Scene #23 私

 その後三日連続で私は倉庫で放課後を過ごしたが、透明人間が現れることはなかった。


 だが、私はこの密かな目的の為に授業終了とほぼ同時に教室を出るという習慣を得ることができた。人目のない倉庫は、教室よりも居心地がよかった。


 私は学校から自転車を飛ばし、誰もいない倉庫に辿り着くと小説を読んで彼を待った。部活にも所属せずアルバイトもしていない私には時間が充分にあった。


 この時読んでいたのは『鬱』というタイトルの作品で、これは鬱病についての情報書籍ではなく小説だ。表紙には鉛筆でこすり写したような「鬱」という題字が大きく書かれてある。購入する際、青白い顔をした書店員はカバーを掛けるかと問い、私はそれを断った。書店員は薄く笑って、頷いた。書店員は私がこの本を電車やバスの中で読むと考えたのだろう。


 電車やバスの中で『鬱』と大きく書かれた本を読んでいる乗客を、他の乗客は奇異の目で見る。書店員は私を馬鹿だと思ったのかもしれない。だが実際、私がこれを読んでいたのは学校の教室である。クラスメイト達から私が鬱病についての本を読んでいると思われても構わないと思える程、私は事実、奇異なのだ。


 『鬱』は純文学だ。長い小説で、読むのに長い時間を要した。純文学はつまらない。だが、余白がある。一から十まで過不足なく説明された小説にはない隙間がある。優れた描写には余白と倍音がある。


 私は手の中に収まる数万字、数十万字の文字列に没頭し、振り回され、安堵し、あるいは羞恥を覚え、一方では彼の到来を待ち、それが叶った先に自分達が絡みあう様子を事細かに妄想し、妄想がうまい方向に進まなければ一旦停止し、巻き戻して、シナリオを変更し、テイクツーを撮る。小説の世界に塗れつつ同時に自己の妄想に集中できるという事自体が、純文学の余白の存在を証明している。


 私は『鬱』と共に、あるいはその中で、彼の到来を待った。クラスメイトの話を私は信じ切っていたし、ここまでやっているのに、信じない訳にはいかなかった。


 唯一の証拠としてコンクリ床の上に残された、乱れ弾け飛んだ砂の形状を、私は大切な神仏のように扱った。決して触れぬように心がけ、立ち座りの際に発生する僅かな風にも注意した。チベット仏教の砂曼荼羅は、僧侶数人が長い時間をかけ作り上げる緻密な砂絵だが、諸行無常の教えに従って、完成して直ぐに破壊されてしまうのだという。私はそんな境地をとても理解できない。


 私はまだ何も手に入れていなく、あるいは既に全て失っている。私は『鬱』を読みながら片目で地面の上の曼荼羅を見る。曼荼羅。透明人間が残した砂曼荼羅。私はこれを、彼に会うまで決して破壊しないことを誓おう。


 土曜、私は母親に図書館に行くと言って家を出、倉庫で過ごした。誰も現れなかった。私は砂曼荼羅の傍で小説を読んで過ごした。目が疲れると、瞼を揉みながら、頭の中で砂の細かな形状、起伏から妄想を具体化し、思いつきのような自慰行為をした。それにも飽きると私は小説を鞄に仕舞い、砂曼荼羅の上に彼を「建設」していった。


 朧げだった当初のイメージが、徐々に具体的な輪郭を得、質感を得、性器を得、勃起を得た。できあがった彼の想像図から建設用の足場を取り去ると、まるで以前からそこにあったと思うような、女に覆いかぶさる彼の後ろ姿が完成した。もちろん彼は透明人間なので、その姿は透明で、見えないのだが。


 私は何を望んでいるのだろうか。具体的行為として、私は彼に抱かれること、彼の性器が私の傷口に埋まり摩擦される事を求めてはいた。だがそれは目的そのものではなく、別の何かを得るための手段にも思える。透明人間とのセックスが私にとっては何かの「象徴」なのだ。


 学校で顔を合わせる男子生徒の殆どは醜くて不潔だ。それでいて女に対する性的な欲求は強烈で、どれだけ隠しても水蒸気のように吹き出し教室の空気を濁らせる。彼らの制服から漂う汗と暴力の臭いを、ジャージに染み付いた精液の臭いを、私は激しく嫌悪している。だが何よりも嫌なのは、彼らの性的欲求は可愛いクラスメイト達に向けられたもので、私には一ミリも向けられていないという事実であった。


 彼らの目に私は映っていなかった。醜く不細工な彼らにさえ、私は欲求してもらえないのである。ましてや一部の男子生徒、可愛いクラスメイト達と付き合うような優れた容姿の生徒が私を求める事はない。私はだから、格好のいい彼らをすら憎まねばならなくなる。


 憎しみは私の心を守る防御壁として機能するが、一方で自らを閉じ込める檻となり、私はその場から一歩も動けないままに、憎んでいるはずの男子生徒に激しく姦される妄想に取り憑かれる。嫌がる私を組み敷く汗臭い身体。妄想の中で私は常に犯される側だった。欲求は彼らの方から私に向かって進む。決して、私が望んだことであってはならなかった。


 意味のないお喋りに満たされた教室の中で、私の日常は、何の起伏もないまま、過ぎていった。両手に収まる文庫本だけが、出来事を運んできた。だがそれは、自分の関与できない出来事、物語である。


 現実世界では、誰も私を好かず、誰も私を憎まなかった。クラスメイトのあの話を耳にした時、目に入る活字の隅に、揺れる縄梯子が降りてきたのを私は感じた。どこからか現れたヘリコプターから垂れる縄梯子、アニメなどで悪役が苦し紛れの悪態をつきながらぶら下がるあの縄梯子が一瞬、私の読む『鬱』のページの隅に現れたのだ。


 私はそれを掴んだ。

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