Scene #20 透明になった男

 神社の前を掠り、上へと続く獣道に入った。坂を登った。


 緑は輝いていた。魚が鳴き声をたてる動物なら殺せない、と誰かが言っていた気がするが、草木もまた鳴き声をたてるなら恐ろしいものだろうと彼は考えた。しゃがみこみ、艶々した雑草を無作為に引き抜いて空に投げる。


 それは生々しく湿り、一塊になったまま地面に落下する。受け止める地面もまた同じ雑草に占められていて、彼はなぜか、透明人間である自分との共通点を見たような気がし、有無を言わせぬ、輪郭の不明な、しかし強力な安心感に襲われる。視線を上げる。


 そこにはまさに、空以外を覆った緑の絨毯が広がっている。ただの草木の連なりに目眩のするような非現実感を覚える。ゴミの類が一切ない事が理由かもしれないとふと思った。人の通らないせいで、この踏み固めただけの獣道は二三日で雑草に埋もれそうになる。彼を見るものは誰も居ない。


 人の殆ど住まないここでは容貌の有無に関わらず、透明かどうかに関わらず、人間は誰に認識される事なく自然に飲み込まれ、あるいは異物として食い破られる。風は彼の表面を滑り、溌剌と過ぎていく。


 鳥の声、虫の声すら拒絶するような圧倒的な自然、太陽に暖められて膨張する空気、彼は早くその一部になりたいと考える。この自然の強烈な一体感は彼を疎外する。彼が異物であることをありありと示す。彼はわざと声に出して笑ってみる。それで自分の入り込む隙間ができるとでも言うように。


 だが、やがて見えてきた集会所が彼を落胆させる。築年数の長さはそれなりにこの空気との連携を強めてはいるが、その壁に這うツルも、錆びた屋根の上で咲く花も、やはり集会所を破壊しようと攻撃を与えているように見えてしまう。


 不自然なのだ。ここでは人間の作ったものは破壊されねばならない。


 妙な自嘲を覚えながら風呂に水を張った。適当にパネルを操作して湯を沸かす。柴原曰く、柴原以外にこの風呂を使う人間は今や一人もいないとの事だが、鵜呑みにするわけにはいかない。坂を登った先に四五軒の家がある事は数日前、彼自身の目で確かめてあった。数十メートル手前から眺めただけだったが、確かに生活の痕跡があるように感じられた。


 人の姿を見たわけではない。だが、いまこの瞬間、誰が扉を開けて中に入ってくるとも限らないのだ。柴原は自分以外に誰もこの風呂を利用していないと考えているようだが、柴原が仕事で不在にする平日の昼間、誰がどうここを使っていても柴原には分からないではないか。


 だが彼は風呂に入るつもりだった。柴原の庇護の範囲から一歩踏み出す行為が必要なのだ。それが老人の異常性を保つ為に必要なだった。この場所にあっては、人間の作ったものは破壊されねばならないという清々しい確信が彼を勢いづけていた。それはあるいは単なる思考停止状態だったのかもしれないが、一方で彼は、ノートという連想から既に脳内で形作られ始めていた自分の手記、その内容を意識し始めてもいた。


 透明人間の告白。


 そこにはやはり出来事が必要だろう。透明人間という特殊な状態を象徴する、奇妙で面白い出来事。例えば、柴原以外の住人に見つかるかもしれないという危険を犯してまでも風呂に入るというような。


 部屋の中に閉じこもり、誰にも会わず、誰とも話さず、ただ時間の過ぎるのを待つだけでは、普通の引きこもりと同じだ。普通の人間が他人との関係性の中に自分の存在を規定していくのと同様、透明人間もまた透明であることを他人に知ってもらわなければ、透明人間としての存在価値を発揮することができないのだ。


 あるいは身体が透明化するそのシステムを論文のような形で発表できれば、学術的な意味で大きな価値を持つだろうが、自分の透明になった経緯を彼自身全く理解していない以上、それは叶わない。それならば、彼にできるのは行動であり、他人との関係だ。


 透明人間として行動し、柴原老人だけでなく他の人間とも何とか関係を構築する。そこでの行動を書き記す。出来事を記録し、描写する。そうすることで、彼は新たな価値を手に入れることができる。透明になる方法ではなく、透明になって考えたことを書く。出会った人間を書き、経験した出来事を書く。透明人間が透明を考える。透明考。自己嫌悪や自己批判も、むしろいいスパイスとなることだろう。


 やがて炭酸飲料のように、無数の気泡が湯の中で弾け始めた。彼は手を差し入れ、微かにぬくもりを帯び始めたその湯の中に、自分の透明な身体が、透明な輪郭を浮かばせながら沈み込む様子を思い浮かべた。

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