Scene #19 透明になった男

「遅刻するよ、爺さん」


 彼は壁掛け時計を見上げ、言った。柴原老人は首を傾げたまま何かを考えている風で、彼はその様子を見ているのが嫌だった。実際、いつもより十分ほど遅い。


 彼の言葉に柴原は時計を見上げ、眼前の空気が爆発したように目を瞬いた。「わっち」と言って慌てた様子で残りを喰い、すまんが片付けお願いできねえだろうかと膝に手を置き立ち上がる。


「いいよ」と彼は言う。


 柴原は台所に行き、ぎいぎい床を軋ませて作業着に着替えると、「じゃあ、行ってくるですが」と居間に顔を差し込んで言う。


「冷蔵庫に弁当が入ってますから、昼はそれ食べて下さい。チンすればあったかくなりますでね」


 いいから早く行きなよ、彼は言う。柴原は頷いて、外出はせんでくださいよ、見つかったら大変だと言いながら再度台所に消え、やがて出て行った。


 ……


 一人になると空気が変わる。


 耳の中の空気が膨張し、耳栓をしたように、音が消滅する。彼はしばらくその感覚を楽しむ。透明な時間の始まり。


 柴原と居る時は自分の透明を忘れる事ができ、また、忘れてしまう。一人になると思い出す。彼はちゃぶ台の上のプラスチック皿をコンビニ袋にまとめて台所に持って行った。床に柴原の脱ぎ捨てた部屋着のズボンが落ちている。


 彼は袋をシンクに置くと、落ちたズボンを持ち上げて、洋服屋でサイズを確認するように、自分の腰に当ててみた。物干し竿にかけられた洗濯物のようだった。一瞬、履いてみようかとも考えた。居間の押し入れには柴原老人の仕事着である作業服が何着か架かっている。ズボンだけでなく上着も身につければ、洋服屋のマネキン程度には人間らしく見えるかもしれない。


 人間らしく?


 彼は見えない頬を持ち上げて微笑み、腰に当てたズボンを丸め、テーブルの下に置かれてある洗濯物用のカゴに放り込んだ。人間らしく、だって? カゴの中には柴原の衣服しか入っていない。


 透明になって以降服を着脱するという習慣がなくなった。寒さも暑さも感じなかったが、それは気温や湿度がたまたま快適なレベルだったからではないような気がした。


 視覚も聴覚も嗅覚も味覚も基本的には以前通りだが、皮膚、というよりその内側の筋肉や骨といった部分まで含め、自分で自分の身体をあらためた時の感触には大きな変化があった。


 数日前、柴原に肌を初めて触らせたが、あれ以来柴原の様子がおかしい気がする。彼がその透明な身体をどう扱っているのか、どういう感覚がするのか、やたらと質問してくるようになった。答え次第では先程のように、首を傾げて固まってしまう事もある。


 共同生活に慣れてきたのだろうか、会った当初は病的なほど一方的で頓珍漢な言葉を発し続けていた柴原は、ここ数日、ひとつの方向性を獲得しつつある。取り留めのなかった言葉や態度が、彼への疑問として収斂しつつある気がする。奇妙な事だが、柴原は多分、彼に触れたことで、彼が透明人間であることを初めて実感したのだ。


 透明であるにも関わらず物質として、物体として存在している。この違和感はやがて恐怖に変わるだろうか。恐怖は往々にして怒りや憎しみと手を組むものだ。そして怒りや憎しみは思考に方向性を与える。暴力的に思考を整理する。彼という異常な存在に事で柴原の思考は整理されつつある。


 目を開けながら何も見ない、目を覚ましつつ常に眠っているような状態で生きる柴原老人。意識は拡散し、静かに存在していた。意識には総量があるから、その行き先が分散すればするほど一つ一つの深度は失われる。


 柴原は三百六十度全方向に意識を分散させ、海の底で揺れる海藻の如き生活を送っていた。そこに彼が現れた。皮肉なことに、透明人間すら疑問なく受け入れるほどの異常性が、それに輪をかけて異常な彼の状態により失われつつある。


 やがて柴原は正常を取り戻してしまうのかもしれない。柴原は方向性を獲得しつつある。収斂しつつある。「正常な老人」は透明人間との生活を拒むだろうか。仮にこの家に居られなくなるような事があれば、彼はまた、彼の存在を受け入れてくれる稀有な存在を探さねばならない。


 そんな事は無理だ、と彼は思った。柴原を憎まなければならない。最も近い距離に居ながら徹底的にその侵入を拒むこと。老人の異常性を保たせること。特定の部分に意識が向く事を防がなければならない。彼は居間に戻っていつもの場所に座り、考えた。どうすればいいのだろう。


 外出せんでくださいよ、見つかったら大変だ。柴原の言葉が思い出される。脳内で再生されたそれはまた違った響きを見せる。柴原の彼への思いやり、同居人が「普通の人達」に迫害される事を心配しての言葉だったはずが、彼をこの家に閉じ込め、その異常性を自らが独占しようと企む悪人のそれに置き換わる。いや、それはさすがに考え過ぎかもしれない。


 少なくとも今のところ、柴原は彼を、彼との生活を守ろうとあれこれ手を尽くしてくれている。ここに来て以降、柴原に心配されるまでもなくこの部屋に留まり外界との接触を避けていた。あのカップルに部屋を追われてから柴原を見つけるまでの一日半の間に、安心して眠れる場所を持つことの重要性を痛いほど感じていたからだ。


 そう、安心して眠れる場所を持つこと。それはもしかしたら、食うことよりも重要なのかもしれない。


 彼は溜息をついた。わざとらしい、景気付けのような溜息だった。勢いをつけて立ち上がると、窓の前まで進み、その黄ばんだカーテンを少し開け、外の様子を伺った。灰色に見える空気の中で揺れる木々以外に何もなかった。


 ノートが欲しい、と唐突に思った。この孤独な戦いを記すノートが。彼はよし、と小さくつぶやくと、窓を開けた。冷たく湿った日陰の土の上に、靴も履かぬまま飛び降りた。

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