Scene #22 私

 発端はクラスメイトの立ち話だった。


 私の席のすぐ傍で、数人の女生徒が談笑していた。放課後で、沈みかけた太陽が斜めに差し込み、教室を茶色と焦げ茶色のツートンカラーに染めている。


 透明人間?


 女生徒の一人が大きな声を上げた。


 ちょっと声デカいよ、これ本当の話なんだから。私の従兄弟の友達が……


 女たちの声は三つ編みのように絡まりながら、ひとつの奇妙な「事件」の姿を浮かび上がらせた。私の興味をよそに、女たちはすぐに別の話題を話し始め、笑い合いながら教室を出て行った。


 女の話した空き倉庫に私は心当たりがあった。


 教室にはまだ多くの生徒が残っていたが、私は帰り支度を始めた。読んでいた小説を鞄に入れ、深呼吸して、立ち上がってみる。


 教室の中を歩くだけで喉が詰まる。誰かに見られているかもしれないと思うと、恥ずかしさで死にそうになる。だからいつもは、皆が帰ってしまうまで私は小説を読んで過ごす。だが今日は、居てもたってもいられなかった。


 私は自転車を飛ばし、夜の訪れる前に倉庫に辿り着いた。自転車は通り沿いにあるコンビニの脇に止めた。人通りは少なくなかったが、気にならなかった。私は堂々と通りを渡り、崩れかけた塀に隠された倉庫の入り口へと進むと、その乳白色の金属扉を引いた。独特の臭い。倉庫ではなく工場だったのかもしれない。


 私は躊躇なく踏み入ると、静かに扉を閉める。黄色の砂が撒かれたような地面の上で視線を滑らせる。積もった砂が厚みを持っている。その上にいくつかの足跡があった。それは倉庫の奥の方に向かって続いていた。


 クラスメイトの話によれば、ここで女が犯された。私は足跡の終わりにできた、ひときわ砂の乱れた地面を見下ろし、考えた。


 小さな針を飲み込んだような違和感が喉元に生まれ、それは喉元に留まったまま、私の下腹部に向けて一直線に伸び、既に熱く熟れ始めていた性器を内側から貫いた。


 違和感?


 いや、それは明らかな期待であった。私も透明人間に犯されたかった。


 クラスメイトの従兄弟の友達が遭ったという、透明人間による強姦被害。犯された女は、そもそも強姦されたことを口外すること自体に抵抗があっただけでなく、自分の精神状態が疑われる事を恐れて公には言い出さなかった。ごく親しい友人にだけ話た。透明人間に犯されたと言って信じる者はいない。


 だが私は信じた。信じたというより、信じたかったという方が正確かもしれない。群衆が花火を見上げるように、クラスメイトの話に、自分の中のあらゆる細胞が集中したのが分かった。感動で目が潤んだ。


 ずっと探していた。そのもやもやした感情が、透明人間という言葉の表すイメージに張り付いて、一つの「像」を作り上げた。理想の男。


 お姫様の物語に出てくる王子様は画一的で個性がない。整った顔立ちと柔らかな物腰、フォーマットに嵌めこまれた人工物でありながら、女性の理想像を的確に捉えている。言うなれば王子とは張形はりかたなのだ。


 常に勃起し求めればいつまでも性的刺激を与え続けてくれる人工の性器。理想の容貌を落とし込んで石膏で固めた愛玩具。そんなを夢見ながら、一方で、自由度のない硬直に不満足を覚えていた。だが、透明人間、つまり透明で容貌を持たない人間は、容貌を持たないという事によってあらゆる容貌を選択できる。容貌のないことは、容貌の無限性を示していた。


 しゃがんで手を伸ばし、乱れた砂に触れた。反対の手は確かな意志を伴いスカートの中に、さらには何年も履いて表面の毛羽立ち始めたコットン製のショーツに押し入り、固く濡れた陰毛を割って、生々しいに触れた。


 左手はコンクリ床の冷たさを受け継ぐ砂、そこに微かに感じる気がする透明人間の残した「体温」が、指先から腕、肩を通って反対側へ、それは右の腕を過ぎ、血の代わりに粘ついた体液の滲み出る傷口に至る。透明人間の乱れた床と自らの熱く熟れた傷口が一本の線で結ばれる。


 傷口は汁を吐き出し、熟している。女はここで、どんな風に犯されたのだろうか。透明人間を「対象」と考える私の視点は自然と女の方に重なる。姿の見えぬ相手に組み敷かれ、体内に侵入されるとは一体どんな気分なのだろう。その女に詳しく聞いてみたい。私自身も同じ体験をするだろう事とは別に、ただその女がどう感じたのかを聞いてみたい。


 女は透明の男に理想の容貌を与え、愉しんだのだだろうか。それともそれは、数多存在する通常の強姦と変わらぬ、単なる性行為の一つに過ぎなかったのだろうか。


 私はその女を嫌いだと思った。女が積極的に透明人間の貴重な容貌を愉しまなかったとしたら、それは彼の存在に対する冒涜である。怒りが沸いて、性器に埋まった指先に嫌らしい意志の力が加わった。


 伸び始めた硬い爪が私の気持ちのいい部分を的確に刺激する。だが、思い通りに動く指先に私は嫌悪を感じる。自分の指は飽くまで自分の指だ。自分の意志によって動く機械に過ぎない。


 粘膜を乱暴に引っ掻きながら私は昂りの醒めるのを感じた。引き抜いた指先を眼前に掲げにおいを嗅いだ。独特の悪臭が感じられた。もし今ここに透明人間が現れこの臭いを嗅がれたらと思うとゾッとして私は指先を口に含んで舌でこそぐように舐めた。舐めながらその指を、透明人間の見えない、だが脈打つ有機性を持つ性器に見立て、口いっぱいに頬張る自分を想像した。日が沈んだのだろう、倉庫はいつの間にか色彩を失っていた。明日からはもう少し早く来ようと私は思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る