや、元より黙っているのだが、より深く黙り、耳を澄ました。


「そうでもなかったけど」


 もう一人の声。ひどく高い。女のような声だ。内側にあった熱が皮膚の表面に押し出され、立ち上る。全身に鳥肌が立ち、蒸発する。


「見えねえのに、ですか」


「不思議がってる感じはしなかった」


 二人がしているのはここでレイプされた女の話だろうか。だとしたらなぜそれを知っているのだろうか。いや、一介の女子高生が知っているのだ、誰が知っていても不思議はない。一度現場を見ておこうと考える輩が居てもおかしくなく、そこにじっと詰めている自分は、「私も犯して下さい」と言っているようなものではないか。


 私は自分の軽率さに、目の前でシンバルを鳴らされたような衝撃を覚えた。だがそれと同時に、先ほど聞こえた奇妙な声が、気になった。声の主は誰なのか。


「よく見つけましたな、こんなところ」老人は言いながら中をうろついているようだ。気配で分かる。徐々に近づいてくる。


「昼飯は何にしますか、店で喰えればいいんだがねえ。近くにカレー屋もあるですよ」


 動きは止まる。老人は立ち止まる。五メートルほどだろうか。向こうの死角という事は、こちらにとっても死角という事だ。姿は見えない。神経が過敏になり、耳が冴え、心臓の音が聞こえる。この音は外部には漏れていないだろうか。


「なんでいきなり昼飯の話なんだよ」


 例の声だ。やはり何かがおかしい。普通の人間の声ではない。私は以前テレビで見た、宇宙人との遭遇を現した再現映像を思い出した。銀色に光る宇宙人が、確かこんな声だった。


「なんでって、腹が減りましたよ、私は腹が減ったですよ。エビとかイカとか乗せますから。それに納豆なんてのもあるですよ。辛いのにしますか。カレーはね、あんた、皆好きですね。店で喰えたらいいんだけど、透明人間がカレー食べてたらねえ、あんた」


「持ち帰りにすればいいじゃないか」


 透明人間。透明人間。確かにそう言った。そうか、あの声は。


 私は一瞬、安堵すべきなのか緊張すべきなのか分からなかった。私の頭は、特定の感情を作りきれなかった。それは私をかき回した。素早い瞬きを繰り返した。そうしている間に、「確か奥の方だ。あまり覚えてないけど」老人よりもさらに近くから聞こえる声。私は驚いて縮こまり、視線の置き場を探して眼球を回転させ、そしてハッとする。鞄。鞄が置きっぱなしになっている。


「もう行きましょう、腹が減りましたよ」と老人。「ちょっと待って、これは取材なんだから」その声は限りなく傍から聞こえるのに、その声の主の姿は見えない。おかしいおかしいおかしいおかしい。いや、おかしくなどないのだ。私は最初からこうなることを望んでいたではないか。私はずっと、彼との出会いを、彼に犯されることを――


「パソコンが欲しいんだ。パソコンがあれば――」


 そこで奇妙な声はギロチンを落とされたように唐突に途切れた。足元に転がった鞄に気付いたのかもしれない。あるいは、壁に張り付いた私に。


 彼はそこに居た。見えなかったが、目の前に居た。


 私は唾を飲み込むと、覚悟を決めて立ち上がり、着ていた白いブラウスの裾を捲り上げブラジャーを顕にした。


 目を見開いて、足元にある想像の彼を象った造形物を破壊するつもりで一歩前に出ると、「本物の彼」の立っているだろう場所を凝視した。


「パソコンって、コンピューターですか。電気屋はちょっと遠いですよ、あ、でも、スーパーの中にも売っている場所があります」


 老人の声がやけに遠くから聞こえる。離れていったのかもしれない。


 は私を見ただろうか。


 数秒の後、彼は私の前から姿を消した。微風を伴って、足音には聞こえない枯葉同士が擦れ合うような雑音が遠ざかっていく。微かに体臭のようなものが漂い、私の鼻はそれを逃すまいと強力な掃除機のごとくに息を吸い込む。


 「わっち」と老人の変な悲鳴が聞こえ、次に物を引きずるような足音、小さいが鋭い呟き声、最後に金属製の扉が乱暴に閉められた音が残されて、唐突な来訪者にざらついていた空気が、一瞬で凝固する。


 数秒後、元の静寂に身体を委ねようと空気の弛緩し始めたのが分かった。


 私は服を直すと、足元を見下ろして、そして砂曼荼羅をつま先で丁寧に破壊した。

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