Scene #18 老人

 ……


 移動は突然終わる。


 傷のある黒壁はなくなり、輪郭の明るく滲むスポットライトの中に、淡い色彩の何かが浮かぶ。


 視点は光に近づいていく。砂壁に囲まれた畳張りの居間、既に見慣れた柴原の部屋だ。


 茶碗を持ち白米を口に運ぶ柴原の顔を見る。ちゃぶ台には黒いプラスチック皿に入った惣菜が並んでいる。餃子、焼き鳥串、枝豆。紙袋に入ったコロッケもある。考えるまでもなく、柴原は食事の最中だ。


 料理は全て、仕事帰りにコンビニで購入した。完璧に形の揃った餃子はプラスチックの偽物に見える。コロッケを箸で半分に割ると、中にグリンピースが見えた。コロッケ一つの中に入れるグリンピースは何個だと決められているのかもしれない。


 柴原は嫌な気分になった。先行き短い自分だけなら、体に悪い添加物でいっぱいのコンビニ惣菜でも構わないが、あの人はどうだろう。ある程度の調理器具を揃え、自炊するようにした方がいいのかもしれない。生姜焼きとか焼き飯とか、あるいは野菜を切っただけのサラダくらいなら、調理経験のない自分にも作ることができるだろう。


「フライパンを買うですよ。それに鍋も。コンビニには料理の雑誌も売ってるし、ああいうので勉強すれば私にだってできると思うです」


「いいよ別に」


 向かい側から声がする。柴原はあの人の持つ、真新しい箸をじっと見つめる。それは餃子を掴み、ちゃぶ台から三十センチほど上がった所で静止する。微かな液体音と共に、餃子は突然、消滅する。


「それにしても、何度見ても奇妙なもんですなあ」


 自炊の件を早々に忘れ、柴原老人はにこやかに感心してみせる。食事の時間には、見えぬはずのあの人の輪郭が感じられる。


「奇妙って、何が」


 箸が一瞬静止する部分が口だ。ちゃぶ台との距離からその身体の大きさが想像される。その高さは柴原の口とほぼ平行線上にある。自分同様に小柄なのだろう。


「突然パッと消えちまうんだもんなあ。それ、味はちゃんとするですか」


「するよそりゃ。ちゃんと餃子の味するよ」


 今度は茶碗が持ち上がり、宙に浮いた箸がその中から一塊の白米を持ち上げる。斜めに上昇し、静止し、消滅する。柴原は微笑んでそれを見つめる。


 奇妙な同居人。共に暮らして既に一週間近くが経過したが、新鮮で愉快な驚きは毎朝毎夜訪れる。特に柴原が驚かされたのはその皮膚の不思議な感触である。それは一般的な人間のそれとは違った質感を持っていた。


 柔らかく、だが硬くもあり、つるりとして引っ掛かりがない。繊維のようでもあり、爬虫類の腹のようでもある。なんとも形容に窮する感触だ。


 彼が柴原に触れる事を許したのはここに来て三日目、ほんの数秒間だったが、柴原はその数秒間で彼の特異性を初めて目の当たりにしたような気になった。側溝で助けられて以降初めて、彼が透明であることの不可思議を正しく認識した。逆説的だが、その肌に触れた事で柴原は初めて彼の存在をのだ。


 自分の与り知らぬ技術で透明化していると思い込むことで、柴原は穏やかな思考停止状態に自分を置くことができていた。だが、自らの指先を通じて感じられたその独特の質感が、視界を塞ぐ分厚いカーテンを取り去ってしまった。こんな爺には分からない、分かるわけがない、という諦観で固められた、居心地のいい部屋の壁が破壊された。柴原はありありとあの人を見た。姿は見えないが、確かに誰かがそこに居て、柴原はその奇妙な肌に触れたのだ。


 どうして透明なのだ、という柴原の問いに、分からない、と彼は答えた。


「鏡の前に出たら自分が写ってなかった。後ろの壁が見えてるんだ」


「はあ。そら透明だから後ろの壁が見えるでしょう。透明じゃなければあんた、後ろが透けて見えることなんてない」


「そんな事は分かってる。そういう事を言ってるんだ」


「悪いこともいろいろできるやね、透明なら。女便所だって覗き放題だ。それに何だって手に入るでしょう、金なんて払わなくていい、全部盗みゃいいんだものなあ。今度の買い出しにゃ一緒に行きますか」


「そんなに単純じゃない。言っただろ、物は透明にならないんだ。物が宙に浮いて移動してれば目立つ。その物を追って来られれば俺は透明でも何でもない」


「ははあ、なるほどなるほど」


 包帯で全身を巻いてサングラスをかけた奇天烈な人間、柴原が透明人間と聞いて思い浮かべるのはそんなイメージだ。テレビや本の挿絵等で見た。


 透明人間というからにはは透明なのだろうが、透明な身体ではが伝達できない。だからテレビや本は包帯とサングラスを必要とした。


 だが、透明でない普通の人間が全身に包帯を巻きサングラスをかけても同じ姿になるわけで、そもそも透明人間を演じている役者は、透明人間ではない。視聴者も読者も、そんな事は分かっている。


 透明人間という存在はつまり、なのだ。包帯を取ればそこには見えない身体がある、サングラスを取れば見えない顔がある。見えないが、存在する、存在するが、見えない。この根本的な不調和は、透明人間はそういうものだという決め事によって成り立っている。


 だが柴原老人は、透明人間に、実際にのだ。


 柴原は彼の肌の独特な質感を得て、初めて彼の透明であることの不思議を認識した。それから四日ほど経った。


 柴原は彼の言葉を考える。そして彼を見つめる。


 否。彼は見えないので、微かに感じられるその輪郭を描きながら、浮遊する茶碗や箸を見つめる。


 茶碗も箸も通常通り見える。彼の箸が再び白米を持ち上げる。白米は、餃子に垂らした酢醤油が付着して一部が赤茶色に染まっている。白米は斜めに上昇し、停止し、消失する。


 柴原は首を傾げて、「食い物は消えるんだもんな」と言う。彼曰く、口内に入れたものは消えるのだそうだ。自分の透明な皮膚は見えないだけで存在はしており、舌先でなぞれば並ぶ歯の感触も、物が喉を通る実感もあるのだ、と。


 つまり彼の口元で消失した白米や餃子や枝豆はその瞬間に容貌を失ったというより、彼の透明な歯、透明な唇、透明な鼻下の皮膚の向こう側に隠れたという事らしい。


 咀嚼し飲み込めば、それは食道を通り胃に落ち、やがて腸に達する。その間もそれらは彼の見えないが存在する肉体によって目隠しされ、見えない。


 彼は部屋を出る時、できる限り物を持ち出したいと考えた。パソコンや洋服など嵩張るものは無理だが、せめて鍵だけでもと口内に放り込んだのだそうだ。鍵は姿を消した。口を開ければそれは見えた。閉じれば消えた。


「で、持ってきたですか」


 柴原が聞くと、彼はいや、と答えた。


「すごい味がしたんだ。無理だよ」


 だが、彼の糞は透明だという。小便もだ。その事に柴原は違和感を覚える。

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